4.神獣のつがい
神獣――それはわかる。子どもだって知っている。
神獣とはその名の通り、神の力を宿した聖なる獣だ。かつて天上の神々が獣の姿を取り、地上の獣と契って生ませたと伝わっている。
彼らは自由気ままに生き、人の姿を取って人にまぎれて暮らすこともあれば、秘境で誰も近づけずひっそり過ごす者もいる。
だがごくまれに、特定の国に居着き、加護を与えることがある。神獣の加護を受けた国はあらゆる災害から逃れ、豊穣が約束される。
ゆえに統治者は神獣の加護を熱望するが、神獣は気まぐれな上、加護と引き換えに対価を要求すると言われる。求める対価は神獣によって様々だが、小国ではとうてい支払えない莫大な対価だという。
グエル帝国はこの大陸において、神獣の加護を受ける唯一の国だ。
神獣の名はイグニアディス。紅蓮の炎をまとう、気高き獅子の神獣だと言われている。神獣と目通りが叶うのは皇帝及び皇族だけなので、アルベルティーヌはもちろん見たことはない。
だが天災と無縁の繁栄は神獣の加護の賜物である。グエル帝国皇帝ヴァレリアン三世はヨゼフィーネ皇女の他、あまたの皇子皇女を持つ子福者だが、神獣の権威を求め、あちこちの国々から降嫁や婿入りの打診が相次いでいる。
だからアルベルティーヌがフレデリクの妻に皇女を願った時、一蹴されて当然だと思っていたのに、すぐさまヨゼフィーネ皇女を降嫁させると返答があって驚いたのだ。ヨゼフィーネ皇女は皇后腹の嫡女、聡明さを謳われ、女性も帝位に就ける帝国では女帝の座さえ狙える存在なのだから。
フレデリクは『さすが大国の皇帝、私の優秀さがわかったのか』と悦に入っていたが……。
「父、ヴァレリアン三世が私をラマリアンへ輿入れさせたのは、イグニアディス様のお目付け役を務めさせるためです」
「なっ……!?」
床に座らされていたフレデリクが気色ばんだ。今気づいたが、あの体勢はニコレットが東峽で最大の敬意と謝意を表すと言っていた『セイザ』ではなかろうか。
「イグニアディス様と面識があり、ある程度話が通じる皇女は私だけだったのですわ。それに皇后腹の皇女でもなければ、尊きつがい様に失礼に当たりますから」
「……っ、それではまるで、私ではなくその売女のために輿入れしたかのようではないか!」
苛立ちのまま叫んだフレデリクが炎上した。うっかり発言に非難が集中することを東峽では炎上するって言うんですよ、とニコレットが教えてくれたことがあるが、文字通り燃え上がったのだ。
「ぐわあああああっ!?」
「へ、陛下……!」
背後のマルタンが血相を変えて這い寄ろうとするが、帝国の騎士たちに阻まれた。彼らもヨゼフィーネ皇女もまるで慌てていない。衝撃を受けているのはアルベルティーヌだけだ。
「ティーヌは見ないで。汚れますから」
彼がそっとアルベルティーヌの目を大きなてのひらで覆った。
視界がさえぎられてもわかる。圧倒されるほどの魔力が彼の長身から放たれ、フレデリクを燃え上がらせているのが。
「貴様、今、なんと言った?」
彼が低く言葉を紡ぐたび、室内の温度が下がっていく。フレデリクを包む炎は激しさを増すばかりにもかかわらず。
(……いいえ、違う)
アルベルティーヌが――人間たちが本能で畏れているのだ。彼という、神を宿す獣を。
「俺のティーヌを、なんと呼んだ?」
「ぐ、あ、あっ……!?」
フレデリクの全身を覆っていた紅い炎がふっと消え失せた。
彼の指の間から目を凝らした限り、フレデリクの衣服は焼け焦げておらず、どこにも火傷を負った様子はない。あれほど灼熱の苦痛にのたうち回っていたのに。
「……、売女を、売女と呼んでなにが悪いのだ。その女は病んだお祖父様をたぶらかし、まんまと王太后の座におさまったあばずれだ! ……っ……、あ、あああっ!」
再び燃え盛る炎がフレデリクを包んだ。聞くに耐えない絶叫が響き渡り、アルベルティーヌは身をすくめる。
蛇蝎のごとく嫌われてきたし、アルベルティーヌも愛情を覚えたことはないが、こんなふうに苦しんで欲しいわけではない。でも抱きすくめる腕は強すぎて、身動きが取れない。
「お鎮まりを、イグニアディス様」
声を上げたのはヨゼフィーネ皇女だった。
「ソレにはまだ生きていて頂かなければ困ります。つがい様のためにもならないかと」
「……」
彼は何度か息を吸っては吐くのを繰り返し、小さく首を振った。紅い炎がふっと消え、フレデリクはどさりと床に倒れる。
(……悩み事をする時、深呼吸する癖……)
かつての彼と同じ癖。同じ外見。
ではやはり、この男は彼なのか?
(いいえ、そんなわけがない)
確かに彼は人並外れた才能と魔力の主ではあったが、同じ人間だった。神獣なんて存在ではなかった。感情のぶれだけで人間を炎上させるなんて、できなかったはずだ。
「……な……、んだ……なんなのだ、お前は……」
床に転がったまま、フレデリクがヨゼフィーネ皇女を睨んだ。後ろ手に縛られているせいで、自力では起き上がれないのだ。
「お前は私の妃だろう!? なぜその、ば……」
「黙らせて」
「はっ!」
ヨゼフィーネ皇女の指示を受け、帝国の騎士がフレデリクを蹴り飛ばす。格上の帝国とは言え、騎士に過ぎない者が一国の王に暴力を振るうなど許されない行為だが、怒りをあらわにしているのはマルタンだけだ。
「皇女殿下! あまりのなさりようにございます。フレデリク陛下は貴方様のご夫君であられるのですぞ!」
憤然と抗議するマルタンに、ヨゼフィーネ皇女は嘆息した。
「夫と思うからこそ、助けて差し上げたのだけど?」
「た……、助ける、ですと?」
「まだわからないの? そこの馬鹿、いえ学習能力の欠落した愚か者がまたつがい様を愚弄しようものなら、今度こそイグニアディス様に骨も残さず焼き尽くされていたわよ」
マルタンははっと彼を振り仰ぎ、ようやく気づいたようだ。彼が発散する殺気に。
「愚か者は貴方も同じよ、宰相。貴方は仮にもつがい様の実の父親なのでしょう? なのに、いくら主君とは言え、娘を侮辱されてたしなめるどころか庇うなんて、どういうつもり?」
「……そ、れは……」
「ああ、別に話さなくても構わないわ。もう知っているから。……貴方たちがどんなふうにつがい様を貶め、利用してきたのか」
ヨゼフィーネ皇女の冷ややかな視線がマルタンとフレデリクを射貫いた。




