11・神獣とつがいの攻防戦
頭が白く染まりかけたのは、窒息しかけていたかららしい。
「神獣様はそれ以上お嬢様に近づかないでください」
「……ティーヌ……」
ヨゼフィーネ皇女が帝国からわざわざ船で運んできた豪奢な四頭立ての馬車の中、アルベルティーヌの向かい側の席に座った彼が紅い瞳を潤ませる。あれからアルベルティーヌたちはひとまず王都へ帰還することになり、王太后用のそれよりはるかに華やかなこの馬車に乗り込まされたのだ。……当然のごとく、彼と共に。
ずきんと胸は痛むが、アルベルティーヌは心を鬼にして首を振った。
「王太后の座を降りた今、私はただの貴族令嬢に過ぎません。偉大なる帝国の神獣イグニアディス様の御身に触れるなど、畏れ多いことでございます」
「……ティーヌ? どうしてそんなことを言うの? 俺は、俺はティーヌの……」
「神獣イグニアディス様。畏れながら、私と貴方にはなんの関係もございませんわ」
紅い瞳に射貫かれ、くらりと視界が揺れた。すかさず支えてくれるニコレットに、大丈夫だと眼差しだけで伝える。
(これはたぶん魔力酔い、ね)
魔力を持つ者が、圧倒的に高い魔力保持者に魔力をぶつけられた場合に起きる現象だ。
東峽出身のニコレットは魔力がないのでなにも感じないようだが、高位貴族令嬢のアルベルティーヌはそこそこ高い魔力を持って生まれたため、もろに影響を受ける。とは言えアルベルティーヌを酔わせるほどの高魔力保持者など、今まで遭遇したことはないが。
さっきまでさんざん密着していても、魔力酔いにはならなかった。なのに今さら魔力酔いに苦しめられるのは、感情を制御しきれなくなっているからだ。
彼が……神獣イグニアディスが。
アルベルティーヌはぐっと腹に力を入れた。ここで退いてはならない。彼と自分のつながりを、認めるわけにはいかないのだ。
(……大丈夫。まだ致命的なミスは犯していない)
彼をアディと呼んだのは、彼がそう名乗ったから。それで言い通せる。前世のつながりに至っては証明のしようがない。
カラガレナ王国は三百年も前に滅んでしまったのだ。読書家のアルベルティーヌは歴史書もかなり読み込んだが、現在は帝国の一部となってしまったかの国の情報はほとんどなかった。ただ『悪政の末、民が蜂起し、王族は全員殺された』と記されたのみ。
つまりセレスティーヌを囮にして逃げようとした前世の夫エドモンも、結局、愛人もろとも捕まってしまったのだろう。
(帰ったら、改めてカラガレナ王国について調べておく必要があるわね……)
王女だった祖母は、降嫁の際、貴重な書物を王家から大量に持ち込んだと聞いている。もしかしたらカラガレナ王国の情報も見つかるかもしれない。……セレスティーヌを看取った後の、彼の行動も。
「ティーヌ……俺を、思い出してくれたのではないのですか?」
「思い出すもなにも、私と神獣様は初対面のはず。にもかかわらずつがいなどと呼ばれ、困惑しております。皇女殿下のご厚情には感謝しておりますが……」
どうあっても前世のつながりを認めるわけにはいかない。
魔力酔いの酩酊感をこらえながら紅い瞳を見返せば、全身を刺すようだった魔力の圧力がふっと失せた。前世よりも神々しさを増した輝くばかりの美貌が、成熟した大人の艶に彩られる。
「……いいでしょう。今は、そういうことにしておきます。もう急ぐ必要はありませんから」
見逃された。
アルベルティーヌは直感し、頬が赤らむのを感じた。こんな余裕は、かつての彼にはなかったのに。
(……本当に、私の知るアディではないのね)
もう、認めざるを得ない。彼は彼ではなく、神獣イグニアディスなのだと。
「ですがティーヌ、貴方は近いうちに必ず認めてくださるでしょう。貴方が俺のティーヌであり、俺が貴方の犬なのだと」
ほっと気を抜いたところを狙ったように突いてくる鋭さも、かつての彼にはなかった。
(……三百年……)
人並み外れてはいても人間に過ぎなかった彼が、生き延びられる年月ではない。アルベルティーヌのように一度死に、生まれ変わったのだろうか? 帝国の神獣、イグニアディスとして?
いや……。
(帝国は五百年以上前から神獣の加護を受けているはず。生まれ変わりだと計算が合わないわ)
イグニアディスに聞けば、きっと教えてくれるのだろう。こちらが拍子抜けするほどあっさりと。だがそれだけはできない。アルベルティーヌがセレスティーヌだったと認めるも同然だから。
「……神獣様を犬だなどと、畏れ多いことでございます。こうして同じ馬車に乗せて頂くのさえ身がすくむ思いですのに。ねえ、ニコレット?」
「はい、お嬢様。お嬢様は皇女殿下をお迎えするため、働き詰めでいらっしゃいました。くつろげる場所でお休みになるべきかと」
突然水を向けられても、ニコレットはアルベルティーヌの望みをしっかり汲み取ってくれた。港でイグニアディスと遭遇してからこちら、この自称犬はなんなのかとアルベルティーヌを問い詰めたいだろうに、黙って従ってくれる侍女には感謝しかない。
普通の紳士なら、アルベルティーヌの希望を察して退場してくれる。
だがイグニアディスは残念ながら普通の紳士ではなかった。
「疲れているなら、俺の魔力を分けましょう。神獣の魔力はいかなる怪我も病も癒やしますから」
「……、神獣様の魔力の恩恵にあずかれるのは、皇帝ヴァレリアン三世陛下のお許しを頂いた者のみと聞いておりますが」
イグニアディスをかわすための方便ではなく、事実である。
神獣の力は帝国の根幹をなす力だ。その絶大な力を誰にでも分け隔てなく使われては、帝国の威信が揺らいでしまう。ゆえに代々の皇帝は力の代償に、多大な見返りを要求してきた。
「なんの問題もありません。ティーヌは俺の主人であると同時に、俺のつがいでもありますから」
「つがい……、ですか」
「つがいは神獣の、たなごころの上の宝玉。誰よりもなによりも大切にされ慈しまれるべき存在。皇帝だろうと神だろうと、邪魔はさせません」




