10・今度こそ捨ててしまおう
「貴方は私を王宮に巣食う娼婦だと仰いましたが、私にとって王宮は牢獄でした。王太后の地位など望んだこともありません。ごく平凡な貴族女性として生きられたら、どんなに良かったでしょう」
アルベルティーヌは透き通ったすみれ色の瞳でフレデリクを見つめた。
思えばこの瞳の色も悪かったのだろう。初代国王と同じ、王家の血の濃い者に現れる色彩を、フレデリクも亡きジェローム王も持っていなかった。対して亡き祖母とその娘である母、そしてアルベルティーヌと兄オーギュストはすみれ色の瞳を受け継いだ。その事実に、フレデリクはずっと劣等感を抱いていたのかもしれない。
アルベルティーヌの人生をねじ曲げ、台無しにした元凶とも言える存在に、アルベルティーヌは不思議なくらいなにも感じなかった。それはヨゼフィーネ皇女がアルベルティーヌの心に溜まっていた鬱憤を晴らしてくれたおかげであり、……背後でフレデリクを射殺さんばかりに睨んでいる彼のおかげでもあるのかもしれない。
「っ……、王太后、……私を、恨んでいるのか?」
フレデリクが絞り出した問いに、ヨゼフィーネ皇女とニコレットは『今さら聞くか』と言いたげに顔をゆがめた。フレデリクを囲む騎士たちも呆れを隠せない。
(ああ、……『試し行為』だったっけ)
王太后になったばかりのころ、ニコレットから聞いた東峽語を思い出す。
『私が思うに、あれは試し行為でもあるんじゃないでしょうか。あ、試し行為というのは、フレデリク殿下のような愛情に恵まれなかった子どもが、近くにいる大人にわざと嫌がられるような真似をして、どこまでなら許されるのか、どんな行為をしても愛してくれるのかを試そうとすること……ですかね』
アルベルティーヌを罵倒してばかりのフレデリクの言動を、ニコレットはそう評したのだ。あの時はまさかそんなと一笑に付してしまったが、その通りだったのかもしれない。
アルベルティーヌを敬愛する祖父をたぶらかした悪女だと思い込むことで、フレデリクは壊れそうな心を支えてきた。同時に、どんな悪態をつこうと、傷つけようと愛してくれる存在――母親を、アルベルティーヌに求めていたのかもしれない。
本物の母、亡き王太子妃なら、あるいは聖母のごとく慈愛深い女性なら、それでもフレデリクに愛情を注げたのだろう。
けれどアルベルティーヌは、フレデリクをそこまで思うことはできなかった。ジェローム王の願い通り王位には就けたのだから、それで勘弁して欲しい。
「恨んでは、おりません」
「……っ……」
「恨みもなにも、貴方にはいかなる感情も抱いておりません。義務を果たした以上、私が望むのは王太后の地位と王宮からの解放。それだけです」
希望に輝きかけたフレデリクの瞳が、絶望に染まった。どうしたのだろう。憎み続けた悪女が自分から消えると言っているのに、なぜ喜ばないのか。
「宰相の言っていた契約というのは、これのことです」
アルベルティーヌはドレスの隠しを探り、一枚の紙を取り出した。小さく折りたたまれていたにもかかわらず、広げられたそれには一本の折り目もついていない。
「魔法契約書ですわね」
即座に看破したヨゼフィーネ皇女は、さすがと言うべきか。アルベルティーヌは頷き、フレデリクにも見えるよう前にかざしてやる。
魔法契約書は契約魔法を用い交わした契約書のことで、契約魔法とは確実な契約の履行を促すための魔法だ。この魔法がかけられた書面で交わした契約を違えれば、耐えがたい苦痛に生涯苦しめられることになる。
「これは七年前、私が宰相と交わした契約書です。まったく同じ内容のものを、宰相も所持しています」
「……実の父親と、契約魔法を使って契約したのか?」
フレデリクの声に疑念が混じる。契約魔法は基本的に、国家間の条約や大商会の大口契約などの重要な契約に用いられるものだ。
「私は宰相を信用しておりませんので。契約の内容はご覧の通りですわ」
「これは……」
契約書に目を通したフレデリクが硬直する。
アルベルティーヌがフレデリクの即位まで王太后を務め上げるのと引き換えに、マルタンはアルベルティーヌを王太后の地位とそれに付随する一切の義務から解放し、以後なにがあろうと絶対に王族と国政には関わらせない。魔力漂う書面にはそう記され、マルタンとアルベルティーヌのサインがなされている。
偏見と憎しみに曇った目の主でも、これを読めばわかるだろう。アルベルティーヌは王太后の地位にも名誉にも資産にも、政にも興味はない。むしろ重荷でしかないのだと。
「七年も前に……、こんな契約書を……」
「陛下はめでたく即位なさいましたので、私の義務はすでに終了しております。本当でしたら、皇女殿下を王都までお送りしてすぐ、実家に身を寄せるつもりだったのですが……」
「駄目だっ!」
背後から伸びてきた手が、アルベルティーヌを捕らえた。一回り以上大きな胸の中に、ぎゅうぎゅうと閉じ込められる。
「ティーヌは俺と一緒にいなければ駄目だ! だって俺は、俺は今度こそ、ティーヌの犬になるんだから……!」
「……う、……っ……」
力加減なしに抱きすくめられ、息が詰まりそうになる。尊崇される神獣の駄々っ子のような行動に騎士たちはおろか、フレデリクまでもが呆気に取られる。
「……ええと、そういうことですので、つがい様。心苦しいのですが、そこのケダモ……神獣様にしばらくお付き合い頂けないかと……」
申し訳なさそうなヨゼフィーネ皇女に、アルベルティーヌは苦笑した。元よりこのままなにもなかったように立ち去れないだろうとは思っていた。ニコレットも『致し方なし』と言いたげな表情だ。
それに、確かめなければならない。
人間だったはずの彼がどうして神獣などと呼ばれるようになったのか。三百年前、前世のアルベルティーヌだったセレスティーヌが死んだ後、彼になにが起きたのか。
「承知しました。しばし行動を共にさせて頂きます」
「っ……、ティーヌ!!」
ぎゅうううううううっ……。
歓喜した彼の腕にさらなる力がこもる。頭の奥が白く染まるのを感じながら、アルベルティーヌは必死に考えていた。
転生してもなお、追いかけてきた彼。
アルベルティーヌのためならどんなことでもやってのけるだろう彼。
……今度こそ、どうやって捨ててしまおうかと。




