龍脳と透花糍、あるいは深夜の共同戦線
流れ込んできた夜の冷気が、閉じ込められていた墨の匂いを鮮やかに撹拌した。
現れたのは、やはり彼――李宵だった。
けれど、視界に飛び込んできたその姿に、私の思考回路が一瞬でショートする。
重厚な冠は取り払われ、艶やかな黒髪が首筋で無造作に結い上げられていた。
纏っているのは、夜闇の粒子を織り込んだような、装飾のない濡羽色の袍。
皇帝としての峻烈な殺気は影を潜め、どこか残業帰りのCEOが、なじみの店にふらりと足を踏み入れたような、奇妙な弛緩を纏っている。
「根を詰めているな。……差し入れだ」
私の絶句を意に介さず、彼は手にしていた漆塗りの重箱を、書類の波間にドン、と置いた。
蓋が持ち上げられる。
そこから溢れ出したのは、ひやりとした夜気を一瞬で塗り潰す、甘く柔らかな湯気だった。
「これは……透花糍?」
思わず、肺の奥が甘やかな香りに震えた。
半透明の薄い餅皮の向こうに、精緻に象られた花の餡が透けて見える。
長安の市場でも、最高級の「芸術」として珍重される逸品。
尚食局の末端にいる私でさえ、厨房の隅で残骸を見るのが関の山だった代物だ。
「頭を使うには糖分が必要だろう。食え」
彼は私の対面に椅子を引き寄せ、慣れた手つきでどっかと座り込んだ。
私は遠慮をゴミ箱へ放り捨て、指先で一つ摘み上げた。
吸い付くような餅の弾力。
口に含んだ瞬間、上品な蜂蜜の甘みと、鼻に抜ける花の香りが、枯渇寸前だった脳細胞に火を灯していく。
美味しい。
鉄面皮が溶け落ちそうになるのを、奥歯でかろうじて食い止める。
「……美味いか?」
「ええ、非常に。……脳のスペックが三十%ほど回復しました」
「それは重畳。ならば、その回復した脳で説明しろ。お前が描いている、その図面を」
彼は節くれだった長い指で、机上に広げられた「氷の流通ルート解析図」を指差した。
私は口元に残った粉を拭い、意識をプレゼンモードへと切り替える。
「では、手短に。現状の氷の運搬ルートには、三つの致命的なボトルネックが存在します」
筆の柄で、墨で描かれた地図の急所を叩く。
氷室からの搬出回数の過多、直射日光に晒される東側の回廊、そして各部署への無計画な配分による待機時間のロス。
情熱を排した、冷徹な数字の羅列。
けれど、李宵の瞳は違った。
彼は一度も私の言葉を遮ることなく、ただその黒曜石のような瞳に知的な熱を湛え、時折、鋭い牙のように確信を突く質問を投げかけてくる。
「なるほど。西門を拠点化することで、直射日光を避ける日陰の時間を二割増やすわけか」
「はい。さらに、搬送用の荷車に湿らせた菰を幾重にも被せ、その気化熱を利用して周囲の温度を叩き落とします。これで融解速度は劇的に鈍化する」
「……面白い。従来の慣習という名の呪縛を無視し、物理法則のみに従った解か」
彼はニヤリと、唇の端を歪めた。
満足げに茶を啜る彼の横顔を見つめ、私は胸の奥の、論理回路とは別の場所がじわじわと熱を帯びるのを感じた。
言葉が通じる。
私のロジックを、その価値を、余さず正確に計上してくれる存在。
前世のオフィスでも、この不条理な後宮でも、一度として出会えなかった「理解者」が目の前にいる。
彼は暴君ではない。秩序という名のシステムを、たった一人でデバッグしようとしている孤独な改革者なのだ。
窓の外は、夜禁という死の静寂に塗り潰されている。
けれど、この狭い部屋の中だけは、立ち上る茶の香りと、知的な火花が散る対話の熱量で満たされていた。
それは、どんな愛の言葉よりも深く私の孤独を救済する、極上の「共有時間」。
「……もっと聞かせろ。お前の見ている世界を」
彼が身を乗り出し、机に影を落とした。
ふわりと強まった龍脳の香りに、私は手に持った書類が微かに湿るのを感じながら、逃げ場のない彼の視線を真っ向から受け止めた。
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また明日[19:00]にお会いしましょう。




