揺れる墨水、あるいは静謐なコクピット
冬冬――。
冬冬――。
床から脚を伝い、改装を終えたばかりの紫檀の長机へ、地を這うような重低音が這い上がってくる。
街鼓だ。長安に夜の訪れを、そして「檻」の閉鎖を告げる六百回の連打。
白磁のインク壺に満たされた黒い水面が、その振動を正確に拾い、同心円状の波紋を静かに描いている。
「……始まったか」
私は握っていた筆を置き、細く開いた窓の隙間に視線を投げた。
空はすでに濃密な群青に溶け、視界の端に位置する朱雀門が、重厚な音を立てて外界を遮断する様が脳裏を掠める。
この音が止み、最後の一刻が過ぎれば、日の出まで都は巨大な迷宮へと変貌する。
街路を練り歩く金吾衛の冷たい鎧の擦れ音、禁を破った者を捕縛する硬質な鎖の音。
普通なら、肺を圧迫するような閉塞感に怯えるべき時間。
けれど。
私の胸を占拠していたのは、微熱にも似た、奇妙な安堵感だった。
(これで、不採算なノイズ(嫉妬)に思考を割かれなくて済むわ)
大きく背伸びをすると、凝り固まった肩の関節がパキリと乾いた音を立てた。
昼間の後宮は、ROIの極めて低い嫌がらせや、出所不明の陰口という名の「ゴミ」で溢れ返っている。
だが、今は違う。
夜禁という絶対的な不文律によって、すべての他者がそれぞれの独房(部屋)に隔離される。
私と、数字と、この静寂。
かつて現代のブラック企業で、誰もいない午前二時のオフィスに浸っていたあの「残業ハイ」。
世界から切り離されたような背徳的な全能感が、指先の冷えを心地よい熱へと変えていく。
「さて、と」
私は再び紫檀の机へと意識を沈めた。
広げたのは、尚食局の闇を解剖するための「氷のロジスティクス解析図」だ。
冬に切り出され、氷室に貯蔵された貴重な資産が、どのような経路で溶け、あるいは「溶けたこと」にされて私腹を肥やす糧へと変換されるのか。
その融解損耗率と在庫の矛盾を、論理というメスで切り裂いていく。
パチッ、とカンテラの芯が爆ぜた。
その小さな音を合図に、集中力が極限まで圧縮される。
計算式が宣紙の上を滑り、思考が加速する。
この密室はもはや檻ではない。
私の知性という宇宙を拡張し、帝国の構造を書き換えるための、広大なコクピットだ。
――コン、コン。
不意に、外界との境界線である扉が鳴った。
心臓が肋骨を叩き、指先が跳ねて筆を落としそうになる。
こんな時間に!?
金吾衛なら、問答無用で扉を蹴破り、石床を兵靴で踏み荒らすはずだ。
ならば、この夜禁のルールを紙屑のように無視し、音もなく現れることのできる個体など、この帝国にはただ一人しか存在しない。
「……どうぞ」
震える喉を無理やり押し広げ、声を絞り出す。
ギィ、と古びた蝶番が悲鳴を上げ、扉が開いた。
流れ込んできたのは、肌を刺すような夜の冷気。
そして。
脳髄を直接凍らせるような、甘く峻烈な龍脳の香りだった。
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また明日[19:00]にお会いしましょう。




