黎明の決済、あるいは籠の主
肺の奥まで焦げ付かせるような埃の味に代わり、冷え切った朝の湿り気が、ゆっくりと身体を満たしていった。
カンテラの芯がじりじりと縮み、油の尽きかける最後の一瞬。
濁った橙色の光が、この一晩で成し遂げた「空間の変貌」を鮮烈に浮き彫りにした。
かつて死蔵在庫が埋め尽くしていた空間は、今や冷徹なまでの機能美を帯びている。
瓦礫はデッドスペースへと整然と押し込まれ、中央に鎮座する紫檀の長机は、磨き上げられた木肌が黎明の沈んだ光を鏡のように反射していた。
即席の「拠点」が、産声を上げた瞬間。
その光景を前に腰へ手を当てた私の唇からは、白く濁った吐息が満足げに零れ落ちた。
「……完璧だわ」
関節という関節が軋み、筋肉が疲労物質の蓄積を悲鳴として訴えている。
けれど、視覚を遮る障害物が排除され、最短距離で思考を巡らせる動線が確保された快感は、何物にも代えがたい麻薬だった。
「呆れたな。本当に一晩で片付けるとは」
背後、紫檀の端に腰を預けた李宵が、低く、チェロを奏でるような声音で呟いた。
夜闇を模した忍び装束は白く汚れ、端正な額を伝う汗の雫が、蝋燭の火を吸って微かに光っている。
玉座の上で静止した偶像ではない。
共に労働を担い、呼吸を乱した一人の男。
その生々しい存在感が、埃っぽい書斎に強烈な熱量を撒き散らしていた。
「陛下のご協力のおかげです。……労働力の提供、感謝いたします」
「労働力、か」
彼は可笑しそうに喉を震わせ、短い苦笑を漏らした。
やがて懐から取り出されたのは、掌に収まるほどの小さな、けれど圧倒的な権威の質量を持った金色の薄板。
――魚符。
しかも、最上位の権限を象徴する、龍の鱗を思わせる精緻な細工。
それを恭しく受け取った瞬間、指先から脳髄へ、純金の冷徹な重み――決済権限の重圧がダイレクトに伝わってきた。
「報酬だ。これがあれば、尚食局のあらゆる資料へのアクセス権と、夜間の自由通行を許可する」
「……っ! ありがとうございます。必ずや、この国の『不採算部門』を洗い出してみせます」
「頼んだぞ。……林鈴」
名前を呼ばれた瞬間、脊髄に鋭い電流が走った。
彼は机から降り、一歩、また一歩と私のパーソナルスペースへと侵入してくる。
龍脳の峻烈な香りが、朝霧の湿り気と混ざり合い、逃げ場のない檻のように私を包囲した。
逃げようとする脚は、射抜くような彼の視線に縫い留められ、一ミリも動かない。
彼は長い指を伸ばし――私の髪に触れた。
「……っ」
喉が詰まり、肺の換気が停止する。
絡まった埃を指先で摘み取る、その所作。
壊れ物を扱うように繊細でありながら、網に掛かった獲物を決して逃がさないという、捕食者特有の執着が指先の熱を通じて肌に染み込んでくる。
「汚れているぞ」
鼓膜を直接震わせる、低い囁き。
埃を払った指先がそのまま頬を掠め、不意に、彼の体温が私の防衛境界線を突破した。
熱い。
触れられた箇所から、蜜が溶け出すような痺れが全身へ伝播していく。
「……あ、ありがとうございます」
私は真っ赤に焼けた顔を隠すように、たどたどしい足取りで後退した。
これ以上、この至近距離で「視覚的な暴力」を浴び続ければ、論理的な思考回路がすべて焼き切れてしまう。
彼はふ、と満足げに口元を緩めた。
その表情は、獲物の毛並みを整える王者のそれだ。
格子の隙間から、薄青い黎明の光が差し込む。
逆光を背負った彼の輪郭は、この世ならざる魔物のように美しく、そして――冷酷なまでに完成されていた。
「また来る」
余韻さえ残さぬほど潔い言葉と共に、彼は朝霧の彼方へと消えた。
重厚な扉が閉まる音を聞きながら、私は掌の中の魚符を強く握りしめる。
金色の冷たさが、かろうじて現実感を呼び戻した。
やった。
最高位のクライアントと、不可侵の聖域を手に入れた。
これで「定時退社」と「安眠」を勝ち取るための戦場は整った。
――そう、確信していた。
あの瞬間の彼の瞳が、有能な手駒を慈しむものではなく。
自らの籠へ入れた小鳥の、翼の感触を確かめているような色だったことに、私はまだ、思い至る由もなかった。




