龍の領土、あるいは熱を帯びた檻
サリ、サリ……という、規則的な乾いた摩擦音が唐突に途絶えた。
俺は持っていた茶杯を置き、卓の向かい側へ視線を落とした。
林鈴が、折れた筆のように突っ伏している。
複雑な計算式の羅列が黒々と這う紙の上に、艶を失った黒髪が乱雑に散らばり、指先には乾きかけた墨が、戦果の汚れのようにこびり付いていた。
「……おい」
呼びかけた声は、漆黒の闇が支配する室内に虚しく吸い込まれていく。
返る言葉はない。
代わりに届いたのは、スー、スー、という微かな、しかし肺の深部まで満ち足りたような安らかな呼吸の音だけだった。
限界だったのだ。
昼間は尚食局の雑用で指先を荒らし、夜はこの隠れ家で、俺のために知性のすべてを搾り出している。
俺は音もなく立ち上がり、彼女の背後へ回り込んだ。
指の間で固まりかけていた筆を抜き取り、黒い染みが広がりつつある書類を指先で脇へ退ける。
その間も、彼女は深い眠りの底から浮上してくる気配を見せない。
あまりに、無防備。
もし俺が命を狙う刺客であれば、その細い首筋に刃を添えるのは造作もないことだ。
あるいは、もし俺が理性を捨てたただの「男」であったなら――。
俺は彼女の寝顔をじっと見下ろした。
覚醒している時の彼女は、感情を排した鉄仮面そのものだ。
常に損得のバランスシートを脳内で回し、皇帝である俺を相手にしても「残業代」を要求してくる、愛想の欠片もない有能な「監査役」。
だが、今はどうだ。
長い睫毛が、疲弊を物語るように頬に深い影を落としている。
わずかに開いた唇からは、計算も嘘もない、あどけない呼気が漏れていた。
俺の視線は、無防備に晒された白い項へと吸い寄せられた。
そこには、皮膚の薄い場所に青い血管が細く浮き上がり、トクトクと、確かなリズムで脈打っている。
命の音が、静寂を打っている。
(……唆る)
腹の底で、重く熱い塊が鎌首をもたげる。
伸ばした指先が、その白く柔らかな肌まで数寸のところで止まる。
――沈黙。
夜禁に閉ざされた長安は、今や巨大な水瓶の底。
その凍てついた静寂の中で、俺自身の心臓の音が、耳元を圧迫するほど激しく打ち鳴らされていた。
俺は奥歯を噛み締め、伸ばした手を自嘲気味に握り込んだ。
拳の中で、自らの爪が掌に食い込む痛みだけが、暴走しかけた熱をかろうじて繋ぎ止める。
今、この肌に触れれば、彼女は目覚めるだろう。
そして、あの有能な計算機のような瞳で、俺を「排除すべきリスク」として再定義するに違いない。
それは、酷く惜しい。
俺が欲しいのは、恐怖に震えるだけの獲物ではない。
この腐った帝国の血管を、共に冷徹に切り裂いてくれる共犯者の知性だ。
「……まったく。厄介な女を拾ったものだ」
独り言が、龍脳の香りに混じって闇に溶ける。
俺は自身の帯を解いた。
バサリ、という重厚な絹の擦れ音が、空気の粒子を揺らす。
纏っていた赭黄の袍――この国の権威と血脈を象徴する上衣を脱ぎ捨て、それを、ふわりと彼女の肩へと掛けた。
最高級の絹が、彼女の華奢な輪郭を包み込み、所有の境界線を引く。
彼女は身じろぎもせず、むしろ俺の体温が残る衣に鼻先を埋めるようにして、小さく、満足げな吐息を漏らした。
その姿を見つめるうちに、胸の奥を焼いていた暴虐な衝動が、奇妙なほど歪な充足感へと変質していく。
これでいい。
今はまだ、俺の香りでその肺を満たしておくだけでいい。
龍脳の香りが染み付いたこの赭黄の衣は、お前が気づかぬうちに四方を囲む、目に見えない檻だ。
俺は彼女の髪に一瞬だけ顔を寄せ、その冷えた空気を吸い込んでから身を引いた。
愛おしさと独占欲が綯い交ぜになった熱い溜息が、夜の帳に溶け、やがて消えた。
読んでいただきありがとうございます!
もしよろしければ、「リアクション」や「ご感想」をいただけると嬉しいです。
また明日[19:00]にお会いしましょう。




