消失する資産、あるいは風下の再計算
肺胞の奥まで、熱せられた砂利を叩き込まれるような感覚。
酸素はすでに炎に略奪され、代わりに喉を焼くのは、重い油を含んだ煤だ。
西の離宮・書庫前。
そこは、耀の帝国の記憶――つまり、数千万人の「人生のログ」を保管する巨大な脳髄であり、今まさに紅の侵食によって壊死しようとしている最前線だった。
バヂィィッ! ドォォン!
乾燥した白木が内側から爆ぜ、繊維が断裂する音は、断末魔の悲鳴に似ている。
火勢は苛烈を極め、数刻前に私たちが開通させたばかりの「風の道」を酸素の供給路として利用し、恐ろしい流速で回廊を舐め尽くしていた。
「ああっ……! 戸籍が! 税帳が!」
「もう駄目だ、帝国の歴史が灰になる……!」
煤で顔を汚した官僚たちが、腰を抜かさんばかりに立ち尽くしている。
彼らの絶絶望は、極めて正しい。
あの中に積まれているのは、単なる古紙ではない。帝国という巨大企業の「顧客リスト(戸籍)」であり、「キャッシュフローの証跡(税帳)」だ。
これらが灰に帰せば、誰から税を徴収し、誰に公定歩合を支払うべきか、国家という名の基幹システムそのものが完全停止する。
「……皇后陛下! 貴女が壁を壊したせいです!」
一人の老官僚が、血走った目で私を指差した。
その指先の震えは、保身か、あるいは風水師としての意地か。
「貴女が風を通したから、火は勢いを増した! これは天罰だ!」
罵声が耳朶を刺す。
胃の腑が氷を流し込まれたように冷たく縮み上がり、心拍の振動が直接、視界を揺さぶる。
物理的な因果関係は、私の脳内ですでに演算されていた。
酸素供給量の増大は燃焼効率を最大化させる。
私の「最適化」が、この火難という名の致命的なリスク(負債)を加速させたのか?
(……いいえ。まだだ。再計算が必要よ)
私は、震えそうになる指を掌の熱で封じ込め、舞い散る火の粉の向こう側を睨めつけた。
火の手が早いのは事実。けれど、だからこそ有毒な煙もまた、一箇所に留まらずに一方向へと排出されている。
もしあの壁があったなら、ここは巨大な「燻製室」となり、救助を待つ人々は数分と持たずに窒息死していただろう。
「……泣き言を言っている暇があるなら、手を動かしなさい!」
私の声帯から放たれた鋭い振動が、爆ぜる音を切り裂いて現場を制圧した。
官僚たちが、呆然としてこちらを振り返る。
「風が通っているなら、煙も抜けます。……風下の壁をすべて開放しなさい! 煙を逃がし、視界を確保してから、人海戦術で搬出を開始します!」
これは敗北による撤退戦ではない。
残存する最重要資産を守り抜くための、冷徹な「損切り」という名の戦いだ。
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