熱の溜まり場、あるいは風水との最終決戦
呼吸をするたびに、熱湯に浸した綿を喉の奥に詰め込まれるような、物理的な息苦しさがある。
後宮・北側回廊。
ここは本来、風通しの良い高台のはずだ。
だが、歴代皇帝の寵妃たちが、己の権勢を誇示するためだけに無計画な増築を繰り返した結果、回廊は癌細胞のように無秩序に入り組み、空気の循環が完全に死滅している。
肌に張り付く絹衣の、不快な湿り気。
視界の端で、一人の若い女官が、音もなく崩れ落ちるのが見えた。
「……測定値に出ています。この北区画だけ、湿度が飽和し、平均気温が他所より三度高い。これは住居ではありません。人間を調理するための巨大な『蒸籠』です」
私は、汗で張り付く指先で羊皮紙の図面を広げ、目の前に立ちはだかる老人たちに突きつけた。
分厚い道服を着込み、象牙の団扇を気怠げに仰ぐ、宮廷風水師の集団だ。
「皇后陛下。……畏れながら、この壁は『龍脈』の要。北からの邪気を防ぐ結界でございます。これを壊せば気が散逸し、帝国の運気が下がりますぞ」
首席風水師の、枯れ木のように節くれだった指が、図面上をなぞる。
彼らの言う不可視の資産価値。即ち、「気」や「運」。
だが、私の網膜にはそれが見えない。
映るのは、澱んだ熱気の中で顔を真っ赤にし、今にも意識を失いかけている女官たちの、物理的な苦痛だけだ。
「運気? ……そんな測定不能な指標のために、現場の労働環境を犠牲にするのですか? 人的資源の損失は、国家にとって最大の損失です」
私の声帯が、苛立ちで硬直する。
彼らの間に、ねっとりとした嘲笑の気配が広がった。
「これだから異国の考えは」という、音にならない蔑み。
「陛下には見えぬのですか。ここには百年前、玄宗皇帝が……」
「必要なのは『過去の遺物』でも『気』でもありません。今ここにある肺を満たす、新鮮な『酸素』と、体温を下げる『風』です!」
私は彼らの言葉を物理的に遮断し、図面上の、ある一点を指差した。
北回廊の袋小路。光を遮断し、風を殺している、分厚い煉瓦造りの壁。
「あそこがボトルネックです。……あの壁を構造改革すれば、南庭からの風が一直線に抜け、『ベンチュリ効果』で流速が上がり、一気にこの区画の熱気を換気できます」
ベンチュリ効果。
流体が狭い管を通過する際、速度が増し圧力が下がる現象。
この巨大な石の迷宮を、一つの高性能な通風孔へと作り変えるための、唯一の物理法則による解。
「壊します。……これは決定事項です。異議があるなら、熱中症で倒れた女官たちの治療費を、あなた方の私財ですべて補填していただきます」
補填、という単語が、老人の喉元に突きつけられた短剣のように機能した。
金銭的なリスク(痛み)を提示された途端、彼らの守るべき神聖な「伝統」は、音を立てて揺らいだ。
私はもう、彼らの顔色を窺うつもりはない。
私が守るべきは、埃被った迷信ではない。
今ここで、熱に焼かれながら呼吸をし、汗を流している、生きている人間の命なのだから。
◆◇◆
読んでいただきありがとうございます!
もしよろしければ、「リアクション」や「ご感想」をいただけると嬉しいです。
また明日[19:00]にお会いしましょう。




