熱帯夜の予感、あるいは理性の溶解
陽が沈んでもなお、大気は熱を放出しなかった。
むしろ闇の訪れと共に、湿度が飽和状態へと達し、空気は肌にまとわりつく粘り気のある膜へと変貌している。
部屋の四隅に置かれた青磁の鉢の中では、最後の氷の破片が溶け落ち、形を失ったぬるい水となって無機質な光を反射していた。
もはや、この密室を冷却する物理的な手段は残されていない。
「……帰らないのですか」
私は、湿った熱を吸って重くなった寝台の上に崩れ落ちるように座り込み、問いかけた。
窓際。
夜風を求めて立っていた李宵が、ゆっくりとこちらへ向き直る。
月光を背負ったその輪郭は、汗で濡れた白絹の単衣が、筋肉の隆起をなぞるように肌へ張り付いていた。
その光景は、理性というフィルターを一方的に蹂躙する、剥き出しの生命力のようだった。
「帰ってどうする? 紫宸殿は一人だ。……暑くて眠れん」
彼はふらりとした足取りで間合いを詰め、私の隣にその巨躯を投げ出した。
ドサッ。
床板が軋む鈍い音。
彼の身体から放射される暴力的なまでの熱気が、私の側面に押し寄せる。
「ここも暑いですよ」
「だが、お前がいる」
有無を言わせぬ所作で、私の右手が彼の大きな掌に監禁された。
彼はその手を、自らの火照った頬へと押し当てる。
熱い。
手のひらから伝わる、脈打つ頸動脈の鼓動。
汗ばんだ肌の滑らかな感触は、不思議と不快な摩擦ではなく、私の血管に直接、彼の生存本能を注ぎ込んでくるかのような錯覚を与えた。
「……暑さのせいにするなよ、林鈴」
掠れた聲音が、鼓膜を甘く噛む。
彼の指先が、私の単衣の帯を捉えた。
スルリ、と解ける絹の摩擦音が、静寂の中で異常に高く響く。
「俺は、ずっと理性的だ。……お前を食いたいと、頭の芯まで冷静に計算している」
黄金の瞳が、月光を反射して獣のようにギラギラと燃焼していた。
龍脳の清涼な香りは、立ち上る体温によって煮詰められ、もはや理性を防衛するための装置としては機能していない。
私の喉の奥で、拒絶の言葉は熱に溶けて霧散した。
絡み合う指。
重なる唇の、湿った熱量。
それは酷暑という名の極限状態が招いた一時的なバグか、あるいは私の本能が弾き出した、逃れようのない必然の解か。
熱帯の闇が、二人の理性を甘美な泥の中へと、完全に沈めていった。
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