指先の櫛、あるいは解かれる心の糸
指先に触れる、象牙の温度。
鏡台の灯火を跳ね返すその白さは、精緻な蓮の花の彫刻を浮き彫りにし、掌に確かな重量感を伝えてくる。
「……それは?」
「お前のために用意させた。……これなら、髪を傷めないだろう」
背後に立つ李宵の声が、低いチェロの弦のように空気を震わせる。
彼は淀みのない動作で私の背後に回り込むと、その大きな掌で私の肩を固定した。
シュッ、シュッ……。
静寂を裂くのは、象牙が黒髪の繊維を滑る微かな摩擦音。
彼の指先は、お世辞にも手慣れているとは言い難い。時折、毛先が縺れ、櫛の進行が止まる。
けれど、そのたびに彼は一度動きを止め、指の腹で縺れを優しく解していく。
鏡越しに、黄金の瞳と視線が衝突した。
そこに宿るのは、不採算部門を切り捨てる冷徹な独裁者の光ではない。
まるで、一点ものの硝子細工を検品するかのような、研ぎ澄まされた集中。
隠しようのない慈愛が、熱量となって鏡面から溢れ出していた。
「……陛下。これは明確な分業体制の侵害です。貴方の手が触れるような下卑た実務ではありません」
「俺がやりたいんだ。……昔、書物で読んだ故事がある」
彼は照れ隠しのように唇を歪め、首筋にかかった一房の後れ毛を指先で払った。
熱を帯びた指腹が、薄い皮膚を掠める。
ビクリ、と肩の筋肉が収縮し、心拍の振動が喉元までせり上がった。
「京兆尹の張敞が、妻の眉を描いたという話だ。……眉を描くのは精密な設計が必要そうだが、髪を梳く程度なら、俺にも再現できると思ってな」
耳朶に直接吹きかけられる、湿った吐息。
雨上がりの森を思わせる龍脳の香気が、私の身体から立ち上る清潔なサボンの匂いを、強引に上書きしていく。
「……お前の髪は、綺麗だ。上質な絹糸の束を扱っているような錯覚に陥る」
李宵は櫛を置くと、今度は剥き出しの指先で私の髪を掬い上げた。
指の間を滑り落ちる黒髪の質量。
その感触を確かめるように、何度も、何度も。
私は、鏡の中の異邦人を凝視した。
頬は朱に染まり、瞳は熱に浮かされたように潤んでいる。
鉄面皮の監査役という防壁はどこにもない。
そこには、ただ一人の男の独占的な執着を、全身の毛穴で受け入れている一人の女がいた。
「……俺が髪を梳くのは、お前だけだ。……これからも、ずっと」
鏡の中の彼が、獲物を外堀から埋め立てるような瞳で宣言する。
それは、私の髪だけでなく、心という名の「不落の城」を、彼の色へと塗り替えていく、逃げ場のない契約(呪い)に他ならなかった。
◆◇◆
読んでいただきありがとうございます!
もしよろしければ、「リアクション」や「ご感想」をいただけると嬉しいです。
また明日[19:00]にお会いしましょう。




