湯殿の改革、あるいは温水の福利厚生
ぽちゃん。
高台の天井から剥落した水滴が、鏡面のような湯面を叩き、静謐な同心円を描き出す。
皇后宮・湯殿。
ここは、私が着任早々に「資産価値の再定義」を断行した最優先区域だ。
かつては冷え切った石床の熱伝導率に体温を奪われるだけの、冬場には生存環境として不適切な空間だった。
だが今は、床下に温水配管を巡らせた「床暖房」が足裏からじんわりと熱を供給し、尚工局の職人が意地を詰め込んだ総檜の大浴槽が、芳醇な木の香りを湯気と共に立ち昇らせている。
「……ふぅ」
私は顎まで温かいお湯に身を沈めた。
肺の奥まで熱い湿気が満ち、長く重い吐息が白い霧となって霧散する。
重力から解放される。
ただそれだけの現象が、磨き切られた精神の輪郭を鮮明に修復していく。
お湯の浮力が、日中の激務――終わりなき帳簿の精査、古参女官との不毛な政治的折衝、そして薬草園での物理的な開墾――によって石のように硬直していた筋肉の繊維を、一本ずつ丁寧に解していった。
乳白色の湯気が、視覚的なプライバシーを柔らかく保護している。
その境界線の向こう側で、世話係の女官たちが控えめな所作で私の背に触れる感触。
液状の絹のような泡が肌を滑るたび、私は自分が交換可能な「労働力」ではなく、一人の「ケアされるべき主体」であることを、触覚を通して再認識した。
(……これぞ、最高の福利厚生ね)
会計監査的な視点で見れば、これは過剰な「福利厚生費」の計上として、かつての私なら是正を求めていたかもしれない。
けれど、清潔な身体と弛緩した精神がもたらす翌日の生産性の向上。それを変数として組み込めば、これは紛れもない「設備投資」だ。
決して私的な浪費ではない。
私は湯気の壁の向こうにいる誰かに向かって、論理的な言い訳を頭の中で組み立てながら、檜の縁に後頭部を預けた。
チャプン。
波紋が縁を叩く微細な音だけが、高い天井に吸い込まれていく。
一秒が、一分が、引き伸ばされた時間の澱のように積み重なる。
この無機質な「無音」の時間。
値札のつかないこの沈黙こそが、今の私にとっての、何よりも贅沢な報酬だった。
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