悪魔の契約、あるいは最高権限の甘い罠
全身の関節から、抵抗するための支柱が砂のように崩れ落ちていく。
脳内の算盤をどれほど弾いても、弾き出される解は「詰み」の一択だった。実家の負債という名の不良債権をすべて買い叩かれ、個人の返済能力を遥かに超えた債務――愛という名の執着を突きつけられた今、感情的な反発はコストを増大させるだけのノイズに過ぎない。
私は、重い溜息と共に、彼の赭黄の衣に額を預けた。
鼻腔をくすぐるのは、冷徹な執務の場には不釣り合いな、深い龍脳の香りと、彼の肌が放つ生々しい熱量。仄かに湿った雨のようなその匂いは、逃げ場のない檻の感触を伴って私を包囲する。
完敗だった。「定時退社」というささやかな福利厚生の夢は、この男の重すぎる質量と、逃げ場のない現実によって、塵一つ残さず粉砕された。
「……分かり、ました」
湿り気を帯びた私の声が、彼の強靭な胸板に吸い込まれる。受諾を告げた瞬間、私を圧迫していた李宵の身体から、刺すような威圧感が霧散した。代わりに伝わってきたのは、凍てつく荒野を彷徨い、ようやく熱源を見つけた幼子のような、痛々しいほどの安堵。
彼は私を抱きしめる腕の出力を僅かに緩めると、黒檀の机に置かれた重厚な漆塗りの箱を指し示した。
「……賢明な判断だ。ならば、これを授けよう」
ゴトリ、と机が低い悲鳴を上げる。
箱から取り出され、卓上に置かれたのは、乳白色の滑らかな光沢を放つ羊脂白玉の印章――皇后の証である「宝璽」だった。窓から差し込む朝の光を呑み込み、鈍い輝きを湛えるその石は、片手では持ち重りするほどの密度を誇っている。
「この国を最適化したいのだろう? 不採算な後宮を、お前の好きなように書き換えたいのだろう? ……ならば、力をやる。この印さえあれば、お前は六宮のすべてを動かせる」
耳元で響く、チェロの低音にも似た誘惑。それは紛れもなく悪魔の契約だったが、同時に、私の奥底に眠っていたコンサルタントとしての職業倫理を、猛烈に熱く、昂ぶらせた。
最高権限。
邪魔な上司の承認も、非効率な稟議の階梯も存在しない。私独自のロジックだけで、この巨大なブラック組織を根底から解体し、再構築できる。
(……いいでしょう。不良債権を抱え込んだことを、後悔させてやるわ)
敗北の屈辱と、底知れぬ野心が、胃の腑のあたりでドロリと混ざり合う。私は、枕元に置かれていた緋色の衣を、今度は自らの意志で、指先が白くなるほど強く握りしめた。
「……条件があります。業務に関しては、私に全権を委任してください。口出しは一切無用です」
「ああ、約束しよう。……お前の描く図面通りに、俺も動く」
李宵は満足げに目を細めると、私の首筋に張り付いた髪を、熱い指先で丁寧に梳き上げた。その指が、脈打つ頸動脈の上をゆっくりと這い、耳朶のすぐそばで止まる。
「だが、まずは……寝室の改革からだな」
鼓膜を直接揺らす、蜜のように甘く湿った吐息。その一言が、緻密に組み上げられたはずの私の理性を、一瞬でショートさせた。
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