敵対的買収、あるいは愛という名の債権回収
「……どういう、意味ですか」
肺の奥の空気が、不協和音を立てて喉元から押し出された。
指先が急速に熱を失い、末端の感覚から順に消失していく。
視線の先で、李宵が長い指先を動かした。
机の引き出しから取り出されたのは、繊維の詰まった厚手の宣紙。
それが黒檀の滑らかな天板の上を、乾いた摩擦音を立てて私の手元へと滑り込んでくる。
――カサリ。
静寂の中で響いたその音は、私の人生の「損益計算書」を強制的に書き換える、冷酷な宣告のようだった。
そこに並んでいたのは、見覚えのある父の署名と、現実味を欠いた零の羅列。
「お前の実家、林家の借用書だ。……父君の事業失敗、博打による負債、従兄弟の不始末に対する賠償金。……締めて金五千両」
鼓膜の奥で、甲高い耳鳴りが鳴り響く。
五千両。
私の生涯賃金を何十回積み上げても、到底到達することのない絶望的な数域。
実家の財政が債務超過に陥っている自覚はあった。
だからこそ、私は私生活を削り、定時退社という名の一時的な逃避を繰り返しながら、送金を続けてきたのだ。
けれど、目の前の紙片に滲む墨の跡は、沼の底が想像以上に深く、光さえ届かない暗黒であることを冷徹に示していた。
「……これ、は」
「すべて、朕が買い取った」
李宵の声音には、一切の揺らぎがなかった。
まるで、市場で暴落した不良債権を一括処理したかのような、事務的で、それゆえに抗いようのない響き。
「債権者は朕だ。……もしお前が『皇后』の座を拒み、ここから去るというのなら、即座に返済を求めることになる。当然、実家は破綻し、一族郎党は路頭に迷うだろうな」
椅子の脚が床を擦る重い音がし、赭黄の衣が視界の端を埋め尽くした。
彼が机を回り込み、私の領域を侵食してくる。
逃げ場のない龍脳の、湿った雨のような匂いが肺を満たす。
腰を、熱い塊が捉えた。硬い掌の感覚。
抵抗しようにも、足元から麻痺が広がり、筋肉が意思を拒絶する。
薄い単衣越しに突き刺さる、彼の強靭な体温。
鎧のように強張った筋肉の感触。
そして、私の背中に直接打ち込まれる、彼の一定で力強い心臓の脈動。
「……ひ、きょう……です」
震える唇を噛み締め、辛うじてその一言を絞り出す。
これはM&Aですらない。
最も悪質で、周到に外堀を埋められた「敵対的買収」。
彼は最初から、私という人的資産を確実に「固定資産」へと変えるために、実家の負債という名の脆弱性を計算し尽くしていたのだ。
至近距離で、彼の吐息が私の額を撫でる。
李宵の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
公務の際に纏う、鋼のような仮面はそこにはない。
私だけが、隠れ家の密室で幾度も目にしてきた、捕食者の鋭利な愉悦の色。
「卑怯で結構。……欲しいものを手に入れるためなら、朕はどんな手でも使う。お前が賢い女なら、どちらが得か計算できるはずだ」
熱い指先が、私の頬を、まるで検品するかのような冷徹さでなぞる。
そのまま指先が私の耳朶を捉え、甘い痺れを伴う強さで抓り上げた。
皮膚を焼くようなその執着は、二度と誰の手にも渡さぬという所有印を捺されているかのようだった。
「……俺の側で、国母として敬われ、実家も安泰となるか。……それとも、すべてを失って野垂れ死ぬか。……選べ、林鈴」
選択肢など、初めから提示されてはいない。
私は、自分を支配し尽くす「赭黄」の色に、視界をすべて奪われていた。
これは交渉ではなく、絶対的な王による、私の全人生を担保にした「完全降伏勧告」に他ならなかった。
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また明日[19:00]にお会いしましょう。




