退職願の提出、あるいは無益な抵抗
書斎の重厚な扉が、戸当たりを打ち抜く乾いた衝撃音を上げた。
バァンッ!
静謐に守られていた室内の気圧が、物理的に引き裂かれる。
肺に流れ込んできたのは、朝の透明な空気に混じる、肺の奥を凝固させるような沈香の香り。そして、微かな、けれど逃れようのない墨の匂い。
視界の先、黒檀の巨大な机が、底知れぬ深淵のように光を呑み込んでいる。
その向こう側。この国の最高意思決定機関そのものである李宵は、書類を繰る指先を止めることさえせず、ただ静止していた。
「……随分と賑やかな挨拶だな。朕の安眠を妨げるつもりか?」
低く、チェロの弦を震わせるような聲音が床を伝い、私の足首を絡め取る。
彼がゆっくりと貌を上げた。
逆光を背負ったその輪郭は、精緻な彫刻家が狂気の末に削り出したかのような鋭利な美を湛えている。
整いすぎた眉目、影を落とす高い鼻梁。
けれど、私という名の監査役を通せば、その造形は「他者の理性を麻痺させる視覚的な暴力」という名の、最大級の警告色に他ならない。
「契約違反です! 陛下!」
私は、まだ袖さえ通していない緋色の衣を、人生最大の「不良在庫」を抱えるような手つきで詰め寄った。
ドサッ。
滑り落ちる絹の塊が、黒檀の机上で波打ち、音もなく広がっていく。
「私は『監査役』としての契約は結びましたが、『妻』としての契約、ましてや『皇后』などという激務ポストへの就任など、一度たりとも合意しておりません!」
荒くなった私の呼気が、机上に整列していた宣紙の端を震わせる。
李宵は、感情の読めない黄金の瞳で私を見据えたまま、白磁の茶杯を指にかけた。
ズズッ。
喉を滑る茶の音。
そのあまりにも優雅な、余白を使いこなす絶対強者の所作が、私の神経を逆撫でする。
「……合意? 昨夜、衆人環視の中で朕の手を取っただろう。あれ以上の合意がどこにある」
「あれは! 貴方が強引に……っ! 大体、皇后の業務内容をご存じですか!? 六宮の統率、祭祀の主催、内外命婦への対応、さらには親族間の外交……。ROIが悪すぎます! 私の時給換算で幾らになると思っているんですか!」
指を折るたび、指先が微かに震える。
皇后という名の、装飾過多で実務効率ゼロの「お飾り」の役職。
それは、私の持つ「組織の最適化」というコアスキルを浪費する、致命的なリソース配分の誤りだ。
適材適所の原則を無視した人事は、組織崩壊のカウントダウンでしかない。
「元の緑衣に戻してください。……そして、私を定時で帰してください」
言葉の端に、隠しきれない懇願が混じり、喉の奥がヒリついた。
けれど李宵は、茶杯をコトリと置くと、組んだ指の上に顎を乗せ、逃げ場のない熱量で私を射抜いた。
「……帰す? どこへだ? お前の帰る場所など、もうこの帝国のどこにもないぞ」
聲音が一段と低まり、鼓膜の奥を甘い蜜のように侵食する。
瞳の奥で揺らめくのは、私が知る「理解ある上司」の理性ではない。
獲物を外堀から埋め立て、完全に退路を断ったことを確信した、捕食者の静謐な愉悦。
背中を伝う寒気が、私の肌を粟立たせた。
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