煤のテロリズム、あるいは視覚環境の毀損
ゲホッ、ゲホッ……!
肺の奥を直接逆撫でするような不快な刺激に、喉がせり上がった。
私は反射的に右手の筆を置き、盤領袍の袖で口元を強く覆う。
鼻腔を突き抜けるのは、高貴な後宮にはあるまじき、獣の脂が焦げたような饐えた臭気。
まるで換気の行き届かない安酒場の厨房に、無理やり顔を押し込まれたような感覚だ。
顔をしかめ、視線をデスクの右端へと向ける。
手の甲を確かめると、白磁のような肌の上に、点々と黒いシミが飛び散っていた。
「……最悪」
吐き捨てた声さえ、煤に汚されたように掠れている。
光源として鎮座しているのは、尚寝局から今朝配給されたばかりの新しい蝋燭だ。
だが、その炎は生き物の断末魔のように不自然にのたうち、先端からは龍の吐息を模したような、細く、けれど濃厚な黒煙が立ち上り続けている。
私は指先で、青銅の燭台に溜まった受け皿をなぞった。
指の腹にねっとりと絡みつくのは、精製が不十分な獣脂の残骸だ。
本来、私の品階に与えられるべきは、燃焼が安定し、仄かに甘い香りを放つ最高級の「蜜蝋」であるはず。
パチッ、と芯が爆ぜた。
火花と共に舞い上がった漆黒の煤が、ゆっくりと、けれど確実な重力に従って、私の目の前に広がる決算書の上へと降下した。
「あ」
思考より先に手が動いたが、無情にも指先は空を切る。
純白の宣紙の上に落ちた黒い塊は、瞬時に紙の繊維に油分を吸わせ、醜いシミとなって地図のように広がっていった。
一晩かけて検算し、完璧な整合性を保っていた数字の列が、たった一つの黒点によって「汚損アセット」へと書き換えられる。
――プツン。
こめかみの奥で、理性のブレーカーが火花を散らして落ちる音がした。
許さない。
私の呼吸器系を汚染するのは、百歩譲って「環境リスク」として計上しよう。
だが、私の神聖な成果物を物理的に破壊することだけは、断じて容認できない。
これは単なる備品の不具合ではない。
私の労働環境――クオリティ・オブ・ライフに対する、明白なテロ行為だ。
光の質は、アウトプットの質に直結する。
輝度が不安定で、絶えずノイズを発するディスプレイで、まともなデバッグ作業が行えるか?
否。
この煤けた視界は、私の思考のクリアランスを著しく阻害し、生産性を奈落へと叩き落としている。
このままでは、李宵への納期を守るどころか、私自身の安眠すら損なわれる。
「……尚寝局ね」
私は油膜で汚れた書類を握りつぶし、音もなく立ち上がった。
後宮の照明と寝具を統括する部署。
どうやらそこにも、蜜蝋を獣脂にすり替え、差額という名の甘い汁を吸い上げる害虫が巣食っているらしい。
私の視界を曇らせ、職務を妨害した罪。その社会的コストを、その身をもって精算してもらう。
私は胸元の合わせに「魚符」の冷たい重みを確かめると、煤の臭いが充満した部屋を飛び出した。
夜風が頬を叩く。その冷たさが、激昂した脳をさらに冷徹な「監査モード」へと加速させていった。
読んでいただきありがとうございます!
もしよろしければ、「リアクション」や「ご感想」をいただけると嬉しいです。
また明日[19:00]にお会いしましょう。




