甘い残業命令、あるいは永久契約の更新
夜が更け、長安の喧騒は完全に濾過された。
隠れ家の室内は、芯が爆ぜる微かな音を立てる蝋燭の炎によって、濃密な琥珀色の陰影に浸されている。
李宵が、白磁の酒杯を卓に置いた。
彼がわずかに重心を移動させただけで、盤領袍の絹が「シュ、シュ」と乾いた音を立て、私との境界線を侵食してくる。
鼻腔を突くのは、仄かな雨の気配を孕んだ龍脳の香りと、赭黄の衣の奥で燃える、彼自身の生々しい体温だ。
「……公務は定時で終わったが」
耳朶に直接届く、チェロの低音のように響く聲音。
その吐息の熱が、私の首筋の産毛を一斉に逆立たせ、中枢神経へと甘い痺れを伝達させていく。
「俺の妻としての務めは、これからだぞ」
「……ふふ。残業代は高いですよ?」
私は彼を見上げ、不敵に口角を釣り上げた。
返答と同時に、視覚的な暴力とも言える彼の美貌が、至近距離で私の瞳孔を強制的に散大させる。
引き寄せられた腰のあたりから、心拍の振動が、共鳴する回路のように私の身体を駆け巡った。
重なり合った唇から流れ込んできたのは、桂花陳酒の芳醇な蜜の味と、理性という名の防壁を焼き尽くそうとする彼の渇望。
抵抗の意思など、脳内のどのフォルダを探しても見当たらない。
私の体細胞の一つ一つが、彼の存在という「報酬」を、飢えた捕食者のように希求していた。
「……体で払う。一生かけてな」
視界がふわりと浮き上がり、次の瞬間には、身体の自重が柔らかい寝具へと沈み込んでいた。
覆いかぶさる彼の身体の重みが、私の肺を優しく圧迫する。
瞳の奥に宿る熱は、この世に私という「唯一の価値」しか存在しないと断じる、静謐な凶器のよう。
「……愛している、鈴」
それは、帝国の支配者が、ただ一人の個体に向けて捧げた、祈りにも似た誓約。
私は、彼の広い背中に指先を食い込ませ、その熱に浮かされた瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……ええ。私も愛しています、宵」
喉の粘膜が震え、自分でも驚くほど湿り気を帯びた聲が漏れ出る。
その瞬間、彼の端正な貌が、驚きによって劇的に弛んだ。
それは、世界中の富を監査し終えた者だけが手にする、泣き出しそうなほど無防備な幸福の弧。
言葉という不確実な媒体は、もはや不要だった。
肌と肌が密着する境界線から、際限なく熱が溶け合っていく。
混ざり合う呼吸の酸素濃度が上がると共に、私たちは何度目かの、そして未来永劫に渡る「終身雇用契約」を、魂の刻印として深く上書きし続けた。
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