不変の聖域、あるいは極上の報酬
隠れ家。
かつては冷たい石床に埃が堆積していただけの廃倉庫は、今や外界の喧騒を完全に遮断する、私たち二人だけの「聖域」へと再定義されていた。
木製の扉を押し開くと、閉鎖的な空間特有の重い空気を切り裂いて、弾けるような生姜の香りと、胡麻油の芳醇な熱気が鼻腔をくすぐる。
薄暗い室内を支配しているのは、規則正しく立ち昇る真っ白な湯気だ。
その向こう側、平服の麻の袖を無造作にまくり上げ、蒸籠の蓋を検品するように持ち上げている男がいた。
赭黄の盤領袍を脱ぎ捨て、絶対君主という名の「過負荷な役割」を一時停止した李宵は、ただの「料理に熱中する一人の男」としてそこに存在していた。
「……おかえり、鈴」
彼が振り返り、瞳の端を柔らかく弛ませる。
その視線に触れた瞬間、朝から張り詰めていた私の前頭葉の緊張が、熱い湯に浸した真綿のように解けていく。
「ただいま戻りました、あなた」
私は、彼の胸元に残る龍脳の微かな残り香を吸い込むようにして歩み寄り、至近距離で重なり合った。
唇から伝わるのは、蒸籠の熱気を含んだ温かな湿度。
それは、帝国という巨大な不採算部門を統べる冷徹な緊張感から、私たちの存在を一時的に「オフライン」へと導く、極上のスイッチだった。
卓の上には、薄く透明な皮の向こう側に赤色の海老が透けて見える、出来立ての蒸し餃子。
そして、白磁の杯に注がれた、金木犀の花びらが黄金色の蜜のように沈む桂花陳酒。
私たちは向かい合い、氷のように冷えた杯の縁を合わせた。
「……乾杯」
――カチン。
静寂を突く澄んだ音が、室内の澱んだ熱を弾き飛ばす。
尚書令と皇帝という最高責任者同士の契約ではなく、林鈴と李宵という、剥き出しの個体同士としての共鳴。
「今日の省議はどうだった?」
「ええ、元・典膳の提案した『給食制度』が好評で……」
福利厚生の進捗、市場で見かけた珍しい果実、明朝の雲の形。
かつては「ROIの低い雑談」として切り捨てていた他愛のない情報の断片が、今はどんな極上の古典音楽よりも心地よく脳髄を癒やしていく。
誰の視線も、誰の利害も介在させない。
この数分間の、完全なプライバシーという名の「非公式な対話」を勝ち取るために、私たちはあの中の悪い世界を最適化し続けてきたのだ。
揺らめく灯火と湯気の向こう側で、李宵が長い睫毛を伏せ、慈しむように私を視界に収めている。
その黄金の瞳の奥に滲むのは、言葉という不確実な媒体を介さずとも伝わってくる、絶対的な全肯定という名の熱だった。
食事を終え、彼が私の腰を力強く引き寄せた瞬間、空気の密度が劇的に変化する。
衣が擦れる音さえ、契約の完了を告げるサインのように、甘く、鋭く響いた。
「……ここからは、俺の専属監査役への、深夜残業代の支払いだ」
囁きと共に、龍脳の香りが熱を帯びてなだれ込んでくる。
融け合う脈動。
高鳴る心拍のクロック周波数は、もはや計測不能なほどの幸福な暴走へと、私たちを突き落としていった。
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また明日[19:00]にお会いしましょう。
**あと2話で完結予定です。クライマックスまで引き続きお楽しみください。**




