再契約の儀、あるいは終身雇用の提案
申の刻。
数千人の体温が消えた後宮は、真空地帯のような静寂に沈んでいた。
私たちは、かつて「不採算部門の監査拠点」として占拠していた、あの埃っぽい廃倉庫の隅にいた。
西日が格子の隙間から水平に差し込み、滞留する塵を黄金色の電子回路のように輝かせている。
卓に向かい合う李宵の貌半分は濃い陰に沈み、残された黄金の瞳だけが、行き場のない熱を孕んで私を射抜いていた。
彼は組んだ指の関節が白く浮き上がるほど拳を握りしめ、その指先は、制御不能な震動を刻んでいる。
「……林鈴。お前も、自由だ」
肺の底から絞り出された聲音は、掠れ、湿り気を帯びていた。
「望むなら、十分な持参金を持って出て行ってもいい。……俺にはもう、皇帝の権限で愛する女を縛る権利はない」
それは、退職推奨を装った、臆病なまでの「懇願」だった。
すべてを合理化し、檻を壊し尽くした今、私を繋ぎ止める物理的な拘束具を彼は何一つ持っていない。
卓を挟んで伝わってくるのは、彼という巨大なシステムの基幹が、私という「核」を失う恐怖で激しく過熱している予兆。
私は音もなく歩み寄り、彼の手元の空白を埋めるように、一枚の宣紙を滑らせた。
無意識に、空中で指を動かし見えない諸表の最終行をなぞる。
昨夜、墨の匂いに包まれながら、一文字ずつ私の意志を刻印した「新規雇用契約書」だ。
「再就職を希望します。……条件は、貴方の隣。契約期間は、死ぬまで(終身)」
私が口角を不敵に釣り上げると、彼の網膜が激しく震えた。
視線が、書類の項目と私の貌を、何度も往復する。
やがて、鋼のように強張っていた彼の貌が、内側から崩壊するように劇的に緩んだ。
それは絶対君主の仮面が剥がれ落ち、世界でただ一つの重要資産を手に入れた、無防備な少年の貌だった。
「……採用だ。即時採用だ!」
ガタァッ! と椅子が床を蹴る衝撃音。
卓を回り込んできた彼の腕が、私の肋骨が悲鳴を上げるほどの力感で、私の身体を「所有」した。
耳朶に直接叩きつけられる、早鐘のような心拍。
龍脳の香りが、夕刻の冷え始めた空気の中で爆発するように立ち昇る。
「絶対に逃がさんぞ。……これからは、俺の『伴侶』として、そして『宰相』として、こき使ってやるからな」
「ええ。覚悟の上です。……ただし、残業代は高くつきますよ?」
私は彼の首筋に腕を絡め、剥き出しの体温を吸い込んだ。
義務でも、政略でも、ましてや運命などという曖昧な変数でもない。
私というプロフェッショナルが、自身の全機能を賭けて選び抜いた、生涯最高の「配属先」。
重なり合う唇の端で、鉄のようなインクの匂いと、甘い点心の余韻が混じり合う。
西日に照らされた卓の上には、新しい契約書――役職名**「尚書令 兼 皇后」**と書かれた紙面に、乾く間もない鮮やかな朱の「承認」が、深く、重く刻印されていた。
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