皇太后の最後通牒、あるいは黒い水の氾濫
昼。
紫宸殿の広大な空間は、逃げ場のない熱気と、何十人もの官僚たちの呼気が混じり合う、ねっとりと重い澱みに沈んでいた。
不快な湿り気を帯びた風が吹き抜け、それに乗って、黒衣を纏った老婆――皇太后が音もなく滑り込んできた。
――シュ、シュ、シュ……。
石床を這う長い裾が、乾いた摩擦音を立てる。
その衣擦れの一音一音が、俺のささくれ立った神経を直接逆撫でする、不快なノイズとなって脳髄に突き刺さった。
「……情けない顔だな、皇帝」
老婆の聲音には、体温が一切通っていない。
彼女は、機能不全に陥った不採算部門を切り捨てる冷徹な検品者のような目で、玉座に座る俺を見下ろした。
その背後には、己の利権を死守しようと勝ち誇った表情を貼り付けた保守派官僚たちが、厚い壁のように控えている。
「国が乱れているのは、あの女がいるからだ。伝統を壊し、和を乱す異物……。妖女を処刑すれば、秩序は戻る。今すぐ首を刎ねよ」
「……違う」
俺は、砂漠の砂を噛むような渇きを覚える唇を、強引に動かした。
喉の粘膜が張り付き、声が擦れる。
それでも、胸の奥で燻る熱い質量を言葉に変えなければならなかった。
「彼女こそが、秩序だ。……彼女の計算だけが、この腐りきった国を、正しく動かしていたのだ」
「戯言を! 数字遊びで国が治まるものか!」
皇太后の鋭い一喝が、静寂を物理的に引き裂いた。
その瞬間、俺の脳内のどこかで、張り詰めていた細い鋼の線が、弾けるような音を立てて断裂した。
――プツン。
理性の防壁が崩壊し、深淵に溜まっていたどす黒い奔流が、堰を切って意識を飲み込んでいく。
(……ああ、もういい)
議論という名の対話コストを払うのは、もう限界だ。
目の前に並ぶ、権威に依存するだけの老害も。その影で甘い汁を吸おうとする寄生虫どもも。
俺の「聖域」である鈴を奪い、俺の設計した世界をバグで満たそうとする害虫たち。
すべてを根こそぎ、物理的に排除してしまえば、この耳障りな世界は静寂を取り戻す。
それは皇帝という名の最強の権限を持つ俺にとって、最も単純で合理的なデバッグに過ぎない。
俺の右手は、吸い寄せられるように腰の剣の鮫皮が貼られた柄へと伸びた。
同時に、もう片方の手が懐に忍ばせた、冷たく硬質な金属の感触を掴む。
神策軍の動員命令書――虎符。
二つに分かたれた虎の形の青銅が一つに重なる時、この長安は鉄と血の嵐に包まれる。
粛清しよう。
鈴という名の唯一の価値を奪おうとする愚か者たちを、一人残らず。
歴史の帳簿に「暴君」という不名誉な称号が書き込まれようとも、彼女という光を失った不採算な世界を守り抜く義理など、今の俺には、欠片ほども残っていなかった。
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