後日談-距離
――アルヴェイン公爵邸での生活にも慣れてきた頃。
宮廷から帰ってくるノアを前庭に迎えに出ると、夕陽が長い影を落とし、まだ少し冷たい春の風がひんやりと頬を撫でた。
門の向こうから見慣れた馬車が入ってくる。
その姿を見るだけで、胸の奥がふわりと温かくなるのが不思議だった。
(……帰ってきた!)
ほんの数時間離れていただけなのに、こうして姿を見るだけで、ほっとしてしまうのだ。
馬車の扉が開き、ノアが姿を現した。
夕陽を背に受けて立つその姿は、顔にかかる影のせいかいつもよりかっこよくて思わず胸がドキドキする。
ノアは私を見つけた瞬間、表情がふっと緩んだ。
「エリー?」
少し驚いたような声。
私は小さく微笑んで一歩近づいた。
「おかえりなさい、ノア」
たったそれだけの言葉なのに、
口にした瞬間、胸がくすぐったくなる。
“帰る場所”として彼を迎えることが、とても幸せで、でも少し気恥ずかしくもあった。
ノアは一瞬だけ目を細めて、それからゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「……迎えに来てくれてたんですね」
「うん。今日は少し早く帰るって聞いたから」
「そうですか」
ノアは少しだけ視線を伏せて、息をつく。
「帰ってきた時にエリーがいてくれると嬉しいです」
思わず顔を上げると、ノアは少しだけ照れたように笑っていた。
「こういうの、いいですね」
「……っ」
急にそんなことを言われて、頬が熱くなる。
言葉に詰まる私を見て、ノアは自然な仕草で私の手を取る。
指先が触れた瞬間、じんわりと温もりが広がった。
「風が冷たくなってきましたね。
少し手が冷えてます。
早く中に入りましょう」
「うん……」
頷くと、ノアはそのまま手を離さずに歩き出す。
その距離が当たり前みたいで――
でも、まだ少しだけくすぐったい。
廊下を並んで歩きながら、ふと視線を上げる。
(今日もかっこいいなぁ……)
ノアが私の旦那様だなんて、まだ信じられない。
私が見つめていると、ノアの視線がこちらを振り向く。
「エリー?」
「え!」
恥ずかしくて、私は慌てて俯いた。
「どうかしましたか?」
覗き込まれて、慌てて首を振る。
「ううん、なんでもない」
ノアは少しだけ不思議そうにしながらも、それ以上は聞かずに歩調を合わせてくれる。
その優しさに、胸が温かく満たされる。
だけど、私の中でずっと気になっていることがあった。
夫婦の部屋についてから、私はノアに話しかけた。
「……ねぇ、ノア」
呼びかけると、ノアは柔らかく目尻を下げた。
「どうしましたか?」
「ノアに……その……お願いがあるの」
「お願いですか?」
「そこ!そういうところ!」
「え?」
不思議そうに首を傾げるノアに、私は歩み寄る。
「……敬語をやめてほしいの」
「……!」
「その……距離を感じてしまって……。
私たち夫婦なんだもの。
もっと、距離を近くしたいの」
私の言葉にノアは目を丸くする。
「……エリーがそう言うなら、努力します。
じゃなくて、努力する」
ノアの耳が僅かに、じわっと赤く染まっていく。
「ノア、照れてる?」
「……照れてます」
(ノアが照れるなんて……珍しい)
「でも……エリーに頼みごとは何でも聞きたい」
「――っ!」
今度は私の方が熱くなる。
(ズルい)
ノアは私の反応を見るなり、ふっと表情を変えた。
優しいままなのに、どこかいたずらっぽい。
「エリーも赤くなってるね」
「なってないわ!」
「なってるよ。ほら……」
ノアはそっと指先で私の頬に触れる。
「こうして触れなくても分かるくらいに」
「ノア……からかわないで……」
「からかってないよ。
ただ……可愛いなって思ってるだけ」
私がうつむくと、ノアは少しだけ距離を詰めた。
「ねぇ、エリー」
「……なに?」
「敬語をやめたら……もっと近づいてもいいってことかな?」
甘く落ちる声に、胸がびくっと跳ねる。
自分でお願いした癖に、私の心臓はノアに聞こえてしまうんじゃないかと不安になるくらい高鳴った。
「ノ、ノア……?」
「なに?エリー?」
耳元にかかる吐息がくすぐったい。
「これくらいの距離は嫌?」
穏やかな声なのに、逃げ道がない。
「……い、嫌じゃない……けど……」
私が目を逸らすと、ノアは楽しそうに微笑んだ。
そっと触れた指が、私の頬を優しくなぞって、ノアの顔が近付いてくる。
「……責任、取ってくれる?」
「え?」
「“近づいてほしい”って言ったの、エリーでしょ?」
息が触れる距離に、心臓がもたない。
私が思わず目を閉じると、唇に柔らかい感触が触れる。
ノアがゆっくり唇を離す。
顔が熱くて上げられなかった。
だけど、ノアの指が私の顎をそっとすくい上げる。
「顔、見せてください」
(……敬語に戻るタイミングが反則すぎる……)
逆らえずに、顔をあげると彼はまた優しくキスを落とす。
触れた瞬間、胸の奥がじんわりと熱を持つ。
離れたくない。
このまま時間が止まればいい。
そんな気持ちが自然と込み上げて――
その溶けるようなキスに溺れていった。




