獅子に奪われた心
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馬車を降りたジェナを待っていたのは、王宮からの急ぎの書簡と父からの呼び出し……。
馬車が去った後も、私の頭の中は先ほどのキスの熱で真っ白なままだった。
(――あんなふうに、真っすぐに私を求めてくれる人がいる)
つい先日まで、考えもしなかったことだ。
かつてユリシーズ様との婚約では、『こういうものなのだろう』と自分に言い聞かせて割り切っていた気持ちが、ルーサー様の甘い熱によって完璧に満たされていく。
さっきまで知った裏切りに震えていた胸が、今はあふれる幸福感で甘く疼いていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。旦那様が書室でお待ちです」
「お父様が……?」
屋敷の玄関で出迎えてくれた執事の言葉に促され、私はふわふわとした足取りで書室へと向かった。
「王宮より急ぎの書簡をお受け取りになられました」
ドアをノックして中に入ると、父が重々しい面持ちでデスクに向かっている。
「お父様、お呼びでしょうか?」
「ああ、ジェナ。よく戻った」
父は机の上にあった一通の書面をこちらに向けた。そこには、王家の厳格な紋章がこれでもかと押されている。
「王家から正式に通達が届いた。……ユリシーズ殿下の……諸々の事情に伴い、ルーサー殿下が王位継承第一位となる。つまり、お前の婚約者を挿げ替える、という正式な書面だ」
「――ッ」
息をのむ私に、父はゆっくりと立ち上がり、優しい、けれどどこか呆れたような目を向けた。
「何を今さら驚いて……あぁ、子どもの頃のことだから覚えていなかったのか。お前の婚約者は『王太子』だ」
(……え……っ!?)
『王位を継ぎたいのではなく、【継承権第一位】の座が欲しかったのですよ』
脳裏に、ルーサー様のアメジストの瞳とあの時の言葉が蘇る。
(そういう、ことだったの……!?)
「我が家の血筋を守るための処置とはいえ、ジェナ、お前に異存はあるか? もしルーサー殿下との縁談に戸惑いがあるなら、父として全力で――」
言いかけた父の言葉が、ふっと途切れる。
父の視線が、私の唇へとまっすぐに向けられた。
(……あッ!)
私は思わず、慌てて両手で唇を覆い隠した。
ルーサー様に何度も吸われ、熟れたいちごのように腫れて赤みを帯びた唇が、まだじんじんと熱を持っていた。おそらく、口紅も乱れてしまっているはずだ。
父は私ののぼせ上がったような表情と、隠しきれない甘い余韻をじっと見つめ――そして、すべてを察したように深々と溜息をついた。
「……いや。何も言うまい」
「お、お父様……?」
「お前のその顔を見れば答えは明白だ。……聞くまでもないな」
からかうような、けれど愛おしむような父の言葉に、私はカッと顔を真っ赤に染めた。
心臓がドクンと大きく跳ねる。
(……迷い、なんて……)
ユリシーズ様の裏切りを知って絶望しかけた私を、ルーサー様はあの甘いキスで、圧倒的なまでの愛と独占欲で、完全に包み込んでくれたのだから。
私の未来はもう、あの人の隣以外にあり得ない――そう確信した私の胸は、あふれんばかりの幸福感で満たされていた。
「むしろ、ユリシーズ殿下より……いや、もう過ぎたことだな」
父は奇妙にホッとしたような吐息をつくと、私の退出を促したのだった。
◇
お父様の書室を辞して自室へ戻ると、室内にはほのかに甘い蒸気と湯あみの香りが満ちていた。
すでに準備を整えてくれていたロッティの手で身を清め、着替えを済ませる。ドレッサーの前に腰掛け、濡れた髪を上質なタオルで優しく拭ってもらっていると、鏡越しに目が合った。
ふと、馬車の中での出来事が頭をよぎる。
(そういえば……)
私は頬にのぼせる熱を抑え込めないまま、意を決して口を開いた。
「ねえ、ロッティ」
「はい、お嬢様。何でしょう?」
「……さっきの馬車でのことなのだけれど」
鏡の中のロッティの手が、ピタリと止まる。
「今まで、ユリシーズ様が私に触れようとした時は、あなた、文字通り体を張って全力で私を守り抜いてくれたわよね?」
「もちろんでございます。御成婚前のお嬢様の愛らしく純真なお肌を守るのはこのロッティの仕事でございます!」
自信満々に胸を張るロッティに、私はじとっとした視線を向けた。
「……じゃあ、どうしてルーサー様の時は『見ておりません!』なんて言って背を向けたの? 助けてくれるどころか、見て見ぬふりをしたじゃない」
問い詰められたロッティは一瞬だけ「ギクッ」と肩を跳ねさせたものの、すぐにふっと満足げな、どこか得意げな笑みを浮かべた。
「お嬢様。それは愚問というものでございます」
「ぐ、愚問……?」
「先ほどのことは、『未来の旦那様による愛の囁き』でございます。主の幸福なご歓談を邪魔するなど、侍女として万死に値しましょう」
「ご、歓談って……あんな……っ!?」
真っ赤になって口ごもった私に、ロッティはニヤニヤとした笑みを隠しようともせず、手際よくブラシで髪をすきあげていく。
「それに……ルーサー殿下は……あのようなお方に逆らうほど、私は愚かではございません」
ロッティが私の髪を見つめながら、ぽつりと呟く。
「あの御方は紛れもなく、『獅子』でございます」
『獅子』――。
彼の怜悧な美貌、あのアメジストの瞳は、近寄る者を容易には寄せ付けないような圧倒的な威厳を帯びていて――。
「それに何より――ルーサー殿下とご一緒にいる時のお嬢様、とても幸せそうなお顔をなさっておられましたから」
「~~~っ!? なっ、何言ってるのよッ!?」
「ふふふ、図星でいらっしゃいますね?」
ロッティに揶揄われつつ、鏡の中の自分を見ると、頭のてっぺんまで真っ赤に茹で上がった私の姿が映っていたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
『あの御方は紛れもなく、獅子でございます』
完全にルーサー様の味方(というか恐れおののいている?)なロッティでした。
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