第三十八話 心の秘密
シエナの町を離れてからも、マッセオは黙って歩いていた。
道はなだらかな丘を越え、朝の光の中へ伸びていた。その光は、歩く者すべてを等しく照らしていた。善人にも悪人にも、賢い者にも愚かな者にも。フランチェスコは、少し前を歩いている。その背中を見ながら、マッセオの胸の中では、先ほどから同じ思いが繰り返されていた。
――あの善い人は、いったい何をしているのだろう。
自分には、三叉路で子供のように回れと命じた。何度も回らせ、何度も地面へ倒れさせた。人々が見ている前で、恥をかかせた。その一方で、司教があれほど厚い礼を尽くしてくれたというのに、礼を述べることもなく、ひそかに館を出てしまった。
マッセオは、その行いを理解できなかった。いや、理解できないだけではなかった。それは、分別を欠いた振る舞いのように思われた。
人から親切を受けたなら、感謝を示すべきではないか。人の前で相手を辱めるような命令をしてよいのか。善い人であるなら、なおさら、慎みと礼儀をわきまえるべきではないのか。
マッセオは、心の中でそう考え続けた。フランチェスコは何も言わない。その沈黙が、マッセオの思いをさらに膨らませた。
――あの人は、聖なることを知っている。しかし、世の中の分別については、少し欠けているのではないか。誰かが、そばにいて助言しなければならないのではないか。
そのとき、マッセオの胸の奥に、別の声が生まれた。それは、先ほどまでのつぶやきとは違っていた。もっと静かで、もっと深いところから響いてくる声だった。
――兄弟マッセオよ。
マッセオは、歩みを緩めた。
――お前は、あまりにも高慢ではないか。
彼は、足もとへ目を落とした。道ばたの小石が、朝の光を受けて白く光っている。それは、彼の心の中の光を映すかのようだった。
――お前は、神の御業を、自分の小さな分別で裁こうとしている。
昨日のことを思い出せ。シエナの市場で、男たちは剣を抜いていた。二人はすでに殺されていた。争いが続いていたなら、さらに多くの人々が死んでいただろう。剣は、すでに始まっていたように、多くの身体を食い尽くしたに違いない。そして悪魔は、多くの魂を地獄へ連れ去っていただろう。
けれど、フランチェスコはその中へ入っていった。武器を持たず、怒鳴りもせず、ただ神の平和を語った。そして、争っていた者たちを和解へ導いた。もし天使がそれを成したとしても、それ以上に驚くべきことではありえなかった。
マッセオは、胸の奥が痛むのを感じた。自分は、あの聖なる出来事を目の前で見ていた。それなのに、いま、フランチェスコの行いを裁いている。
――お前は、何を見ているのだ。神の御業か。それとも、自分の分別か。
マッセオは、立ち止まりそうになった。しかし、フランチェスコはそのまま歩き続けている。マッセオは、重い足を前へ出した。
――兄弟フランチェスコが、お前に石を投げよと命じたなら、お前はそうするべきだ。理解できるかどうかではない。命じられたことが、自分にとって恥ずかしいかどうかでもない。神の御心が、その人を通して示されていると信じ、従うべきなのだ。
マッセオの胸に、三叉路の光景がよみがえった。人々が笑っていた。子供たちが指をさしていた。自分は何度も倒れ、それでも立ち上がった。あのとき、自分には何もわからなかった。ただ、フランチェスコの命令に従った。
そして、その道の先にシエナがあった。シエナでは、二人の人間が殺され、さらに多くの者が死のうとしていた。自分が回ったことと、シエナで平和が生まれたこと。その二つの間に、人間の知恵では説明できないつながりがあった。
フランチェスコは、それを知っていたのかもしれない。あるいは、知っていたのではなく、神に導かれていたのかもしれない。
マッセオは、司教の館を出た理由についても考えた。フランチェスコは、司教の親切を軽んじたのではない。むしろ、司教から向けられた誉れが、自分の中に留まることを恐れたのだ。町の人々は、彼を称えた。司教も、彼を敬った。けれど、フランチェスコは、その称賛を受け取ろうとしなかった。彼は、すべてを神へ返した。
――兄弟マッセオよ。マッセオは、胸の中で自分に語りかけた。――お前は、神のわざに対してつぶやいている。明らかに神の御心から出たことを、自分の愚かな判断で裁いている。お前は、なんと愚かで、高慢なのだ。
その思いに気づいたとき、マッセオは恐ろしくなった。自分は、フランチェスコを心配しているつもりだった。彼のために、正しいことを考えているつもりだった。しかし、その実、自分が正しく、フランチェスコが間違っていると思っていた。自分の分別を、彼の従順より上に置いていた。自分の判断を、神の導きより信頼していた。
マッセオは、頭を垂れた。
――主よ。私の心から、この高慢を取り去ってください。
そのとき、前を歩いていたフランチェスコが足を止めた。マッセオは、驚いて顔を上げた。フランチェスコが、こちらを振り返っている。
「兄弟マッセオ」
「はい」
声が震えた。フランチェスコは、ゆっくりと彼のもとへ近づいてきた。
「いま、あなたが考えていることを、しっかりと心に留めておきなさい」
マッセオは、息を呑んだ。
「いま、私が考えていることを……」
「それは善いことです」
フランチェスコは言った。
「有益なことです。そして、神から与えられた霊感によるものです」
マッセオの顔から、血の気が引いた。自分は、何も口にしていない。誰にも話していない。それなのに、フランチェスコは、自分の胸の内を知っている。
「けれど」
フランチェスコは、静かに続けた。
「最初にあなたの心に浮かんだつぶやきは、盲目で、空しく、高慢なものでした」
マッセオは、うつむいた。
「それは、悪魔があなたの心へ投げ入れたものです」
しばらく、二人の間に沈黙があった。風が丘の草を揺らしている。遠くで鳥が鳴いた。その声は、どこか寂しげだった。
マッセオは、ようやく声を絞り出した。
「父よ……私の心をご存じなのですか」
「私が知っているのではありません」
フランチェスコは答えた。
「神が、あなたの心にあるものを私に示されたのです」
マッセオは、深く頭を下げた。自分が隠していたと思っていたものは、神の御前では隠れていなかった。つぶやきも。疑いも。自分を正しい者だと思った瞬間も。すべて、神には見えていた。
それでも、フランチェスコは彼を責めなかった。ただ、善い思いと悪い思いを分けて示した。神から来たものを守り、悪魔から来たものを退けるように教えた。
マッセオは、ひざまずいた。
「父よ。私は、あなたを自分の分別で裁こうとしました」
「誰もが、その誘惑を受けます」
「私は、理解できないことを愚かなことだと思いました」
「理解できないからといって、神の御業でないとは限りません」
「私は、自分の判断を、神の導きより信じました」
フランチェスコは、マッセオの肩に手を置いた。
「それに気づいたなら、神に感謝しなさい」
「私のような者をも、神はお見捨てにならないのでしょうか」
「神は、弱い者をお見捨てになりません」
フランチェスコは、穏やかに微笑んだ。
「人が自分の高慢を見ることができるのは、神の光が心に差し込んだからです。暗い部屋に積もった塵は、光がなければ見えません。見えたことを悲しむだけでなく、光が来たことを喜びなさい」
マッセオの目に、涙が浮かんだ。
フランチェスコは、昨日、町の人々を平和へ導いた。今日、自分の心に潜んでいた高慢を、光の中へ引き出した。どちらも、同じ神の知恵から生まれた働きだった。
フランチェスコは、人々の前に立つときだけ神に仕えていたのではない。ひとりの兄弟の心の中にある、見えない争いの前にも立っていた。剣を持った男たちを和解させたように、マッセオの中で争っていた思いをも、平和へ導こうとしていた。
マッセオは、フランチェスコの足もとに額をつけた。
「どうか、これからもお導きください」
「ともに歩みましょう」
フランチェスコは言った。
「私もまた、神の導きを必要とする者です」
マッセオは顔を上げた。
「あなたも、ですか」
「もちろんです。私は、自分の力で正しい道を知る者ではありません。神が導いてくださるときに、ようやく歩くことができる者です」
その言葉を聞いて、マッセオは深く心を動かされた。フランチェスコは、自分を偉大な者として示そうとはしなかった。神に近い者であることを誇るのではなく、神なしには何もできない者として立っていた。
二人は、再び歩き始めた。
マッセオは、もう先ほどのようにフランチェスコの行いを裁こうとはしなかった。それでも、自分の心から高慢が完全に消えたとは思わなかった。人の心は、一度光に照らされたからといって、すぐに清らかになるものではない。新しい誇りが、別の形で忍び込むこともある。
だからこそ、マッセオは、自分の思いを神の前に置き続けなければならなかった。正しいと思うときも。理解できないときも。誰かを裁きたくなったときも。自分の心の中に、神から来たものと、悪魔から来たものが混じっていることを忘れないために。
道の先には、朝の光が広がっていた。フランチェスコは、マッセオの隣を歩いていた。先を歩くのでもなく、後ろから従わせるのでもなく、同じ道をともに進んでいる。
マッセオは、そのことをありがたく思った。自分の心の秘密を知られても、捨てられなかった。高慢を見抜かれても、見放されなかった。フランチェスコは、彼を裁くために真実を示したのではない。神の平和へ戻すために、真実を示したのだ。
その日、マッセオはひとつのことを学んだ。
人は、他人の行いを裁く前に、自分の心を見なければならない。そして、自分の心を見るためには、神の光を恐れてはならない。光は、隠していたものを明らかにする。けれど同時に、そこから立ち直る道も照らしてくれる。
二人は、静かな道を歩いていった。その上に、朝の光がまっすぐ降り注いでいた。その光は、彼らの影を長く地面に落としていた。影は揺れていたが、確かに前に進んでいた。
---
*この章は、マッセオの心の内面を深く描いている。彼はフランチェスコを敬愛しながらも、その行いを自分の分別で裁こうとした。しかし、彼自身の内なる声が、その高慢を指摘した。そしてフランチェスコは、その心の内を正確に見抜き、善い思いと悪い思いを分けて示した。この物語は、霊的指導者と弟子の関係の深さを示している。フランチェスコは、マッセオの心の秘密を知りながら、それを責めず、むしろ成長の機会へと変えた。真の指導者とは、相手を裁く者ではなく、相手の魂を神の光へ導く者である。フランチェスコはそのことを、自らの生き方で示した。*




