第三十七話 司教の館を出て
その夜、シエナの町は静かだった。
昼間、剣の音と怒号に満ちていた市場も、いまは深い沈黙に包まれている。通りには人影が少なく、家々の窓から漏れる灯りだけが、石畳の上に細く伸びていた。その灯りは、まるで町そのものが安堵のため息をついているかのようだった。
町の人々は、ようやく眠りにつこうとしていた。争いは終わった。これ以上、血は流れなかった。しかし、その静けさの中でも、二人の男は眠っていなかった。
フランチェスコはなかなか眠らなかった。司教が用意した部屋の片隅で、彼はひざまずいていた。粗末な修道服の裾が床に触れている。窓の外から、夜の風が入ってきた。その風は、昼間の血の匂いを運んではこなかった。ただ、春の夜の冷たさだけを運んでいた。
フランチェスコは、長いあいだ何も言わずに祈っていた。
自分が今日、何かを成したのではない。自分の言葉が、男たちを平和にしたのでもない。神が、彼らの心に触れられたのだ。自分は、その御業の前に置かれた小さな器にすぎない。
もし言葉が届いたのなら、それは神が語らせてくださったから。もし人々が剣を置いたのなら、それは神が彼らの心を憎しみから解放してくださったから。そのことを、彼は何度も何度も心の中で確かめていた。
人々の歓声。自分を運んだ腕。聖人と呼ぶ声。司教が示した深い敬意。それらはすべて、神へ返さなければならない。人の称賛は、甘い。そして、甘いものほど、心に入り込みやすい。それは、祈りのような顔をして近づいてくることもある。
自分は神のために働いたのだ。自分は人々を救ったのだ。自分には、特別な力があるのだ。そう思った瞬間、神の御業は、自分の手柄へと変わってしまう。その危険を、フランチェスコは誰よりもよく知っていた。
フランチェスコは、胸の前で手を組んだ。
「主よ」
彼は低く祈った。
「私の中に、あなたから私を遠ざけるものがあるなら、どうか取り去ってください」
返事はなかった。けれど、返事がないことを恐れなかった。神の沈黙の中にも、神の御心はある。フランチェスコは、夜が深くなるまで祈り続けた。
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隣の部屋では、マッセオが眠っていた。
彼は疲れ果てていた。三叉路で何度も回り、シエナへ着いてからは人々に運ばれ、市場では争いの中に立つフランチェスコに付き従った。身体は重く、まぶたは閉じたまま開かなかった。
眠りに落ちる直前、彼は昼間の出来事を思い返した。怒りに燃えていた男たち。地面に広がった血。フランチェスコの声。そして、剣が一つずつ石畳へ落ちていった音。
マッセオは、胸の中で神に感謝した。フランチェスコとともに歩けることを、ありがたいと思った。この人のそばにいれば、神の御業を目の前で見ることができる。そう思いながら、彼は眠りについた。
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翌朝。空がまだ暗いうちに、フランチェスコは起き上がった。
館の中は静まり返っていた。司教も、召使いたちも、まだ眠っている。フランチェスコは、身支度を整えた。マッセオも目を覚ました。
「兄弟、起きなさい」
「もう朝ですか」
「出発します」
マッセオは、眠気の残った目をこすった。
「出発するのですか」
「はい」
フランチェスコは、静かに頷いた。
「司教さまに、お別れを申し上げなくてよいのですか」
「眠っておられるでしょう」
「それなら、起こしてご挨拶をしてもよいのではありませんか」
フランチェスコは、少し微笑んだ。
「司教さまには、すでに十分なお心遣いをいただきました」
「ですからこそ、感謝を申し上げてから出るべきではないでしょうか」
マッセオは、そう言いながら、自分でもその言葉の奥にあるものを確かめていた。フランチェスコは答えなかった。彼は、館の扉へ向かった。その歩みには、ためらいがなかった。マッセオは仕方なく、その後に続いた。
二人は、司教にも、召使いたちにも知られぬまま、館を出た。
朝の町は、まだ眠っていた。店の扉は閉ざされ、通りには人影がない。昨日の争いの跡が、ところどころ石畳に残っていた。洗い流された血の跡。折れた剣の柄。壊れた荷台。しかし、その上に朝の光が差し始めていた。その光は、すべてを包み込み、新しい一日の始まりを告げていた。
マッセオは、黙って歩いた。フランチェスコは、昨日と同じように、ゆっくりと道を進んでいる。
司教は、彼らを厚くもてなした。食事を与え、休む場所を用意し、聖人として敬意を示してくれた。それなのに、フランチェスコは礼を述べることもなく、ひそかに館を出た。
マッセオの胸に、少しずつ疑問が生まれてきた。
――いったい、この善い人は何をしているのだろう。
彼は、昨日、自分に子供のように回れと命じた。三叉路で、人々が見ている前で、何度も何度も回らせた。倒れても、立ち上がらせた。あれほどのことをさせておきながら、司教には一言も説明しない。そして今度は、感謝も告げずに館を出てしまった。
マッセオは、フランチェスコの背中を見つめた。昨日、町の争いを終わらせたことは、確かに聖なる働きだった。あの場にいた者たちは、誰もがフランチェスコを称えていた。司教が厚くもてなしたのも、その働きを知ったからだ。
ならば、ほんの一言、礼を言ってもよいのではないか。感謝を伝えることは、誇りではない。親切を受けたなら、それに応えるのは人として当然のことではないか。
マッセオの中で、そうした考えが次々と浮かんだ。彼は、フランチェスコを責めたいわけではなかった。しかし、その行いが分別を欠いているように思われた。
人々が見ている前で、自分を回らせること。司教の厚意を受けながら、礼も言わずに立ち去ること。それらは、聖なる人にふさわしい振る舞いなのだろうか。
マッセオは、さらに歩いた。フランチェスコは何も言わなかった。その沈黙が、かえってマッセオの思いを大きくした。
昨日の自分なら、フランチェスコの沈黙を深い祈りのしるしだと思っただろう。しかし今は、別のことが心に浮かんだ。
――少し、世間を知らなすぎるのではないか。
――人の心遣いを受けたなら、相応の礼を返すべきではないか。
――自分が聖人として敬われているからといって、人の親切を当然のように扱ってよいのか。
マッセオは、歩きながら、胸の内でつぶやき続けた。そのつぶやきは、最初はほんの小さな疑問だった。けれど、いつのまにか、フランチェスコの行いを裁く言葉に変わっていた。
マッセオは、自分の心が少しずつ硬くなっていることに気づかなかった。
人は、誰かを批判しているとき、自分が正しい側に立っていると思いやすい。自分は冷静に見ている。自分は分別をわきまえている。相手よりも、物事を正しく理解している。
マッセオの胸にも、いつのまにかその思いが入り込んでいた。自分は、フランチェスコを支えなければならない。自分が、彼の行いの過ちを見抜かなければならない。自分が、彼の足りないところを補わなければならない。
そのように考えているうちに、マッセオは、自分がフランチェスコよりも賢い場所に立ったような気持ちになっていた。それは、ほんの小さな高慢だった。けれど、高慢はいつも、小さな姿で心へ入ってくる。正義の顔をして。分別の顔をして。相手を心配する愛の顔をして。
マッセオは、まだそのことを知らなかった。
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二人の前には、シエナの城壁が次第に遠ざかっていた。町の外へ出る道が、丘の向こうへ続いている。フランチェスコは、前を向いたまま歩いていた。その顔は穏やかだった。
けれど、彼はすでに知っていた。マッセオの胸の中で、どのような言葉が生まれているのかを。マッセオが、どのような疑いを抱き、どのように自分の行いを裁いているのかを。
しかし、フランチェスコは、すぐには声をかけなかった。神が、マッセオ自身の心を照らされるまで、静かに待っていた。
そのころマッセオの中では、最初の疑いが、さらに大きな問いへと変わっていた。
――私は、いったい誰を裁いているのだろう。
その問いが、やがて彼自身の心を深く揺さぶることになる。けれど、その答えを、マッセオはまだ知らなかった。
道は、まだ遠くへ続いていた。朝の光が、二人の足もとに長い影を落としていた。その影は、彼らの心の内側を映し出すかのように、揺れながら、しかし確かに前に進んでいた。
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*この章は、マッセオの心の中に芽生えた高慢を描いている。彼はフランチェスコを敬愛しながらも、その行いを自分の分別で裁こうとした。それは、誰もが陥る罠である。善い人ほど、自分は正しいと思いやすい。しかし、真の従順とは、理解できないことにも従うことである。マッセオはまだそのことを学んでいなかった。フランチェスコは、そのことを知りながら、静かに待っていた。神の光がマッセオの心を照らす時を。この物語は、霊的指導者と弟子の関係の難しさと深さを示している。。*




