第三十六話 シエナの血と平和
三叉路を離れてから、二人は長いあいだ黙って歩いた。
朝の光は次第に高くなり、道ばたの草に残っていた露も消えていった。陽の光は暖かく、しかし強すぎることはなかった。春の訪れを告げる、柔らかな日差しだった。マッセオの目まいはようやく収まっていたが、身体にはまだ、何度も回り続けた疲れが残っていた。足は重く、時折よろめいた。それでも彼は、フランチェスコの隣を歩いた。
先ほどの出来事について、尋ねたいことはあった。なぜ、あのような命令をしたのか。なぜ、あれほど長く回らせたのか。そして、本当にあの向きが、神の望まれる道だったのか。
しかし、マッセオは何も口にしなかった。その問いを口にすれば、何かが壊れてしまうような気がした。フランチェスコもまた、説明しようとはしなかった。彼はただ、遠くに見え始めたシエナの町を見つめていた。その横顔は、すべてを承知している者の静けさを帯びていた。
丘の上に築かれた町は、朝の光の中で赤茶色に輝いていた。城壁の向こうには家々の屋根が重なり、そのさらに奥には教会の塔が見えている。それは、人間の営みと祈りが積み重なった、古い町の姿だった。
やがて、道の両側に人の姿が増えてきた。畑から戻る者。町へ荷物を運ぶ者。子供の手を引いて歩く母親。彼らは、フランチェスコの姿に気づくと、足を止めた。
「あれは、聖フランチェスコではないか」
「本当にそうだ」
「聖人がシエナへおいでになった」
誰かが声を上げた。その声は、瞬く間に人々の間へ広がっていった。噂は風のように伝わり、道という道から人が溢れ出した。
町の門へ着くころには、道の先にすでに多くの人が集まっていた。彼らは、フランチェスコに会うために出てきたのだった。病む者もいた。貧しい衣をまとった者もいた。遠くから歩いてきたため、足を引きずっている者もいた。ただ一目、聖人の姿を見たいという者もいれば、悩みを聞いてほしいという者もいた。
フランチェスコは、集まった人々に向かって静かに頭を下げた。
「主の平和が、あなたがたとともにありますように」
その言葉を聞くと、人々の間からすすり泣きが起こった。ある女性は、胸の前で十字を切った。老人たちは、震える手を差し出した。子供たちは、フランチェスコの粗末な修道服を珍しそうに見つめていた。
人々は、二人を取り囲んだ。その熱意は、次第に大きくなっていった。
「どうか、司教の館までお連れしたい」
「聖人を歩かせてはならない」
「私たちが運びます」
フランチェスコが遠慮を示す間もなく、何人もの人々が彼の身体を持ち上げた。マッセオも、同じように腕を取られた。
「兄弟たち、どうか、その必要はありません」
マッセオは言った。しかし、彼の足はすでに地面から離れていた。人々の腕から腕へと運ばれていく。隣では、フランチェスコもまた、群衆に抱え上げられていた。二人の足が、石畳に触れることはなかった。
マッセオは、驚きながら周囲を見渡した。人々は笑い、泣き、祈りながら二人を運んでいる。その顔には、単なる好奇心ではないものが浮かんでいた。彼らは、フランチェスコという一人の修道士を運んでいるのではなかった。神の慰めを、自分たちの町へ運んでいると思っているのだ。
司教の館へ着くと、人々はようやく二人を地面へ下ろした。フランチェスコは、何度も人々に礼を述べた。しかし、その目は群衆の称賛に留まっていなかった。彼は、すべての誉れが神から来ることを知っていた。
---
そのとき、館の外から騒がしい声が聞こえてきた。
怒鳴り声。泣き叫ぶ声。鉄がぶつかり合う音。マッセオが振り返ると、町の奥から人々が走ってくるのが見えた。
「また争いが始まった」
「剣を抜いたぞ」
「誰か、止めてくれ」
フランチェスコの表情が変わった。
「どこで争っているのですか」
ひとりの男が答えた。
「市場の近くです。以前から争っていた者たちが、とうとう剣を抜きました。すでに二人が殺されています」
マッセオは息を呑んだ。フランチェスコは、すぐに歩き始めた。
「兄弟、危険です」
マッセオが言った。しかし、フランチェスコは足を止めなかった。
「だからこそ、行かなくてはなりません」
二人が市場へ近づくにつれ、騒ぎは激しくなった。石畳の上に人々が集まり、その中央で男たちが剣を振るっている。怒りに顔を歪め、互いを罵り、相手の命を奪うことだけを考えていた。
地面には、すでに二人の男が倒れていた。その身体の周囲に、赤い血が広がっている。倒れた者の家族らしい女性が、泣きながらそのそばに座り込んでいた。
「やめてください!」
誰かが叫んだ。しかし、争う者たちは聞かなかった。憎しみが、耳を塞いでいた。
そのとき、フランチェスコが彼らの間へ入っていった。マッセオは、思わずその腕をつかもうとした。だが、フランチェスコはすでに、抜き身の剣を持つ男たちの前に立っていた。
「兄弟たちよ」
彼の声は、大きくなかった。それでも、不思議なほどよく通った。男たちの剣が、一瞬だけ止まった。
「あなたがたは、いったい何をしているのですか」
「こいつが先に裏切ったのだ!」
ひとりの男が叫んだ。
「我々の家族を侮辱した!」
「嘘だ! 先に剣を抜いたのはそいつだ!」
別の男が怒鳴り返す。フランチェスコは、二人の間に立ったまま、静かに彼らを見た。
「あなたがたは、自分の正しさを証明するために、二人の人間を殺しました」
男たちは黙った。
「それでも、まだ足りないのですか」
誰も答えなかった。
「あなたがたは、相手を悪人だと呼びます。相手が罪を犯したと言います。けれど、あなたがたがいま手にしている剣は、正義の剣ではありません」
フランチェスコは、倒れている二人へ目を向けた。
「それは、怒りの剣です」
風が、市場の上を吹き抜けた。血の匂いが漂っていた。
「怒りは、あなたがたに正義を与えると約束したのでしょう。相手を罰せよ。相手の苦しみを見れば、お前の苦しみも軽くなると、そう囁いたのでしょう」
男たちの握る剣が、わずかに震えた。
「しかし、見てください。怒りは、あなたがたに何を与えましたか」
フランチェスコは、倒れた者たちを指した。
「二人の命を奪いました。家族の悲しみを増やしました。そして、いまなお、あなたがたの手を血で汚そうとしています」
「こいつらが悪いのだ!」
ひとりが叫んだ。
「だから殺してよいのですか」
フランチェスコは、まっすぐにその男を見た。
「罪を犯した者を裁くのは、あなたの怒りではありません。まして、復讐は正義ではない。復讐は、死者を生き返らせず、失われたものを返しもしない。ただ、悲しみを新しい悲しみで覆うだけです」
男は、剣を握ったまま動かなかった。
「あなたがたは、互いに敵だと思っている。しかし、神の御前では、あなたがたは皆、同じ弱い人間です。怒りに負け、恐れに負け、憎しみに負ける者です」
フランチェスコは、声を少し落とした。
「そして、神はそのようなあなたがたを見捨ててはおられません」
市場に集まった人々は、誰も口を開かなかった。
「神は、あなたがたが互いに殺し合うことを望んでおられません。憎しみの中で、自分の正しさを守り続けることも望んでおられません。いま、剣を置きなさい」
最初に、ひとりの男が剣を下ろした。石畳に、金属の音が響いた。その音を聞いた別の男が、ゆっくりと剣を手放した。
だが、まだ二人の男が立っていた。彼らは互いを睨みつけている。長いあいだ積み重ねてきた憎しみが、簡単に消えるはずはなかった。
フランチェスコは、その二人に近づいた。
「あなたがたは、今日ここで勝つことができると思っているのでしょう」
二人は、黙って彼を見た。
「相手を倒せば、自分の正しさが証明される。相手が死ねば、自分の苦しみが終わる。そう思っているのでしょう」
フランチェスコは、首を横に振った。
「しかし、相手の死とともに、あなたの心の中にも何かが死ぬ。赦す力が死ぬ。神の声を聞く力が死ぬ。そして、あなたは生きながら、憎しみに仕える者となるのです」
男の顔から、怒りが少しずつ消えていった。代わりに、疲れが浮かんだ。長いあいだ怒り続けてきた者だけが持つ、深い疲れだった。
「もう、十分ではありませんか」
フランチェスコは言った。
「これ以上、死者を増やさないでください」
男の手から、剣が落ちた。その男は、両手で顔を覆った。もうひとりの男も、しばらく動かなかった。やがて彼は、倒れている者の方へ目を向けた。そして、ゆっくりと剣を地面へ置いた。
市場に、長い沈黙が訪れた。それまで怒号に満ちていた場所で、誰もが息を殺していた。
やがて、誰かが泣き始めた。ひとりの女が、倒れた男の名を呼んだ。別の場所では、先ほどまで剣を握っていた男が、膝をついていた。
フランチェスコは、彼らを責めなかった。ただ、互いに顔を向けるよう促した。死者のために祈ること。自分の怒りを神の御前へ差し出すこと。そして、生きている者がこれ以上血を流さないこと。それを静かに語った。
人々は、少しずつ彼の言葉に従った。争っていた者たちは、互いに近づいた。すぐに抱き合うことはできなかった。赦しを口にすることも、容易ではなかった。それでも、剣を置いた。相手を殺さないと決めた。そのことだけで、町には新しい静けさが生まれた。
フランチェスコは、目を閉じて祈った。
「主よ。ここにあなたの平和をお与えください。憎しみが残る場所に愛を。傷つけられた場所に赦しを。絶望のある場所に希望をお与えください」
マッセオは、その姿を見つめていた。少し前まで、この町の人々は互いに剣を向けていた。二人の命がすでに失われ、さらに多くの死が生まれようとしていた。
しかし、フランチェスコは武器を持たず、ただ一人でその間に立った。彼の言葉は、剣よりも強かった。いや、言葉そのものが強かったのではない。その言葉の中に、神の平和があった。
---
この出来事を聞いたシエナの司教は、深く心を動かされた。司教はフランチェスコを自分のもとへ招いた。
「あなたがこの町のためにしてくださったことを、私は決して忘れません」
司教は言った。
「どうか、今夜は私の館にお泊まりください」
フランチェスコは、丁寧に頭を下げた。
「私たちのような者に、そのようなお心遣いをいただき、ありがとうございます」
司教は、二人を厚くもてなした。食事が整えられ、長旅の疲れを休める場所も用意された。マッセオは、与えられた寝床を見つめた。普段、兄弟たちは藁の上で眠ることが多い。旅の途中なら、野外で夜を明かすことも珍しくない。それに比べれば、ここはあまりにも静かで、あまりにも恵まれていた。
フランチェスコは司教の親切を拒まなかった。しかし、その夜、何度も祈っていた。自分に向けられた誉れが、自分のものにならないように。シエナに平和を与えたのは、自分ではない。自分は、神の御手に置かれた小さな器にすぎない。そのことを、彼は何度も心の中で確かめていた。
マッセオは、眠りにつく前に、フランチェスコの横顔を見た。窓の外では、シエナの町が静まり返っている。昼間、剣が振るわれていた町。憎しみの声が響いていた町。そこに今、ようやく平和が戻っている。
マッセオは、深く息を吐いた。三叉路で何度も回らされたときには、なぜシエナへ向かうのか、何もわからなかった。しかし、いま目の前にあるものを見れば、その道がどこへ続いていたのかがわかる。
神の御心は、ときに人には理解できない形で示される。それでも、その道の先に、誰かを救う出来事が待っていることがある。
フランチェスコは、静かに祈り続けていた。マッセオもまた、目を閉じた。
その夜、シエナの町には、久しぶりに剣の音がなかった。
---
*この章は、フランチェスコの平和使徒としての姿を描いている。彼は武力ではなく、言葉によって争いを止めた。しかし、その言葉は単なる雄弁ではなかった。彼の存在そのものが、神の平和を体現していた。彼は剣を持つ者たちの間に、武器を持たずに立った。それは、最も危険な行為であると同時に、最も勇敢な行為でもあった。彼は自分の命を顧みなかった。ただ、神の平和が実現することを願った。その結果、シエナの町は救われた。この出来事は、フランチェスコの生涯の中でも最も重要な瞬間の一つとなった。*




