第三十五話 三叉路のしるし
その朝、フランチェスコはマッセオ修道士とともに、シエナへ向かう道を歩いていた。
夜の冷気がまだ地面に残っていた。道の両側には露に濡れた草が伸び、ところどころに白い小花が咲いている。その花は小さく、踏まれそうな場所に咲いていた。それでも懸命に顔を上げ、朝の光を待っている。遠くの山々には朝靄がかかり、空は淡い金色に明るみ始めていた。夜から朝への移ろいの時間だった。
二人は、しばらく言葉を交わさずに歩いた。沈黙は気まずいものではなかった。むしろ、この静かな時間を共有することこそが、彼らの間の絆を確かめることだった。
マッセオは、フランチェスコより少し前を歩いていた。背の高い身体をゆったりと動かし、時折、後ろを振り返っては、フランチェスコがついてきていることを確かめた。そのたびに、彼は安堵の息をつく。フランチェスコの歩みは遅かった。しかし、決して止まることはなかった。
やがて道が三つに分かれた。
三本の道は、そこからそれぞれ別の方角へ伸びていた。ひとつはフィレンツェへ、ひとつはシエナへ、もうひとつはアレッツォへ通じている。三本の道は、まるで異なる人生の選択肢であるかのように、それぞれの方向へ消えていった。
マッセオは足を止めた。
どの道も、朝の光の中へ続いている。けれど、どれが自分たちの進むべき道なのかは、見ただけではわからなかった。道そのものは、何も語らなかった。どれも同じように美しく、どれも同じように正しく見えた。
彼は後ろを振り返った。
「父よ」
フランチェスコが、静かな足取りで近づいてくる。その姿は、朝の光に包まれて、どこか遠くから来た旅人のように見えた。
「どの道を行くべきでしょうか」
フランチェスコは、三本の道を見渡した。風が、道ばたの草を揺らしていた。その風は、彼の衣をそっと揺らし、彼の髪を撫でた。
「神が望まれる道を行きましょう」
マッセオは、少し考えてから尋ねた。
「では、神の御心を、私たちはどのように知ることができるのでしょうか」
フランチェスコはマッセオを見た。その顔には、いつもの穏やかさがあった。しかし、目の奥には、いたずらを思いついた子供のような光が浮かんでいた。
「私が示すしるしによってです」
「あなたが示すしるしによって?」
「そうです」
フランチェスコは、三叉路の中央を指した。
「聖なる従順の務めによって、あなたに命じます。いま、あなたの足が置かれているこの場所で、子供たちがするように、何度も回りなさい」
マッセオは、しばらく黙っていた。自分の耳を疑った。しかしフランチェスコの表情は真剣だった。
「ここで、ですか」
「ここで」
「どれほど回ればよいのでしょう」
「私が止まれと言うまで、止まってはなりません」
フランチェスコの声は、静かだった。けれど、命令は明確だった。
マッセオは深く頭を下げた。
「承知しました」
そして、その場で回り始めた。
---
最初のうちは、何の苦もなかった。
修道服の裾が揺れ、足もとの小石が跳ねる。朝の道を行く人々が、何事かと足を止めた。ある者は笑った。ある者は、呆れたように首を傾げた。子供たちは面白がって、マッセオのまわりを走り回った。
しかし、マッセオは視線を気にしなかった。フランチェスコが命じた。だから、従う。それ以外に、彼が考えるべきことはなかった。
回り続けるうちに、次第に景色が揺らぎ始めた。道が回っている。空が回っている。山も、草も、目の前に立つフランチェスコの姿さえも、巨大な輪になって流れていく。世界が、一つの大きな渦となって、彼を飲み込もうとしていた。
マッセオの足がもつれた。それでも、彼は止まらなかった。身体を支えきれなくなり、地面へ倒れた。手のひらに土がついた。膝が痛んだ。しかし、フランチェスコは何も言わなかった。
マッセオは目を閉じ、荒い息を整えた。心臓が激しく打っている。彼は地面の冷たさを感じながら、自分がまだ生きていることを確かめた。そして、また立ち上がった。再び回り始める。
今度は、さきほどより早く目まいが襲ってきた。胃の奥がせり上がり、視界が白くなる。道行く人々の声が遠くなり、子供たちの笑い声だけが耳の奥で響いた。彼は二度目に倒れた。肩から地面へ落ち、しばらく起き上がれなかった。
それでも、フランチェスコは止まれと言わなかった。
マッセオは、ゆっくりと身体を起こした。世界はまだ回っている。自分が立っているのか、地面が動いているのかさえ、わからなかった。それでも彼は、もう一度立ち上がった。そして、回り続けた。
――主よ。
マッセオは心の中で祈った。
――これは、あなたの御心でしょうか。
答えはなかった。けれど、答えがないことを理由に、命令から逃れることはできなかった。従順とは、理解してから従うことではない。理解できないときにも、自分の判断をいったん手放すことだ。彼はそのことを、身をもって学んでいた。
マッセオは、ふらつきながら回った。倒れた。また立った。道行く人々の笑い声が聞こえた。誰かが、彼を愚かな修道士だと言った。誰かが、聖フランチェスコまで奇妙な男だと笑った。
マッセオは、それらを聞きながらも、ただ命令だけを心に留めた。
――止まれと言われるまで、止まらない。
そのとき、フランチェスコの声が響いた。
「止まりなさい。もう動いてはいけません」
マッセオは、ただちに足を止めた。しかし、身体の中ではまだ回転が続いていた。空が揺れ、地面が傾き、身体がどちらへ倒れるのかもわからない。彼は両足を踏ん張り、必死に立ち続けた。その姿は、嵐の中に立つ一本の木のようだった。
フランチェスコが尋ねた。
「あなたの顔は、どちらを向いていますか」
マッセオは目を細めた。ぼやけた景色の中で、ようやく自分が向いている方角を確かめた。彼の視界はまだ揺れていた。しかし、彼の内なる感覚が、一つの方向を指し示していた。
「シエナの方です」
フランチェスコは頷いた。
「では、そちらへ行きましょう」
マッセオは、まだ息を切らしていた。フランチェスコは、シエナへ続く道を見つめた。その目には、確信があった。
「それが、神が私たちに進ませようとされる道です」
二人は、シエナへ向かって歩き始めた。
マッセオは、何度も足を取られた。身体の平衡感覚がまだ戻らず、世界が時折傾いた。それでも、フランチェスコのあとについていった。しばらく歩くと、ようやく目まいが少しずつ収まってきた。
---
マッセオは、先ほどの出来事を思い返していた。
人々が見ている前で、子供のように回った。何度も倒れた。それでも、止まることを許されなかった。いったい、フランチェスコは何を考えていたのだろう。なぜ、あのようなことを自分に命じたのだろう。
マッセオにはわからなかった。しかし、尋ねることもできなかった。フランチェスコへの敬愛が、彼の口を閉ざしていた。彼は、自分の師を疑いたくなかった。けれど、理解できない行いを前にして、心の中に小さな戸惑いが残っていた。
フランチェスコは、何も説明しなかった。ただ、いつものように静かに歩いていた。道の先には、まだシエナの町は見えない。それでも、二人の足は、確かにその方角へ向かっていた。
マッセオは、もう一度、三叉路の方を振り返った。そこには、彼が何度も倒れた場所がある。人々の笑い声も、子供たちの騒ぐ声も、まだ耳に残っていた。しかし、あの場所で彼が学んだことは、まだ言葉にならなかった。
人は、自分の目で道を選んでいるつもりでも、実際には、自分の思いの中をぐるぐる回っているのかもしれない。正しい道を選びたい。間違いたくない。賢くありたい。人から愚かだと思われたくない。そのような思いが、心を同じ場所に縛りつけている。
けれど、神の御心は、ときに人をその場所から動かす。自分の判断を失わせ、誇りを揺さぶり、最後にどの方角を向いているのかを示す。
マッセオは、隣を歩くフランチェスコを見た。フランチェスコは、何も語らなかった。ただ、シエナへ続く道を、静かに進んでいた。その横顔は、すべてを理解している者のそれだった。しかし同時に、何も語らない者のそれでもあった。
マッセオは、深く息を吸った。そして、まだ重い足を前へ出した。
二人の前には、朝の光に照らされた道が伸びていた。その道は、まだ見ぬ町へと続いている。そこに何が待っているのか、二人にはわからなかった。
けれど、マッセオはもう、道を自分の知恵だけで選ぼうとは思わなかった。
神が望まれる方角へ。
たとえそれが、子供のように何度も回ったあとでしか見えない道であったとしても。
二人は、シエナへ向かって、静かに歩き続けた。その歩みは、以前よりも確かで、以前よりも軽やかだった。




