第二十八話 朝課の代わり
修道会が始まって間もない頃のことである。
まだ兄弟たちの滞在処は貧しく、立派な修道院などどこにもなかった。石を積んだだけの小さな建物。雨風をしのげれば十分という質素な暮らしだった。壁は剥き出しの石で、ところどころに漆喰が剥がれ落ちている。床には藁が敷かれているだけだったが、それでも彼らには十分だった。
その夜、フランチェスコと修道兄弟レオは、ある滞在処で夜を明かしていた。部屋の中には木の寝台が二つと、小さな机が一つ。壁には十字架が掛けられているだけで、ほかには何もない。窓は小さく、冬の夜風が隙間から入り込む。蝋燭の炎が静かに揺れていた。その炎は弱々しかったが、部屋の隅々まで届くことはなかった。それでも彼らにとっては、そのかすかな光で十分だった。
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夜は更け、やがて朝課の時刻が近づいてきた。外はまだ暗く、鳥の声も聞こえない。一日で最も静かな時間帯だった。レオはいつものように立ち上がり、祈祷書を探そうとした。修道士の一日は祈りで始まる。それが彼らの生活の基盤だった。
棚を見る。机を見る。旅袋も開けてみる。しかし、どこにも見当たらない。彼はもう一度、同じ場所を探した。それでもない。聖歌集も、詩篇集も、どこにもなかった。
「あれ……。」
レオは困ったように振り返った。
「父よ。」
フランチェスコは微笑んでいた。その微笑みには、何かを知っている者の落ち着きがあった。
「どうしました。」
「聖歌集がありません。」
レオは申し訳なさそうに頭を下げた。自分が忘れたのかもしれない。大切なものをなくしたことが、修道士としての自分の不注意を思い知らせた。
「私が忘れたのでしょうか。」
フランチェスコは首を横に振る。その動作は穏やかで、レオの心配を鎮めるかのようだった。
「いいえ。ここには最初から一冊もなかったのですよ。」
レオは驚いた。では、朝課は……? 修道士にとって、一日の祈りは何よりも大切である。聖歌集がなければ、定められた詩篇を唱えることができない。それがなければ、朝課を捧げることはできない。
しばらく二人の間に静かな沈黙が流れた。蝋燭の炎だけが、時間の経過を告げていた。
やがてフランチェスコは、楽しそうに笑った。その笑顔は、子供が新しい遊びを思いついた時のようだった。
「神を賛美するのに、本は必要ありません。」
レオは目を丸くする。
「え?」
「今朝は、私たち自身が聖歌集になりましょう。」
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レオは思わず笑みをこぼした。父らしい考え方だと思った。本がなければ祈れないのではない。祈る心があれば、それで十分なのだ。道具がなくても、形式が整わなくても、神は心を見ておられる。それが彼の確信だった。
フランチェスコは床へ膝をつき、レオもその隣へ座る。冷たい床の感触が膝に伝わる。蝋燭の炎だけが、小さな部屋を照らしていた。二人の影が壁に揺れている。
「レオ兄弟。」
「はい、父よ。」
「今日は私が言葉を口にします。」
「はい。」
「あなたは、その通りに答えてください。」
「承知しました。」
レオは素直に頷いた。父の言葉を受けて祈るだけなら、難しいことではない。いつも通りの朝課だ。自分が特に何かを考えなくても、父が導いてくれる。
「ただし。」
フランチェスコは少し真面目な顔になった。その口調に、レオはわずかに緊張した。
「今日は一つだけ約束があります。」
「何でしょう。」
「私が教えた言葉以外は、決して口にしてはいけません。」
「はい。」
レオは迷わず返事をした。従順は修道士の喜びである。父の言葉なら、そのまま繰り返せばよい。そう思った。それ以上に難しいことはないだろうと。
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するとフランチェスコは、どこかいたずらを思いついた子どものような笑みを浮かべた。その表情は、レオの予想を裏切るものだった。
「私はこう言います。」
レオは姿勢を正した。
「『おお、フランチェスコ兄弟よ。お前はこの世で数え切れない罪を犯した。地獄へ落ちるにふさわしい者だ。』」
レオは思わず瞬きをした。
「……え?」
聞き間違いかと思った。地獄? ふさわしい? まさか、父が自分自身に向けてそんな言葉を口にするとは思わなかった。
だがフランチェスコは平然としている。まるでそれが何の変哲もない言葉であるかのように。
「そうしたら、あなたはこう答えるのです。」
穏やかな声で続けた。
「『その通りです。あなたは最も深い地獄へ落ちるにふさわしい者です。』」
部屋の中が静まり返った。蝋燭の炎だけが、微かに揺れている。レオは口を半ば開いたまま、父の顔を見つめている。目の前にいるのは、自分がこの世で最も敬愛する人だ。その人に向かって、「あなたは地獄へ落ちるべきです」などと言えというのだろうか。
レオは困ったように頭をかいた。彼の頭の中は混乱でいっぱいだった。
「父よ……。」
「はい。」
「本当に、そのように申し上げるのですか。」
フランチェスコは真面目な顔で頷いた。その目には、少しの冗談もなかった。
「その通りです。一言も違えてはいけません。」
レオはしばらく黙っていた。自分の心の中で、様々な思いが交錯していた。父への敬愛。従順の誓い。そして、この奇妙な命令に対する戸惑い。
やがて彼は小さく息をつき、胸の前で十字を切る。
「分かりました。」
その声には、覚悟と少しばかりの不安が入り混じっていた。
「父のお望みのままに。」
フランチェスコは満足そうに微笑んだ。その笑顔は、レオの不安を優しく包み込むようだった。
「では始めましょう。」
まだ夜明け前の静かな部屋で、二人だけの、不思議な朝課が始まろうとしていた。蝋燭の炎が揺れる。その光の中で、二人の影は一つに重なっていた。
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*この物語は、「小さき花」の中でも特にユーモラスで、かつ深い教訓を含む章である。フランチェスコは、形式的な祈りよりも、謙遜の心を重視した。聖歌集がなくても、詩篇がなくても、神を讃えることはできる。むしろ、自分の罪を認め、神の前にへりくだることこそが、真の祈りであると彼は知っていた。この朝課は、レオにとって忘れられないものとなった。後に彼は、この経験を「私が受けた最も美しい祈りの教え」と語っている。それは、本に書かれた言葉ではなく、生きた言葉によって紡がれた祈りだった。*




