第九話 三滝坂の怪異(5)
「あんた、ここに住んでる人だったんだな。無理心中ってことは、ほんとはコウイチと逃げるつもりだったのか」
「だろうね。大方、父親にバレて口論になるも和解できずそのまま、ってところかな」
煤けた着物に乱れた髪。
死の間際の姿だろう。本当はもっと酷い有り様だったかもしれない。
「怪異……多加美里恵だったか。正体は分かったけど、それをどうするんですか」
「決まってる。続きを書くだけだよ」
椿さんは空に掲げた万年筆を再び動かす。
しかし、今回は文字では無くなにやら図形のようなものを描いていた。
丸、四角、三角。おれにはよく分からない幾何学的な模様は、例に漏れず筆跡が浮かび上がり形作られている。
「数十年前に死したはずの君が、どうして今もこの土地に留まっているのか。君が求めているものは何なのか、教えてもらおうか」
椿さんが描いた模様は、怪異の前に飛んでいくとそのままパラパラと下から崩れるように消えてしまう。
これが何を意味するのか、おれはそれをすぐに知った。
『こんなことになるぐらいだったら、一人で死んでしまいたかった』
怪異が口を開く。
これは化け物の呻きなどではなく、多加美里恵という人間としての言葉だろう。
『あの人を巻き込みたかったわけじゃない。幸せになりたいと思った私がいけない。私みたいな人間が欲張るからいけなかったんだ。大人しく黙って従っていれば良かったものを、今更まともな会話が出来る相手じゃなかったのに、結婚もあの人に知られないように隠し通せばよかったのに、私が、私が、わたしが、わたシ、が───────』
垣間見えた多加美里恵は、すぐに狂気にのまれてしまった。
目の前にいるのは、元の怪異と変わりない。
「ダメか、執念深いな」
椿さんはあっさり諦めてしまったのか万年筆を下ろしていた。
怪異の足元からどろりとした黒い影が湧きあがり、こちらに狙いを定める。
『ああああああああぁぁぁ!見るなぁ!わたしを、醜い私を……!』
「うわっ」
いきなり突進してきたと思ったら、人のものでは無い異様に伸びた爪と骨の浮きでた細い腕が、おれの喉に手をかけた。
奴はそのままおれの首を締め上げる。
その力は見た目に反して強く、締められた首には痛みを感じた。
多分、本気で殺そうとしてる。狙いがおれじゃなくて椿さんだったらあっさり死ぬだろう。
『お前が!お前がお前がお前がお前がお前が』
乱れた髪の隙間から、虚ろな瞳と視線が合う。
怪異の体から影が這いより、おれの手足にまとわりつこうとする。
まるで、何かに引き寄せられるような錯覚が。
『お前が私をころしたんだ』
「退け」
怪異がそう囁いた隙をついて、おれは怪異の体を強く蹴飛ばし脱出する。
物理で戦える相手じゃなかったらどうしようかと思ったが、おれに蹴られた怪異は派手に吹っ飛んでいた。
地に伏しながら、なにか怨み言のようにぶつぶつ呻いている。
「ふざけんな!おれじゃねぇよそれ!」
お前がわたしを〜、と言われたってこっちには何一つとして身に覚えがない。
人違いもいい加減にしてもらいたいものだ。
「見かけによらず力があるんだね。うんうん、元気があるのは良い事だ」
椿さんは距離を取って離れたところで傍観していた。
「冤罪で裁かれてたまるかってんだよ!てかあんたも見てないで助けてくれよ!」
「俺には無理だよ。体力ないし」
「あんたのその妖術みたいなのでおれを助けてくれって言ってんだ!というか、あれに引き込まれたらどうなるんだよ!?」
「それはちょっと分かんないや。溶けて死ぬとかじゃないかな」
「はぁ!?このクソッタレが……!」
思わず悪態をつく。
椿さんに、じゃない。椿さんと怪異とおれを取り巻くもの全てに対してだ。
また化け物と腕っぷしで戦う羽目になるなんて。
渋々身構えようとしたが、その必要はなかった。
「とはいえ、ぐだぐだやってると日が昇っちゃうからそろそろ終わらせようか」
ずっと気だるそうだった椿さんが、背筋を伸ばし真剣な顔をしてこちらへ向かってくる。
へらへらした喋り方じゃない、よく通る低音の声だ。
怜悧な表情で、視線が鋭く怪異を射抜く。
「多加美里恵は何らかの禍根により今なお三滝坂に囚われている。そこへ現れたのはコウイチによく似た少年の御厨小鞠だ。多加美里恵は小鞠くんに執着し、そして先程彼女は自分を殺したのがコウイチだと口にした」
椿さんは一歩ずつ怪異に歩みよる。
「あの時コウイチが逃げることを提案しなければ、父親を怒らせることはなかったのではないか。コウイチが提案しなければ、逃げ出そうと考えることもなかったのでは無いか。大人しく嫁入りすれば良かったものを、コウイチが狂わせたのではないか。いいや、そうじゃない。───────貴女が本当に思っていることは、ただ一つ。懺悔だ」
それは、一瞬だけ見えた彼女の本心の声によく現れていた。
いつの間にか曇り空が晴れ、暖かな太陽の光が彼女を照らしていた。
『あなたに、謝りたかった』
怪異はおれを見つめながらそう言った。
相手はおれじゃない、と跳ね除けるなんてことはせずに、おれは大人しく彼女の告白を受け入れる。
『私のせいで死なせてしまって、私の家庭の問題に巻き込んでしまってごめんなさい。いつだって中途半端な態度で、私は嫌な人だった。もっとはっきりあなたを突き放せば、あの時あなたが火の中に飛び込んでくる事もなかった。あなたが私を殺したんじゃない。私の弱さが、あなたを殺したの』
まとわりついていた黒い影が剥がれ落ち、怪異の本当の姿が現れる。
煤けていない着物に、きっちり整えられた髪で、歳若い少女は涙を流しながらおれを見ていた。
これが、三滝坂の怪異の本質だった。




