第十話 三滝坂の怪異(6)
「別に、あんたは弱くなんかない。何十年もここから離れられなかったんだ、もう十分だろ。あんたは解放されていいはずだ」
おれはおれとして返答した方が良いのか、それとも多加美里恵の望む相手として返答すべきか悩んだが、騙すような真似はできなかった。
優しくないかもしれないが、それでも、彼女の贖罪を受け取る相手はおれではない。
「コウイチだって愛する奴のそばにいられたんなら満足だろうよ」
おれの言葉に、彼女は涙をぽたりと落としながらも頷いてくれた。
死の間際、二人は再会し終わりの時を迎えた。
それがどんな様子であったか、おれたちは知らない。
けれど必ずしも全てが悲劇的な終わり方であったとは言いきれないだろう。
「思いは憎しみに反転し、全てを憎悪が塗り替えていく。長きに渡るその苦しみについぞ終止符が打たれたんだよ。小鞠くんという存在のおかげでね」
三滝坂で苦しみ続けていた彼女の停滞した時間は、ようやく動いた。
そのきっかけは、たまたま似てるだけのおれを見つけたことだった。
「あんたは、ずっとあんた自身の思いに囚われてたってことか」
里恵がおれを見つめる。
「あんたが本当に会いたがってた人じゃなくて悪かったな。おれはただの出版社の雑用係で、実業家でもなんでもない。おれのところに来たって意味は無いんだよ」
だから、もうあんたがここにいる必要なんて無いんだ。
『私……』
潤んだ瞳は、おれを見ているようで見ていない。
それで良い。これでようやく彼女は彼女の本当にあるべきところへ行ける。
今の彼女に、もう怪異の面影は無い。
「今のあんたも、なかなか良いんじゃねぇの」
なんて、柄にもない台詞を言ってみたりして。
里恵はそんなおれにふっと顔を綻ばせ、ゆっくりと姿を消していく。
段々と薄れていく姿は、やがて溶けてなくなるように何も残さなかった。
「『少女の悲しみは消え、怪異はこの土地からようやく解き放たれる。罪なき少女の純粋な願い。それこそが三滝坂の怪異の真相であった』」
椿さんが物語に幕を下ろす。
多加美里恵を見届けた後、気がつけば、おれたちが立っているのは三滝坂の薄暗い深夜の住宅街だった。
終わったな。
怪異事件は終結し、もう三滝坂の怪異が現れることはない。
あとは静かになったアパートに大人しく帰り、椿さんの原稿を待つのみだ。
「ところでさぁ。覚えているかい、小鞠くん。俺が渡した新聞記事」
と、万事解決といった雰囲気の中に椿さんの気だるげな声が割り込んでくる。
さっきまでの凛々しさはどこに捨ててしまったんだ。
「なんですか?覚えてるもなにも、あれは」
「隅々まで読んだ?上の記事も」
関係ないだろ、と言うより先に椿さんからそんなことを尋ねられた。
「上のって、実業家がなんとかの……。あれは関係ないんじゃ」
「実業家高坂氏。庶民の出でありながら貿易商として成り上がり巨額の財を築いた人物」
その成り上がりの男がなんだと言うのだ。
あいにくおれは育った場所のおかげもあって、経済やら社会情勢やらに詳しくは無い。
おれは大人しく椿さんの言葉の続きを待つ。
「輝かしい肩書きと裏腹に、穏やかな人柄で慈善事業……特に防火について莫大な資金を提供していることでも知られている。そんな彼が幼少期を過ごしたのは、そう。この三滝坂だ」
椿さんが何を言いたいのか、おれはすぐに勘づいた。
「まさか」
「さて、ここでひとつ質問をしようか。高坂氏のフルネームはなんだと思う?」
ここまで聞かれて気づかないほど察しの悪いおれではない。
あの炎の中から彼だけは奇跡的に生還したというのは信じ難いことだが、それでもおれは口を開いた。
「高坂、コウイチ……?」
「そう。実業家高坂紘一氏だ。小鞠くんはその辺の情勢について興味は無いだろうから知らないかもと思ってたけど、やっぱりね。あの時、多加美家に飛び込んだ後、多加美里恵の最期を見届けて自分も死ぬつもりだったみたいなんだけど、助けが間に合って救出されたんだってさ」
なんとまあ運がいいのか悪いのか。
彼は生きていたのだ。
おれが読まなかった新聞記事にそんなことが書いてあったなんて思いもよらなかった。
実業家になり慈善事業にも資金提供しているというのは、多加美里恵のことが理由なのだろう。
彼は多加美里恵のことを怨んでなどいない。
むしろ、二人は互いに同じ思いを向けあっているのは明白だ。
「互いが互いを思うが故に、ってところかな。まったく、愛ってものは厄介だねぇ」
「多加美里恵にそのことを言わなくてよかったんですか」
「紘一くんのために黙っておいたんだよ。それに、今も彼の心は多加美里恵と共にある。彼の無念も彼女に持っていってもらえばいいのさ」
そういうものなのだろうか。
おれにはイマイチ、愛とか恋とか難しくて分からない。
椿さんと話していると、おれには分からないことだらけだということを実感する。
椿さんは恋や愛を理解しているんだろう。いつかおれにも分かる日が来るのかな、と思ったが、たぶんそれはありえない。
おれがおれである限り。
「にしても、偶然似てるだけでこんなことになるとはな」
アパートにだらだらと戻りながら、何となく呟く。
たった数時間のことだろうけど、ずいぶん疲れてしまった。正直早く寝たい。
「世の中には同じ顔の人間が三人いるって言うからね。世間は狭いよ。もう一人に出会うのも案外すぐだったりして」
「これ以上面倒事があってたまるかよ。そんで椿さん、小説は書けそうなんですか」
「もちろん。楽しみに待っていておくれよ」
ふふん、と椿さんは自信満々に胸を張っている。
これで結局完成しませんでしたなあんてことになっちゃ困るから、徹底的に原稿回収に努めさせてもらうとするか。
「椿さん、もう夜中ですしおれの家で泊まって原稿書いてったらどうですか。おれの布団貸しますよ」
「そしたら君の寝る場所が無くなるでしょ。大丈夫、俺はこの辺りでお暇させてもらうよ。疑わなくてもちゃんと書くから安心して眠りなさいな」
おれは主に精神的な面で疲れたのだが、椿さんはそんな素振りもなくぴんぴんしている。
ま、確かにそれも一理あるな。
おれの部屋は他人を泊まらせるにしては足りないものが多すぎた。
椿さんは毎度毎度こんなことをしているのだろうか。
これまで彼がどんな怪異に遭遇し、どのような結末を作り上げたのか、なんだか興味が湧いてきた。
ひとつの事に強く興味を持つなんて。おれらしくないかもしれない。
それでも今は、ひとまず椿さんの本の続きが読みたくなってきた。
「あ、そうだ。今回の件で小鞠くんが学んだことは?」
別れ際、ふと椿さんが振り返ってそんなことを言う。
おれは少し考えてから答えた。
「……引越し先は真面目に検討すべし」
「だね」
この一言に尽きる。




