第八話 三滝坂の怪異(4)
椿さんは万年筆を掲げ、再び文字を記そうとする。
「さてさて、今回はどんなふうに書いてみようかな。俺だけに見せておくれよ、君の全てを」
なんだそのキザったらしい薄ら寒くなる台詞は。
『コウイチ……わたしの、こ、トを……』
まただ。またその名前だ。
これまで名前を繰り返すだけだったが、コウイチとやらは彼女に怨まれるようなことをなにかしでかしたのだろうか。
『コウイチ……コウイチ……』
ふらふら、ぐらぐら。
名前を呼ぶその声は不安定で、焦燥感を植え付けるかのような響きがある。
『ねェ、コウイチ……わたしを……わたしを……』
怪異はおれに向けてひたすら呟いている。
「あんたがなんなんだよ。おれはコウイチじゃねぇ、小鞠だ」
「もしかして小鞠くんとコウイチさんって似てるのかもね」
さらっと椿さんは言ってくれるが、おれもまあそうだろうなとうっすら思っていた。
毎晩おれの部屋をしつこく訪ねてくる時点で、怪異はおれがコウイチだという体で話しかけているとしか考えられない。
ただの他人の空似なのに、似ているだけで目をつけてくるなんてはた迷惑な怪異だな。
奴は椿さんに目もくれず、じりじりとおれに近づいてくる。
「君とコウイチさんの関係はどういうものかな。『家族か、恋人か、それとももっと別のものか……』」
『どうして……どうしてあの時』
空が揺れる。
雪が溶け、春が芽吹き、やがて桜は散る。
吹き荒れる風と共に次々と世界は移り変わる。
これが、三滝坂の怪異の記憶にある景色なのか。
怪異の思い出とはいえ、今見ている世界はおれにとってはずいぶんと色鮮やかに感じた。
「『或る少女の、在りし日の思い出』かな」
椿さんが万年筆を宙に走らせている。
変わる場面の中で垣間見えたのは、川べりで手を繋いで寄り添う少女と少年だった。
「あれは……」
「やっぱり寒い冬よりぽかぽかした春の方がいいよねぇ」
呑気に伸びをして椿さんはそう言っている。
雪景色でおれは特に寒さは感じなかったのだが、椿さんはそんな胸元の空いただらしない格好してるからなんだろうな。閉めろよ、それ。
『それでね、お父さまはわたしが外で泥んこ遊びをするのがとってもイヤなんだって怒ってるの。変だよね、わたしと遊んでくれるわけじゃないのに』
少女はそう言いながらくすくす笑っている。
嫌味な親父のことを素直に嫌な奴だと評価できるのは、子供ならではの無邪気さだろう。
『じゃあ、今日のこともリエちゃんのお父さんにバレちゃったら怒られるかな』
『そんなのどうでもいいよ!わたし、お父さまの言うことよりコウイチくんの方が大切だもん!』
不安げな表情を浮かべた少年を、少女は明るく笑い飛ばす。
二人の名前が分かったことだが、この少年こそが件のコウイチなる人物だったということになる。
ならば、リエと呼ばれた少女が誰なのか、口に出さずともすぐに分かるだろう。
『ありがとう……。僕もリエちゃんが一番大切だよ』
二人は仲の良い友人同士に見えるが、少女のことを大切だと言う少年の顔は赤らんでいた。
友情だけでない何かがあるような、そういう視線だと何となく察してしまう。
『ねぇ。コウイチくんは、リエが大人になってもずっと友達でいてくれるよね?』
少し間を開けてから、少年は返事をした。
『うん。約束するよ』
その空白に込められた真意を、おれが語るのは野暮だろう。
「『やがて月日が経ち、彼らは大人になっていく』さあ、ここから転換だね」
また場面が変わる。
暖かな春は過ぎ去り、また凍える冬が来る。
おれと同じ歳ぐらいだろうか、再び現れたのは幼子から成長した二人だった。
「小鞠くんと結構似てるね、コウイチくん」
「そう……か?まあ、そうなのかも」
自分の顔にそこまで関心が無いから、似てる似てないは判定できない。
椿さんがそう言うならそうなんだろ、という結論で。
さて、そんな幼少期の面影を残しながら大人に成長した彼らは、今度は和やかな雰囲気とはいかないらしい。
『聞いたよ。明後日には三滝坂を発つんだろう。……リエちゃんは本当にそれでいいのかい。親父さんが勝手に決めた、愛のない結婚なんて』
リエの家の裏口だろうか、敷地は広いが建物はどことなく薄汚れていて、庭や生け垣も手入れがされておらず荒れている。
彼女は不本意な結婚をするのだと。
『馬鹿じゃないの。私たちもう子供じゃないのよ。愛だなんて笑わせないで』
ついさっきまで見ていた無邪気な姿とはまるで違う。
成長したリエの厭世的なその笑みに、おれたちは揃って驚いた。
「おいおい、リエちゃんすっかりやさぐれちゃってるじゃないの」
「ずいぶんな豹変っぷりだな」
この十数年に何があればこんなことになるのか、そう思ったが。
『うちが借金まみれでもうどうにもならないこと、知ってるでしょ。私は』
なるほど、彼女の家は経済的に困窮しているのか。
家の荒れ果てた様子も納得出来る。
表向きは嫁入りとされているが、これからリエは借金のカタに売られるのだろう。
以前の言動から察するに、彼女の父親は厳格というより、子供を自分の所有物として扱う厄介な人間だったようだ。
『だとしても、こんな身売り同然の真似を許すことはできない。この家から一緒に逃げよう、リエちゃん。今のままじゃ、君は絶対に幸せになれない』
そしてコウイチは、リエを助けたいと。
『勝手に決めないでちょうだい。私が望んで決めた結婚よ』
『だったら、どうしてそんな顔をするんだ』
リエは一瞬、虚をつかれたかのようになるもすぐに俯いて何も答えない。
本当は何一つ望んでいないことが丸わかりだった。
『必ず迎えに行く。明日の晩、もう一度ここへ来るよ』
『……勝手にしてちょうだい。私はもう知らないから』
決意を固めるコウイチに、リエははっきりとした拒絶をすることはなかった。
本当は二人とも惹かれあっていたのだろう。
けれど、リエの家庭環境はそれを許さなかった。
このまま二人で上手く逃避行できれば良いのだが、リエが怪異として三滝坂に残り続けている意味を考えれば、残念ながら結末は決まっている。
「冬の夜なんて逃亡には向かないと思うんだけどなぁ」
椿さんは彼らの動向を見守りつつ、続きを書いていこうとする。
だがその時、おれは周囲の異変に気がついた。
「なんだ、この影……」
二人の姿を足元から這い寄るかのようにうごめく黒い影が覆っていく。
それに、妙な匂いも漂ってきた。
何かが焼けるようで、空気がどうにも煙たい。
「嫌な空気だね。熱くてたまらないよ」
「……!」
これはまさか。そう思った次の瞬間。
『火事だ!』
『まだ中に人がいるわよ!』
場面が変わり、いつの間にかおれたちは路上の野次馬たちの中に紛れて立っていた。
燃え盛る家屋は先程まで見ていたリエの家だった。
話を聞く限り、一家は炎の中から出られなかったようだ。
いや、先日の様子からするとそれは少し違うかもしれない。
『何があったんですか!』
後方からまるで怒号のように激しい声が飛んでくる。
振り返れば血相を変えたコウイチが、周囲の人々に状況を聞いているのだった。
『多加美さん家が燃えてるのよ。中に皆取り残されてるって……ちょっと、あなた何してるの!』
『リエちゃん!僕だ!迎えに来たよ、リエちゃん!』
コウイチは躊躇いなく炎の中に飛び込んでいった。
鬼気迫る叫びが反響する。
周囲は突然の乱入者にどよめき彼を止めようとするも、炎のせいで近づくことはできない。
この激しい燃え様じゃ、リエが無事だという希望はないだろう。
このままじゃ自分も焼けてしまうのに、それでも彼女の元へ行きたかった、と。
なんて無茶なことだ。
「『炎は渦高く舞い上がり、全てを灰に変えていく』」
凄惨な光景は、やがて何もかもが崩れ去った焼け跡に早変わりする。
焼け跡に先程までの騒がしさは無く、ただひたすらもの寂しさに包まれていた。
北風が吹き抜け、炎の熱さを冷やしていく。
荒れ果てた庭も跡形無く、薄暗い曇り空の下、どこまでも陰鬱とした空気が立ち込めていた。
「『多加美里恵、享年十八歳』。これがあなたの本質だね」
怪異は何も喋らない。
無理心中だってさ。
どこからか、通りすがりの誰かの声が小さく聞こえただけだった。




