92.ハス・トゥール聖教団
「確か授名の儀式って、やんごとなき人たち限定のイベントじゃなかった? 庶民には無縁な話だと思ってたんだけど」
「ところがどっこい! 庶民は庶民で、赤ちゃんが生まれると神官様がどこからともなく駆けつけて、妙ちきりんな占いで名前を授けていくしきたりがあるじゃないですか!」
「何それ知らん!!」
私たちの世界だったら、通報されること間違いなし。
『アンゼリカ』は産まれて間もなく孤児院に預けられたから、そういう庶民の文化に疎いのよね。かといって、社交界のしきたりや暗黙のルール的なものにさほど詳しいわけでもなかった。
そう考えると、私が『私』の記憶を取り戻す以前からアンゼリカという女性は、庶民には戻れず貴族にもなり切れない中途半端な存在だったのかも。
まあ、ひとまずアンゼリカ(元の人格)の苦労を偲ぶのは後回しにするとして。
「ええと、要するに庶民版・授名の儀式が存在してる、ってことですわね」
「ああ。しかも、この二つの儀式はどちらもある組織が深く関与している。――ハス・トゥール聖教団。この国の国教であり、各地の神殿を支配する者たちだ。ナイトレイ伯爵夫人、彼らはマジラブに登場していたか?」
「いえ。1ミリも出てきませんでしたわっ」
そんな胡散臭さフルスロットルの連中がいたら、嫌でも記憶の片隅に引っかかってるはずだ。私が食い気味に即答すると、またしてもララが「あ!」と何かを閃いた。
「それって、千年前には存在していなかったってことですよね? じゃあ、そのパスタ教団はエリファスが全国民に名前をつけさせるために用意した人たちで……」
「自ら進んで計画に加担しているのか、単に利用されているだけなのかは分からん。……いずれにせよ」
ラヴォント殿下の表情が一段と険しくなる。
「この教団に、エリファスが潜んでいる可能性は高い」
◆ ◆ ◆
『先生の魔法はすごいよね。どんな病気も怪我も、一瞬で治せちゃうんでしょ?』
『うーん、どうだろう。僕の父さんも治癒魔法使いだけど、「無理なもんは無理」って言ってたし。あと、その呼び方やめてよ。老けて聞こえる』
『そう? かっこいいと思うんだけどな。メテオール様とラヴォント殿下も先生派だよ』
『ちなみにクロードとネージュは?』
『ネージュ様は「普通に名前で呼べばいいだろ」って。クロード様は……内緒』
『さては、ろくでもない呼び方してるな? まあ、彼らしいけど』
『……ねぇ、先生』
『何だい?』
『もし、私がいなくなっても先生は泣かないでいてくれる?』
……その問いに答える間もなく、意識が浮上する。
どうやらまた読書の途中で寝入ってしまったようだ。頭を軽く動かすと、ぐわんと脳が揺れるような感覚に襲われた。
どれだけ眠っていたのだろう。一時間、一日……あるいは、とうに十日は過ぎているかもしれない。
無理やり命を引き延ばしてきたツケが一気に回ってきたようで、近頃は起きている時間の方が珍しくなってきた。
だが、エクラタン王国を再びこの世界に呼び戻し、国民を再定義することには成功した。名前という記号もくまなく植え込むことができた。
あとは、すべての人々の精神が千年前のそれと同化するのを待つだけだ。
いくつか不測の『事態』は生じたが、そんなものはいくらでも対処のしようがある。
「僕はね、リリアナ。ずっと泣いていたよ。君がこの世界から消えてしまってから、一日たりとも欠かさず泣き続けていたんだ。涙が枯れ果てても、心の中ではずっと、ずっと」
彼女だって、本当はこの世界に残りたかったに決まっている。
それなのに、あの忌々しい精霊たちに言葉巧みに言いくるめられ、都合のいい女王として祀り上げられた。
あの時はリリアナを救ってやれなかったが、今は違う。
必ず取り戻してみせる。
そのためなら途方もない歳月も、積み上げた数多の命も安すぎる代償に過ぎない。
「あら、起きていらしたのね」
ノックもなしに入ってきたのはルミノ男爵家の長女だった。
彼女自身に価値はなく、その奥底に眠る変化魔法の才を見込んで拾い上げたものの、妹の始末に失敗した無能な女だ。
あのあと、しばらく「あのメイドが悪いのよ!」と醜くがなり立てていたが、今日は一段と機嫌が悪いらしい。こちらを鋭い視線で睨みつけてくる。
「おや。そんなに怖い顔をして、どうかなさいましたか?」
「どうしたもこうしたもないわ! アンゼリカがリラ王太子妃の茶会に招かれたって、街中で貴族たちが噂してるのよ! どうしていつもいつも、あの女ばっかり……!」
品のない金切り声が、寝起きの頭に容赦なく突き刺さる。
やれやれと内心で溜め息をついている間も、シャルロットは顔を醜く歪めて喚き続ける。
「せっかくマティス家の連中を殺してスッキリしてたのに、おかげで気分が台無しよ! レイオンもギリギリで生きてたみたいだし、ほんっとにムカつく!!」
「…………は?」
今、この女は何と言った?




