第8話 ギルドの一等職人
ブランシュ子爵夫人の呼び鈴を直してから、三日が過ぎた。
春の陽射しは少しずつ強くなり、時計通りの坂では、昼を過ぎると窓を開けて仕事をする職人が増えていた。通りを抜ける風が、金属を磨く匂いとパン屋の焼きたての香りを工房まで運んでくる。入口の小さな机に座っていると、ときどき外から笑い声が届き、それに混じって、壁の時計がばらばらに時を刻んでいた。
私も、この音にだいぶ慣れてきた。最初の日はどの時計も違う時刻を示していることが気になったけれど、今では帳面に書き込む手を止めずにいられる。お客様が来れば名前と品物を聞き、前金を確かめ、引き渡した日には線を引く。新しい行が増えるたびに、工房で任された仕事が少しずつ形になるのが嬉しかった。
ネルはパン屋から丸パンを届けに来るし、ピップは部品屋の使いから戻ると、まず私の机をのぞき込む。カイさんは相変わらず昼過ぎまで寝ていることが多かったけれど、仕事を始めるときには、私が書いた注文の頁を確かめるようになっていた。
今も奥の作業台では、星時計の蓋に仕上げのやすりをかけている。
割れた星図の蓋は、ひびに細い銀を流して埋められていた。継いだところを指先でなぞっても、ほとんど段差がない。窓に向けて傾けると、星図の線のあいだに一筋だけ新しい銀が光り、あの夜、大理石の床で割れたことが嘘のように見えた。
「カイさん。もう、蓋は直りそうですね」
「ああ。銀がなじんだら終わりだ。あとは中の石だな。……そこ、まだ触るなよ」
私が身を乗り出したのを見て、カイさんが工具を持ったまま言った。手を引っ込めると、ようやく拡大鏡越しにこちらを見る。火傷の跡が残る指であれほど細かな線を整えられるのだから、いつ見ても感心してしまう。
「触りませんよ。修理の進み具合を、帳面に記録したかっただけです」
「蓋はまだ途中だぞ。勝手に完了にするなよ」
「もちろんです。受領の印は、全部直ってからいただきますので」
カイさんは何か言いたそうに口を開けたけれど、結局、またやすりを動かし始めた。返事がないので、私は帳面の修理欄に「蓋、仕上げ中」と書き加える。
子爵夫人から聞いた話は、三日前、帰りの馬車の中でカイさんにも伝えてあった。グランツ侯爵がルゥさんの作品を買い集めているらしい、と話したときのことだ。
「好きにさせとけ。師匠の物は、金じゃ動かない」
カイさんはそう言って、それ以上は何も聞かなかった。けれど、工房へ戻ってから古い時計が並ぶ壁を見上げる時間が、少し長くなった気がする。どれも修理を終えたのに取りに来ないお客様の品で、その中には師匠が直したものもあるのだという。
侯爵がそれらまで欲しがっているのなら、理由を知りたい。母の形見を婚約の品と言い張ったこととも、関係があるのかもしれない。ただ、今の私には分からないことが多すぎた。
考え込んでいると、窓を拭いていたミアが布を絞り直し、作業台のほうをちらりと見た。磨き上げた窓硝子には、カイさんの背中と、銀色の蓋を照らす春の光が映っている。
そのとき、坂の下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「親方、姉ちゃん! また鷲の馬車だぜ!」
扉が勢いよく開き、ピップが飛び込んできた。細い腕で戸を閉めると、そのまま入口の机の陰へしゃがみ込む。いつもなら部品屋で見つけた珍しいものを一つは自慢してくれるのに、今日は上着の袖をつかんで息を切らしていた。
「ピップ、落ち着いて。鷲の馬車というのは、あの黒い馬車のこと?」
「そう! 四頭も馬がいるやつ! 前に来たのと同じだ。今度は中から偉そうな人が二人降りてきて、こっちへ上がってくる!」
私は鉛筆を置いた。窓際へ寄ったミアも、外を見たまま動かない。
「お嬢様。今日は執事長ではございません。……お二人とも、こちらを見ています」
青い扉の小さな窓からのぞくと、坂の下に黒塗りの四頭立てが止まっていた。春の光を受けて、車体の扉に描かれた銀の鷲がくっきりと浮かんでいる。馬の手綱を押さえた御者の横を、二人の男がゆっくりと通り過ぎた。
先に歩いてくるのは、杖をついた白髪まじりの紳士だ。髪をきれいになでつけ、仕立てのよい濃い色の上着を着ている。歩幅は小さく、坂道でも背筋を崩さない。何度も夜会でお会いしたことがあるので、遠目でもすぐに分かった。
ゲオルク・グランツ侯爵。ユリウス様のお父上だ。
その後ろには、細身の男が一人続いていた。年は三十歳くらいだろうか。上着の胸元で小さな銀色の物が光り、風に揺れる裾を片手で押さえながら、侯爵に歩調を合わせている。
向かいの工房の窓が開く音がした。さらに二軒ほど先でも、仕事の手を止めた人が顔をのぞかせている。前に執事長が来たときは笑い声が上がったけれど、今日は誰も笑わなかった。金槌の音だけが、坂の上のほうで一度鳴って止まる。
侯爵本人が、わざわざこの工房へ来た。手袋の中で指先が冷たくなっていくのを感じ、私は無意識に胸元の星時計を探していた。けれど時計は今、カイさんの作業台の上にある。指に触れたのは外套の釦だけだった。
「お嬢様、あたしがお声をかけてまいりましょうか」
ミアの言葉に、一度は頷きかけた。でも、侯爵が欲しいのは私の時計だ。ミアやカイさんに対応を任せても、結局は私が答えなければならない。
「ありがとう、ミア。私が行くわ。カイさん、少しだけ席を外しますね」
やすりの音が止まった。カイさんは顔を上げて窓のほうを見たあと、工具を布の上に置く。
「……何か言われたら、無理に相手するなよ。俺が出る」
「大丈夫です。私の時計のことですから、まずは私からお話しいたします」
返事を待つより先に、私は帳面を閉じ、扉の取っ手に手をかけた。指の冷たさは消えなかったけれど、開けると決めたら迷っている時間はない。外へ出ると、坂を上ってきた二人がちょうど青い扉の前で足を止めたところだった。
「グランツ侯爵閣下。このような場所までお運びいただき、恐れ入ります」
「エルフォード嬢。お元気そうで何よりです」
侯爵は杖の先を石畳にそろえ、穏やかに微笑んだ。ユリウス様は人前で話すとき、大きく手を動かして相手の注意を引く。それに比べて侯爵は、ほとんど身振りをしない。こちらが頭を下げるのを待ってから、静かに言葉を続けた。
「まずは、愚息の非礼を、私から改めてお詫びしましょう。せっかく長いお付き合いをいただいたのに、あのような結果になってしまい、申し訳なく思っています」
侯爵は軽く頭を下げた。その仕草は丁寧で、何の落ち度もないように見える。
三日前、ブランシュ子爵夫人が、疑いをかけていた侍女のソフィさんに皆の前で謝ったとき、私は少し羨ましかった。あの夜の大広間で、私にも誰か一人くらい頭を下げてくれたらと思ったのだ。
けれど、目の前の侯爵に詫びられても、少しも嬉しくならなかった。息子が壊した星時計を返せと言い続けているのも、この方の家なのだから。
「ご丁寧にありがとうございます。もう済んだことですので、どうかお気になさらないでください」
「そう言っていただけると助かります。執事長から話は聞きましたよ。お母上に似て、賢いお嬢さんだ」
母のことを口にされ、思わず顔を上げた。私が八つで母を亡くし、十二で婚約したという話は、執事長から聞いたのだろう。けれど「母に似て」という言葉が気になった。
「……閣下は、母をご存じだったのでしょうか」
「ええ、少しばかり。惜しい方を亡くしました」
侯爵は穏やかに答えた。笑みも、杖を持つ手も、少しも変わらない。
母を知っていたのなら、どんなふうに話していたのか聞いてみたい。けれど、今この場で尋ねても、本当のことを教えてもらえるのだろうか。私はそれ以上聞けず、小さく頭を下げた。
「お話を遮ってしまい、失礼いたしました。本日は、どのようなご用件でしょうか」
「もちろん、星時計のことです。その前に、こちらの職人をご紹介しましょう」
侯爵が杖を少し横へ動かすと、後ろに控えていた男が一歩前に出た。背が高く、姿勢の整った人だった。細身の上着の胸には、銀の徽章が留められている。
「ヴィクトル・ハーゲンと申します。王都ギルドで一等職人を務めております。お見知りおきを、エルフォード嬢」
ハーゲンさんは胸に手を当て、優雅に一礼した。
ギルドは、王都の職人たちをまとめる組合だ。試験を通り、後援者を得た職人だけが名簿に登録され、その中でも腕を認められた人が一等職人になる。胸の銀の徽章は、その資格を示す印だった。エルフォード家で仕事を頼む際にも、ギルドの名簿を確かめたことがある。
「ハーゲンは、当家のグランツ魔石商会でも、いつも世話になっている職人です。腕は保証しますよ」
グランツ魔石商会の名なら、私も屋敷の帳簿でよく見ている。魔石を仕入れて屋敷や店へ卸す、侯爵家の商会だ。王都の街灯に使われる灯石も、すべてこの商会から納められている。エルフォード家に届く灯りの請求書にも、毎月名前が載っていた。
侯爵は私の胸元に一度目を向け、それから背後の青い扉を見た。
「お母上の形見を大切になさりたいお気持ちは、よく分かります。ですが、割れた魔導具を無登録の工房に預けておくのは、危ないことでしょう。こちらのハーゲンなら、正しく修理して差し上げられます。もちろん、費用はすべて当家が持ちましょう」
前に執事長が言ったのと、ほとんど同じ申し出だった。しかも今回は、一等職人まで連れてきている。これでは、私が断る理由を一つずつ取り除こうとしているように思えてしまう。
「お心遣いはありがたく存じます。ですが、修理はこちらのカイさんにお願いしておりますし、毎日立ち会いながら進めているところです。途中で職人を替えるつもりはございません」
「そうですか。しかし、貴族の方が職人の仕事に毎日立ち会うというのも、さぞお骨が折れるでしょう」
「いいえ。今は工房の帳場も預かっておりますので、ほかのお仕事をしながら待たせていただいております」
侯爵の眉が、ごくわずかに動いた。私が工房で帳面をつけていることまでは、聞いていなかったのかもしれない。
私は一度息を整え、三日前から気になっていたことを尋ねることにした。せっかく侯爵本人がここにいるのだから、遠回しに考え続けるより、確かめたほうがいい。
「それから、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか。閣下は、ルゥという職人の作品をお集めだと伺いました。この星時計も、お集めの品に加えるおつもりなのでしょうか」
杖の先が、石畳の上で小さく止まった。
歩いている最中ではない。侯爵はもともと足を止めていたのだから、ほんのわずかに力のかかり方が変わっただけだ。それでも、先ほどまで一定の位置にあった杖が動いたのを、私は見逃さなかった。
「良い職人でしたからね。古い物を大切にするのは、私の道楽でして」
侯爵はにこやかに答えた。何が気に障ったのか、何も気にしていないのか、顔からは読み取れない。
「そうでございましたか。でしたら、なおさらお渡しできません。母から受け取った星時計は、私が持っていたいのです。どうか、ご理解いただけますでしょうか」
私が頭を下げると、侯爵も軽く頷いた。さすがにそれ以上、ここで無理に取り上げるつもりはないらしい。
横に立つミアが、そっと私の袖を引いた。顔を向けると、彼女の視線は侯爵の杖に落ちている。私が見たあの小さな動きを、ミアも見ていたのだと思う。
このまま工房へ戻ろうとしたときに、ハーゲンさんが声をかけてきた。
「では、拝見するだけでもよろしいですか」
私が反応するより早く、ハーゲンさんがもう横を抜けていた。敷居をまたいで工房の中へ入り、奥の作業台に近づいていく。足音が静かなせいで、カイさんのやすりの音だけがいつもどおり続いていた。
「触るな」
カイさんは顔も上げずに言った。やすりを持つ手は動いている。
「ご安心を。見るだけです。職人が他人の仕事に勝手に触れるなど、ギルドでは許されません。もっとも、あなたはご存じないかもしれませんが」
ハーゲンさんの口調は丁寧だったけれど、最後の一言には明らかに棘があった。私は入口から作業台まで進み、星時計の横に立つ。ここはカイさんの工房だ。頼まれてもいない人に、勝手に品物を持ち去らせるわけにはいかない。
ハーゲンさんは両手を後ろで組み、身をかがめて星時計をのぞき込んだ。
作業台には本体と蓋が別々に置かれている。銀の本体は柔らかな布の上に載せられ、裏蓋の端には、三日月と三つの点が小さく彫られていた。カイさんの師匠、ルゥさんの印だ。
その印を見た途端、ハーゲンさんの肩が止まった。
細身の背中が、先ほどまでとは違って見えた。彼は一度ゆっくりと瞬きをして、さらに身をかがめる。顔から血の気が引き、銀の徽章をつけた胸がわずかに上下していた。
「……これは」
初めて、余裕のない声が聞こえた。
ハーゲンさんの視線は、裏蓋の印から、隣に置かれた蓋へ移った。ひびの跡に流し込まれた銀の線を、触れないぎりぎりの距離から確かめている。春の光に傾けられた蓋の上で、継ぎ目が細く輝いていた。
「……この継ぎ方を、誰に習った」
先ほどまでの、礼儀正しく少し見下したような話し方ではなかった。低く、問い詰めるような声だ。カイさんのやすりも、そこで初めて止まった。
「あんたに関係ないだろ。見終わったなら、そこを空けてくれ」
「これを、あんたが直したのか」
ハーゲンさんはもう一度、銀の継ぎ目を見た。触れてはいない。けれど、あと少しで指を伸ばしそうなほど、目が離せなくなっている。
「ハーゲン。どうですか」
戸口から侯爵の声がした。
ハーゲンさんは、ゆっくり背筋を伸ばした。一度目を閉じ、上着の前を整えてから振り返る。その頃には、最初に紹介されたときの落ち着いた表情に戻っていた。
「閣下。これは、私でも簡単に手を出せる品ではございません。内部の構造を十分に確かめる必要がありますので、日を改めるのがよろしいかと存じます」
「ほう。あなたがそう言うとは、珍しいですね」
侯爵は穏やかに微笑んだままだった。ハーゲンさんは小さく頭を下げ、それ以上は説明しなかった。
私は二人の顔を見比べていた。一等職人に任せれば正しく直せると、つい先ほどまで言っていたのに、本人は簡単には手を出せないと言う。しかも、その原因は時計の故障だけではなさそうだった。三日月の印と、カイさんが継いだ銀の線。ハーゲンさんが強く反応したのは、その二つだった。
「そうですか。では、今日のところは引き上げましょう。エルフォード嬢、気が変わったら、いつでもお知らせください」
侯爵は私へ軽く会釈し、それから工房の奥へ目を向けた。目が合ったカイさんは、作業台の前から動かなかった。
「ああ、それから職人さん。無登録で、貴族の仕事をお受けになったそうですね。ギルド長は耳の早い方ですから、どうかお気をつけて」
声の調子は、別れの挨拶と何も変わらなかった。
けれど、私は思わずカイさんを見た。彼は無登録だと指摘されるのを嫌がっている。それは前に執事長が来たときにも感じたことだ。しかも先日、ブランシュ子爵夫人の屋敷で呼び鈴を直したばかりだった。あの仕事が、カイさんにとって問題になるのだろうか。
「閣下。修理をお願いしたのは、私でございます。何かご確認が必要でしたら、私からも――」
「ご心配には及びませんよ。皆さんが規則を守ってくだされば、それでよいのです」
侯爵は私の言葉を穏やかに遮ると、もう返事を待たなかった。杖をついて扉を出ていき、石畳を叩く音が、少しずつ坂の下へ遠ざかっていく。
私はその背中を見送った。口にされたのは、誰も困らないはずの正しい話だ。それなのに、胸の奥が落ち着かない。父が屋敷で規則について話すときとは、何かが違う気がした。
机の陰から、ピップが恐る恐る顔を出した。
「あれが鷲の旦那かよ。……おいら、今度あの馬車が来たら、もっと早く知らせるからな」
「ありがとう、ピップ。でも、危ないことはしないでね。馬車を見かけたら、それだけで十分よ」
頷いたピップの髪には、机の下でついたらしい埃が少しだけ載っていた。私はそれを払ってやり、もう一度戸口を見た。
ハーゲンさんは、まだ帰っていなかった。
侯爵を追うように数歩進んだところで、ふいに立ち止まっている。銀の徽章が午後の光を受けて光り、彼の顔の半分が扉の影に入っていた。
「ひとつだけ、聞かせてもらおう」
その声はカイさんに向けられていた。ハーゲンさんは私ではなく、作業台の奥を見ている。
「俺の師匠が、死ぬまで名前を聞きたがらなかった職人がいた」
さっきまで「私」と話していた人が、今は「俺」と言っている。丁寧な笑顔もなく、声はずっと低い。何かを長く考えてから、ようやく口にしたように聞こえた。
カイさんは返事をしなかった。やすりを持つ指が止まり、拡大鏡を外すこともなく、ハーゲンさんを見ている。
「ルゥの弟子が、まだ生きていたとはな」
ハーゲンさんはそれだけ告げ、工房を出ていった。扉が閉まると、壁の時計の音が戻ってくる。
窓から伸びる春の光が、作業台の銀の蓋に細長く落ちていた。カイさんの手の中では、やすりが止まったままだった。




