第7話 呼び鈴が呼んだもの
白い百合のブローチが、カイさんの手のひらで小さく光っていた。
青い石を取り囲む花びらの縁には、細かな銀の飾りが施されている。玄関で子爵夫人が着けていたものとよく似ているけれど、こちらは石の色が違う。十日前から行方が分からなくなっていた、普段使いのブローチに間違いないようだった。
控えの間には、いつの間にか大勢の使用人が集まっていた。壁に並ぶ真鍮の鈴の下で、皆がブローチと入口のソフィさんを交互に見ている。窓から差し込む春の午後の光は穏やかなのに、部屋の空気だけが急に冷たくなった気がした。
「やっぱり、あの子が隠していたんじゃないの」
「控えの間には、奥様付きの侍女も出入りできるものね」
声をひそめているつもりなのだろうけれど、すぐそばにいる私にも聞こえていた。誰かが一言口にすると、別の誰かが頷く。ソフィさんは前掛けを握りしめたまま、何度も首を横に振っていた。唇は動いているのに、言葉にならないらしい。
私は帳面の端を握り直した。三日前の夜、グランツ侯爵家の大広間でも、同じように人々の視線が私へ集まっていた。身に覚えのないことを並べられ、弁解するより早く、周囲の人たちは私を悪者だと決めていた。
あのときも、指先がこんなふうに冷たかった。
ただ、ここにはまだ、壊れた呼び鈴がある。カイさんが取り出したブローチには、どのようにして箱へ入ったのかという、確かめられることが残っていた。私は帳面を胸に抱え、脚立のそばに立ったまま、夫人の言葉を待った。
「お静かになさい」
ブランシュ子爵夫人が扇を閉じた。ぱちん、と乾いた音が響くと、使用人たちは一斉に口をつぐんだ。夫人は入口に立つソフィさんへ一度目を向け、それからカイさんを見上げる。
「職人さん。何が出てきても、あなたを責めないと約束したでしょう。ですから、遠慮はいらないわ。見たままを教えてちょうだい」
「分かった。まず、これは勝手に中へ落ちるような物じゃない」
カイさんは脚立を降りると、作業用の布を机に広げ、その上へブローチを置いた。続いて、壁から外した箱を夫人のほうへ向ける。金具の内側に、四つの小さなネジが並んでいた。
「蓋はこのネジ四本で留めてある。誰かが蓋を外して、ブローチを銀の線の間へ押し込んで、また閉めたんだ。それで線が引っかかって、鈴を鳴らす仕掛けが動かなくなってた」
その説明を聞いて、私はもう一度ブローチを見た。なくなった品が、偶然、故障した呼び鈴の中に転がり込んだわけではない。隠そうとして、誰かがわざわざ箱を開けたのだ。
「呼び鈴が鳴らなくなったのは、十日前だったわね」
「ええ、奥様。ブローチが見当たらなくなったのと、同じ日でございます」
家政婦が答えると、夫人はゆっくり頷いた。閉じた扇を持つ手が、少しだけ強く握られている。それでも問い詰めるような声は出さず、カイさんの手元を見ていた。
「それでは、どなたが開けたのか、分かるものはないかしら」
「そこまでは知らん。ただ、ネジに傷がある。専用の工具じゃなく、薄い刃物で無理に回したみたいだな。あと、この白い汚れが気になる」
カイさんが箱を傾けると、ネジの溝に白い粉が付着しているのが見えた。銀色の金具の上では目立たないほど薄く、先ほどまで私も気づかなかったものだ。窓際へ近づけると、細かな粒が光を受けた。
「漆喰か、埃だと思うが。こんな所に何が付いたのかは分からん」
私はもう少し見せてもらいたくなった。脚立のそばへ寄って、カイさんに声をかける。
「カイさん、失礼します。少しだけ、こちらを確かめてもよろしいでしょうか」
「ああ。ネジの溝だ。指、切るなよ」
箱を受け取り、手袋を外してから、溝に残っている粉を指先でそっとこすった。漆喰ならもっとざらつく気がする。こちらは細かく、指の腹にさらりと広がった。試しに少し近づけると、ほんのかすかに酸っぱい匂いがする。
知っている匂いだった。
エルフォード家では、年に二度、屋敷じゅうの銀器を取り出して数を確かめる。食卓用の匙も、客間の銀盆も、しまってある燭台も、一つずつ。父が領地にいるあいだは私が帳簿と照らし合わせていて、磨き終わった銀器のそばで何時間も数字を数えたことがあった。
作業を終えると、決まって指先に残る匂いだ。貴族の屋敷で身につけた知識といえば、礼儀作法や舞踏を褒められることが多いけれど、今日役に立ちそうなのは、銀の匙を数えた時間のほうらしい。
「子爵夫人。こちらのお屋敷でも、銀器を磨く際には白い磨き粉をお使いでしょうか」
「ええ、使っているわ。それがどうかしたの?」
「恐らく、この粉は銀器用の磨き粉です。屋敷でも同じものを使っておりましたので、匂いを覚えております」
私は箱を布の上に戻し、夫人にネジの溝を示した。カイさんが持っていた工具の先で、傷の位置も確かめてもらう。細い刃物で回したという話と、磨き粉が残っていること。二つを合わせれば、誰がこの箱に触れたのか、手がかりになるかもしれない。
「それから、この箱はずいぶん高いところに取り付けられていました。ソフィさんの背丈では、脚立を使わなければ届きません。誰が脚立を運んだか、確かめることはできないでしょうか」
私がそう尋ねた途端、部屋の奥で衣擦れの音がした。
背の高い若い従僕が一人、袖口をさっと背中へ隠したのだ。上着の端から見えた手には、白い粉が残っていた。さっきまでソフィさんに向かっていた視線が、今度はゆっくりと、その従僕へ集まっていく。
私は少し心配になった。先ほどまでと同じように、見た目だけで誰かを決めつけてしまうのは避けたい。粉が付いているのには、仕事の都合もあるはずだ。そう思っていると、夫人が静かに家政婦を呼んだ。
「銀器の手入れは、誰の仕事だったかしら。それから、この控えの間の掃除は、誰が担当しているの?」
家政婦は言いにくそうに口を開き、銀器を磨いているのはその従僕だと答えた。本人の名を呼ばれた若者は、肩をびくりと揺らす。夫人に尋ねられても顔を上げず、背中に隠した手を握り込んでいた。
「責めているわけではないのよ。何か知っているなら、きちんと話してちょうだい」
夫人の声は穏やかだった。そのぶん、控えの間の静けさが、かえって重く感じられた。壁に並んだ鈴はどれも鳴らず、廊下の向こうから誰かの足音が近づいては遠ざかっていく。
若い従僕は、しばらく立ったままだった。けれど夫人がもう一度名を呼ぶと、力が抜けたように膝をついた。
「……申し訳ございません。わたしが、隠しました」
短い言葉が落ちると、ソフィさんが息をのんだ。従僕は床を見つめたまま、途切れ途切れに話し始める。借金があり、ブローチを売れば返せると思ったこと。夫人の部屋から持ち出したものの、すぐに屋敷じゅうで騒ぎになり、外へ持ち出すことも、元の場所へ戻すこともできなくなったこと。
そして、銀器の手入れに使う薄いナイフで箱の蓋を開けたのだという。誰も調べないと思った場所に、ブローチを押し込んだ。そこへ隠したせいで、呼び鈴が鳴らなくなったことまでは、考えていなかったらしい。
彼の告白が終わるまで、夫人は何も言わなかった。やがて家政婦を振り返り、従僕を奥へ連れていくように告げた。
「詳しい話は、あとで聞きましょう。今は下がりなさい」
従僕が頭を下げて出ていくと、控えの間にいた使用人たちが気まずそうに目を伏せた。つい先ほどまで、ソフィさんに聞こえる声で疑いを口にしていた人たちだ。ソフィさんはまだ入口に立ったままで、握りしめていた前掛けを離せずにいた。
夫人はその前へ歩いていった。年かさの侍女が場所を空けると、夫人はソフィさんの顔を見て、静かに頭を下げる。
「ソフィ。十日ものあいだ、あなたを疑って悪かったわ。この屋敷の主として、皆の前であなたに謝ります」
誰も何も言わなかった。ソフィさんは一度、何かを答えようと口を開いたけれど、声にならなかった。それから両手で顔を覆い、子どものように声を上げて泣き出した。隣にいた年配の侍女が、そっとその肩を抱く。
私も、胸の奥が熱くなった。十日間、誰に何を言われても否定するしかなかったのだろう。間違いが明らかになって、皆の前で謝ってもらえて、本当によかったと思った。
ただ、その光景を見ているうちに、少しだけ羨ましくなってしまった。
三日前の大広間では、私が何もしていないと確かめようとする人はいなかった。二百人もの前で罪を並べられ、婚約を破棄されても、誰も頭を下げてはくれなかった。今さら比べるつもりはないのに、ソフィさんの肩を抱く侍女を見ると、あの夜の冷たさがまた指先へ戻ってくる。
私はそっと手袋をはめ直し、帳面を開いた。
修理の欄に、尖った鉛筆で「詰まり物の除去」と書き込む。依頼内容に間違いはない。けれど今日は、鈴だけでなく、ソフィさんがようやく自分の仕事へ戻れそうなことも、嬉しかった。
◇
ブローチを取り出したあとの箱には、銀の線が何本か、元の位置からずれたまま残っていた。
夫人の許しを得て、カイさんはもう一度脚立に上がり、細い工具で線を整えていく。押し込まれていたブローチが引っかかっていた場所を確かめ、ねじれていた部分を一つずつ戻す。私には似たような銀の線にしか見えないけれど、カイさんは迷わず指を動かしていた。
先ほどまでざわついていた控えの間も、少しずつ普段の様子に戻り始めた。使用人たちは仕事へ戻り、開けた窓からは庭の木々が風に揺れる音が入ってくる。春の陽が壁を照らし、真鍮の鈴の縁に、細い光の輪を作っていた。
カイさんは箱の中の魔石に拡大鏡を向けてから、ふと手を止めた。先ほどまで線を追っていた指が、石の周りに刻まれた細かな模様の上で止まっている。
「どうかなさいましたか。石のほうにも、傷がありましたか」
「いや、石は問題ない。二十年近く、一度も替えてないんだなと思ってさ。線の巻き方も、作ったときのままだ」
カイさんの声は、いつもどおり無愛想だった。それでも、古い仕掛けを見つめる顔が少し嬉しそうに見えた。師匠のルゥさんが作った品だと言っていたから、昔の仕事を確かめられたことが嬉しいのかもしれない。
ルゥさんは、どんな人だったのだろう。カイさんが古い時計を修理するときの手つきからは、その人が手間を惜しまずに作った物なのだと伝わってくる気がした。箱の中の銀の線は、二十年も経った今なお、まっすぐにつながっている。
「よし。もう一回鳴らしてみてくれ」
カイさんが蓋を戻してネジを留めると、夫人は奥の自室へ向かった。私たちは控えの間に残り、『奥様のお部屋』の札が下がった鈴の前で待つ。試しに鳴らすだけなのに、ミアは両手を胸元で合わせ、私も帳面を閉じて壁を見上げた。
少しして、ちりん、と澄んだ音が響いた。
続いてもう一度、今度は少し長く鳴る。真鍮の鈴が細かく震え、窓からの光を揺らしていた。十日間鳴らなかったという話が嘘のように、明るくきれいな音だった。
私は思わず笑顔になった。子爵夫人が呼ぶための小さな鈴だけれど、屋敷の中で誰かが返事をするためには、こうして鳴らなければならないのだ。
「お見事ですね、カイさん」
ミアが小さく拍手した。カイさんに向かって褒め言葉を口にしたのは、たぶん初めてだ。本人もすぐに気づいたようで、慌てて手を背中へ隠している。カイさんは不思議そうに一度ミアを見てから、工具を革帯に戻した。
「別に、詰まってた物を取って、線を戻しただけだよ。……それより、あんたはよく気づいたな」
最後の言葉は、私に向けられていた。急に話を振られたので、私は帳面を抱え直す。
「屋敷で銀器を数えているとき、磨き粉の匂いがいつも残っていましたので。たまたま、覚えていただけです」
「たまたまじゃないだろ。俺にはただの汚れに見えたし、あのままじゃ気づかなかった」
カイさんは少し間を置いて、私の持つ帳面を見た。次に顔を上げたときには、いつもの眠そうな目に戻っている。
「あんたの目は確かだ。帳場に置いといて、損はないな」
私はすぐには返事ができなかった。
自分の知っていることが、こんなところで役に立つとは思っていなかった。屋敷の帳簿をつけるのは当たり前の仕事だと思っていたし、銀器の数を間違えずに記録しても、誰かに褒められることはほとんどない。けれどカイさんは、私が何を見つけたのか、きちんと分かってくれていた。
少し嬉しくなって、私は帳面の角をそろえながら頭を下げた。
「ありがとうございます。……では、これからも、こちらに置いておいてください」
「分かったよ。どうせ毎日来るんだろ」
「はい。修理が終わるまでは、お約束しておりますので」
カイさんが喉の奥で短く笑った。私はそのあいだに帳面を開き、今日の修理を終えた印をつける。先ほどよりも、鉛筆の先が少し軽く動いた。
◇
帰りの馬車を待つ頃には、庭の向こうの空が薄い金色に変わっていた。
子爵家の玄関では、白い石の階段に木々の影が長く伸びていた。門の外を荷車が通る音がして、少し遅れて、遠くの時計の鐘が鳴る。春の日は長くなってきたとはいえ、夕方の風にはまだひんやりとした冷たさが残っていた。
ブランシュ子爵夫人は、私たちを見送りに出てきてくれた。胸元には、今朝工房で見た白い百合ではなく、先ほど見つかった、青い石のブローチが留められている。磨かれた石の色は深く、淡い緑のドレスによく映えていた。
「今日は本当に助かったわ。呼び鈴も直ったし、ブローチも戻ってきた。わたくしもね、人を見る目には自信があったのよ。それなのに、あの子を十日も疑ってしまった」
夫人はそう言って、短く息を吐いた。私が何か答える前に、もう一度玄関の奥を振り返る。
「ソフィには、わたくしから十分に償うつもりよ。あの子が安心して仕事を続けられるようにしなければね」
「はい。ソフィさんが、また元気になられるといいですね」
「ええ。それから、あなたにも借りができたわね。エルフォードのお嬢さん」
私は少し驚いて夫人を見た。今日の仕事は、前払いの銀貨三枚をいただいている。帳面にも受領済みと記録したし、これ以上のお代を求めるつもりはなかった。
「恐れ入ります。修理のお代は、すでに頂戴しておりますので……」
「あら、そういうお話ではないわ」
夫人は楽しそうに微笑んだが、すぐに扇を広げて口元を隠した。先ほど使用人たちを黙らせたときとは違い、その声が少しだけ低くなる。
「だから、一つだけ教えてあげる。あなたの胸元のそれ、ルゥの作でしょう」
私は思わず、外套の上から星時計を押さえた。母の形見であるこの時計は、できるだけ人目につかないようにしていた。けれど夫人には、最初から分かっていたようだった。
「……ご存じなのですか。星時計を作った職人のことを」
「あの印は覚えているわ。けれど、今お伝えしたいのは別のことなの」
夫人は周りを見てから、もう少し声を落とした。門の向こうでは馬車の音が近づいている。ミアは隣で静かに立ち、カイさんも少し離れた場所からこちらを見ていた。
「気をつけなさい。グランツ侯爵が、ルゥという職人の作品を買い集めているそうよ」
「侯爵閣下が、ですか」
私は胸元の布を握り直した。三日前、時計通りで執事長に引き渡しを求められたばかりだ。あの書状を送ってきた侯爵が、ほかにも同じ職人の品を集めているというのなら、偶然だとは思えなかった。
「ええ。わたくしの呼び鈴にも、去年、法外な値をつけてきたわ。二十年近く使ってきた物を売るつもりはなかったから、もちろん断ったけれどね。理由までは、わたくしにも分からないの」
夫人は扇を少し下げ、私の顔を見た。心配しているようにも、何かを確かめているようにも見える。私はすぐに返す言葉が見つからず、小さく頭を下げた。
「大切なお話を、ありがとうございます。時計は、私が持っておりますので」
「ええ。そうなさい。あの職人さんにも、よろしく伝えてちょうだい」
迎えの馬車が門の前で止まり、御者が扉を開けた。私は夫人にもう一度礼をして、石段を下りる。振り返ると、夫人はまだ玄関に立っていて、淡い緑のドレスの胸元で、白い百合の青い石が夕日を受けて光っていた。




