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伯爵令嬢の星時計~婚約破棄されても泣かなかったけれど、なぜか無愛想な職人にだけ甘いわ~  作者: 森凛
第一部 割れた星時計

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第6話 子爵夫人の呼び鈴

 淡い緑色の馬車から降りた婦人は、日傘を差したまま、ゆっくりと坂を上ってきた。


 午後の陽射しはまだ明るかったけれど、時計通りには、建物の影が少しずつ伸び始めていた。風が吹くたびに工房の軒先の小さな金具が鳴り、坂の下から焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。その中を、上等なドレスをまとった婦人が、慣れない石畳を一歩ずつ確かめるように進んでいた。


 銀色の髪は崩れないよう丁寧に結い上げられ、淡い緑のドレスには細かな刺繍が施されている。胸元には、白い百合をかたどったブローチが留められていた。先ほど馬車の扉に見えた紋章も、同じ白い百合だったはずだ。後ろには若い侍女が一人、大きな包みを両腕に抱えてついてくる。


「おい、あれは誰の馬車だ?」


 窓際に寄っていたピップが、丸パンを持つ手を止めた。向かいの工房でも窓が開き、前掛け姿の男が通りをのぞいている。一昨日、侯爵家の馬車が来たときもそうだったけれど、この坂では、立派な馬車が一台止まるだけで、ずいぶん大きな出来事になるらしい。


「お客様かもしれません。私が伺ってまいりますね」


 私は帳面に挟んでいた紙を戻し、椅子から立った。今日から帳場を預かると決めたばかりだ。お客様がいらしたのなら、まずはご用件を確かめるのが仕事だろう。


 扉を開くと、ちょうど婦人が敷居の前へ着いたところだった。日傘をたたんで後ろの侍女に渡すと、私を見て、少しだけ目を細める。


「ごめんくださいませ。こちらが、三日月の印の工房かしら」


「いらっしゃいませ。こちらは時計や魔導具の修理を承っております。どのようなご用件でしょうか」


 私はできるだけいつもの調子で尋ねた。婦人は扉の内側を見渡し、壁いっぱいに掛かった時計と、奥の作業台へゆっくり視線を移していく。


「あら。あなた、エルフォード伯爵家のお嬢さんでしょう。夜会の件は伺っているわ」


 ここでも、その話なのか。


 私は笑顔を崩さないまま、小さく頭を下げた。婚約を破棄されたのは三日前の夜だというのに、もう時計通りでまで知られている。貴族街から離れれば噂も届かないかと思っていたけれど、どうやら見通しが甘かったらしい。


「お恥ずかしい限りです。今はこちらの工房で、帳場を預からせていただいております」


「あら、そう。それは面白いこと」


 婦人は口元に扇を当てた。驚いたというより、何か楽しいものを見つけたような顔だった。私が少し戸惑っていると、後ろからミアがそっと袖を引く。


「お嬢様、あの方はブランシュ子爵家の大奥様です。社交界でも、思ったことをはっきりおっしゃる方で有名なんですよ」


 ミアの小声に、私は頷いた。ブランシュ子爵家なら名前は知っている。貴族街の西の端に屋敷があり、昔から王都に住んでいる家だ。今までご挨拶する機会はなかったけれど、思ったことをはっきりおっしゃる方なら、遠回しな話はかえって失礼かもしれない。


「改めまして、ブランシュ子爵夫人。お越しいただきありがとうございます。よろしければ、こちらでお話を伺わせてください」


「ええ、お願いするわ。時計の修理を頼みに来たわけではないのだけれど、困っているのよ」


 夫人に入口の椅子を勧めると、付き添いの侍女が脇へ控えた。ミアは私の帳面を机の端へ寄せ、客用の場所を空けてくれる。奥ではカイさんが作業台に向かったまま、やすりを動かしていた。こちらの声は聞こえているはずなのに、顔を上げる気配はない。


 私は鉛筆を取り、帳面の新しい行を開いた。


「それでは、お品物について教えていただけますでしょうか」


◇


 壊れたのは、ブランシュ子爵家の呼び鈴だった。


 屋敷の呼び鈴は、主人が部屋で紐を引くと、使用人の控えの間に取り付けられた鈴が鳴る仕掛けだ。古い屋敷では壁の中に紐や針金を通しているけれど、最近は魔石を使って離れた部屋へ知らせるものも多い。部屋ごとに鈴が分かれているので、使用人は誰に呼ばれたかすぐに分かる。


「十日ほど前から、わたくしの部屋の鈴だけが鳴らなくなったの。ほかの部屋のものは、何ともないのよ。何度紐を引いても気づいてもらえなくて、ずいぶん不便をしているわ」


「それはお困りですね。お屋敷の方には、すでに見ていただいたのでしょうか」


「もちろん。ほかの職人にも来てもらったけれど、中の仕組みが分からないから、手を出せないと言われてしまったの」


 夫人はそこで、壁の時計を一つ見上げた。長い年月を経て木の色が濃くなった、小さな掛け時計だ。その近くにも、古い品物がいくつも並んでいる。


「呼び鈴を作ったのは、ルゥという職人よ。二十年近く前のことになるかしら。ここなら分かると思って来たの」


 かり、と小さな音がして、作業台のやすりが止まった。


 私は顔を上げた。ルゥというのは、先ほどカイさんから聞いた師匠の名前だ。古い帳面を書いていたのも、壁に掛けられた時計を直したのも、その人だったという。夫人の呼び鈴まで作っていたのなら、ずいぶん多くのお客様に頼られていたのだろう。


「貴族の仕事は受けない」


 カイさんは振り返らずに言った。婦人の侍女が驚いたように顔を上げ、私の隣ではミアが背筋を伸ばす。


「払いが遅いし、壊れたら職人のせいにする。悪いが、ほかを当たってくれ」


「ほかを当たって、ここへ来たのですけれど」


 夫人は少しも気を悪くした様子がなかった。むしろ扇の陰で笑っている。私は、三日前の夜に同じことを言われたのを思い出していた。あのときもカイさんは、貴族の仕事だからと断ったのだ。


 けれど、真珠の耳飾りを前金として差し出したら、最後には引き受けてくれた。結局、翌日にはもう片方も渡したので、今は耳が少し寂しい。それでも、あの時計を直せる人を見つけられたのだから、後悔はしていなかった。


 それに、古い帳面で見たルゥの字を思い出す。あれほど丁寧に修理の記録を残していた人が作った呼び鈴を、このまま誰も直せずにいるのは、もったいない気がした。


「子爵夫人。差し出がましいようですが、修理をお引き受けするにあたって、いくつか条件を出させていただいてもよろしいでしょうか」


 夫人が扇を下ろし、私を見た。


「条件? ええ、聞かせてちょうだい」


「ありがとうございます。一つ目は、お代を前払いでいただくことです。二つ目は、修理の途中で何が見つかっても、職人を責めないとお約束いただくこと。三つ目は、修理のあいだ、帳場を預かる私も立ち会わせていただくことです」


 私は言い終えてから、カイさんのほうを見た。彼は作業台に肘をついたまま、こちらを見ている。断ってほしくはないけれど、勝手に引き受けてしまったつもりもない。最後に決めるのは、もちろん工房の主であるカイさんだ。


 夫人はすぐには答えなかった。閉じた扇の先を指に当て、私の顔を確かめている。沈黙が長くなると、私は自分の説明に何か足りなかっただろうかと、帳面の端をそろえ直した。


「ふふ。いいわ。三つとも、お約束しましょう。お代を払うのも、修理の様子を見せるのも、わたくしには少しも困ることではないもの」


 私はほっとして、もう一度頭を下げた。夫人が気持ちよく承知してくださったのだから、あとは職人本人の返事だけだ。


「カイさん、いかがでしょうか。お師匠様のお仕事でしたら、一度見ていただくことはできませんか」


 カイさんは髪をかき回し、作業台の上の工具を置いた。何か言いたそうに私を見る。その顔には、前に断られたときと同じ面倒そうな色が浮かんでいたけれど、目はすでに工具箱のほうへ向いていた。


「……師匠の仕事なら、見ないわけにいかない。言っとくが、あんたに言いくるめられたわけじゃないからな」


「はい。もちろん存じております」


 私は思わず口元が緩みそうになり、慌てて帳面へ目を落とした。何より、これで工房の仕事が一つ増える。帳場を任せてもらったばかりなのに、最初から何もできないまま終わらずに済んで、嬉しかった。


「では、修理のお代を確認させていただきます。カイさん、今回はいかほどでお引き受けになりますか」


「銀貨三枚。見て、直すまでだ。部品が要れば、その分は別にもらう」


「承知いたしました。子爵夫人、こちらの条件でよろしいでしょうか」


「ええ。もちろんよ」


 夫人が頷くと、控えていた侍女が包みを抱え直し、小さな財布を取り出した。机の上に銀貨が三枚並ぶ。私は一枚ずつ確かめてから、帳面の新しい行に日付とお名前、品物、前金を書き込んだ。


『ブランシュ子爵夫人 屋敷の呼び鈴 銀貨三枚』


 今まで屋敷の帳簿では、こうしたお支払いを記録することが当たり前だった。でも、この工房では自分でお客様の話を伺い、お代を決めるところまで立ち会っている。机の上に増えた一行を眺めると、昨日までより少しだけ、この場所での仕事が分かってきた気がした。


「今から行くぞ。屋敷の呼び鈴は、こっちへ持ってこられないからな」


 カイさんは革帯に工具を差し込み、布に包んだ細い道具もいくつか箱に入れた。私は帳面を閉じて持ち上げ、ミアへ出かける支度をお願いする。


「ピップさん、申し訳ありませんが、工房のお留守番をお願いしてもよろしいでしょうか。もしお客様がいらしたら、今日は出張修理に出ているとお伝えください」


「任せとけ、姉ちゃん! おいら、昼過ぎからならずっといるぞ」


「お前の仕事は留守番だ。勝手に時計をいじるなよ」


「分かってるって、親方!」


 返事だけはとても元気だった。私は念のため、扉に貼る紙も一枚用意した。『本日は出張修理のため不在』と書いて取っ手の横へ貼ると、ピップが文字をのぞき込み、もっと大きく書けばいいのに、と笑った。確かに通りからは見えにくいかもしれないけれど、今はこれで勘弁してもらおう。


◇


 ブランシュ子爵夫人の馬車は、見た目だけでなく座席まで立派だった。


 淡い色の布張りの上に腰を下ろすと、柔らかな詰め物が体を受け止める。貴族の馬車に乗り慣れている私には心地よかったけれど、向かい側のカイさんはどうも落ち着かないらしい。膝の上に工具箱を置き、腰の革帯に手が当たるたび、座り直している。


 ミアは私の隣で背筋を伸ばし、カイさんの工具を気にしていた。磨き上げられた座席に傷がつかないか心配しているのかもしれない。私は二人を見比べたけれど、どちらにも何を言えばよいのか分からなかった。


 窓の外では、時計通りの工房が少しずつ遠ざかっていく。坂の途中の青い扉は、建物の陰に隠れてすぐに見えなくなった。昨日まではあの工房へ自分の時計を持って通うだけだったのに、今日はこうして修理の仕事に同行している。


「カイさん。引き受けてくださって、ありがとうございます。お師匠様のお仕事を、私も見せていただけるのが楽しみです」


「師匠の仕事だからだ。それに、まだ直せると決まったわけでもない」


「はい。まずは状態を確かめてから、ですね」


 カイさんは窓の外を向いたまま、小さく頷いた。昨夜、星時計をのぞきこんでいたときと同じように、これから見るもののことを考えているのだろう。手元の工具箱は、いつの間にか両膝の上でまっすぐに置かれていた。


 馬車が貴族街へ入ると、路面が平らになり、車輪の音も少し静かになった。通りには手入れされた街路樹が続き、若い葉が春の光を透かしている。時計通りで聞こえていた金属を打つ音は遠くなり、かわりに、庭先で水をまく音や、馬車の鈴が聞こえ始めた。


 やがて馬車が白い百合の紋の門をくぐる。ブランシュ子爵家の屋敷は、エルフォード家よりひと回り小さいけれど、庭木はきれいに刈り込まれ、玄関までの小道には落ち葉一枚見当たらなかった。明るい色の壁に午後の光が映り、窓の硝子が柔らかく光っている。


 馬車が止まると、玄関の両側に使用人たちが並んでいた。夫人が降りるのに合わせ、いっせいに頭を下げる。その中で、少し離れて立っている若い侍女が目に留まった。


 まだ若い、私とそれほど年の変わらなそうな女性だった。ほかの者のように顔を上げず、前掛けの端を指で握りしめている。うつむいた頬には血の気がなく、こちらの馬車を見てから、さらに肩を小さくしていた。


 私は思わず、その姿を目で追った。


 案内してくれた年かさの家政婦が、私の視線に気づいたらしい。夫人たちが少し先を歩いているのを確かめると、声を落として話し始めた。


「あの子はソフィと申します。奥様付きの侍女でございますが、今、少々困ったことになっておりまして」


「何かあったのでしょうか」


「十日ほど前、奥様の百合のブローチが見当たらなくなったのです。普段お使いの、青い石が入ったものでして。最後に奥様のお部屋を片付けていたのが、ソフィだったものですから……」


 私は前を歩く夫人の胸元を見た。そこには、工房で見た白い百合のブローチが、今もきちんと留まっている。


「でも、子爵夫人はブローチをお着けになっていますよね」


「あちらはお出かけ用の二つ目でございます。なくなったのは、いつもお使いのほうなのです。ソフィは違うと申しておりますが、ほかに心当たりもなく、屋敷の者たちは皆、あの子を疑っておりまして」


 家政婦は言い終えると、気まずそうに口を閉じた。少し先ではソフィが歩き出していたが、ほかの使用人とのあいだには、まだ距離があった。


 身に覚えのないことを疑われるのが、どれほど怖いか。私は三日前の夜を思い出した。あの大広間でも、誰一人として、私に確かめようとはしなかった。そういうことを思い出したくないから工房に来ているわけではないけれど、似た光景を見ると、どうしても指先が冷たくなる。


 私は外套の袖を軽く握り、それから家政婦に向き直った。


「ソフィさんからは、詳しくお話を伺ったのですか」


「ええ。本人は何も知らないと申しております。奥様もお困りで……。申し訳ございません、お客様にする話ではありませんでした」


「いいえ。教えてくださってありがとうございます」


 答えながら、私はもう一度ソフィを見た。彼女はちょうど廊下の曲がり角にいて、私たちのほうを見かけてから、慌てて目を伏せた。


◇


 呼び鈴の鈴は、使用人の控えの間に取り付けられていた。


 壁には小さな真鍮の鈴がいくつも並び、一つずつ下に部屋の名前を書いた札が下がっている。磨かれた真鍮の表面には窓からの光が映り、誰かが近くを通ると、細い金色の線が鈴の上を滑っていった。


「ほかのお部屋の鈴は、今も鳴るのですか」


 私が尋ねると、家政婦は近くにいた従僕に合図した。ほどなく廊下の奥から澄んだ鈴の音が響き、控えの間にいた使用人の一人が顔を上げる。


「はい。こちらは問題ございません。奥様のお部屋だけが、十日ほど前から鳴らなくなったのです」


 家政婦が指さしたのは、『奥様のお部屋』と札の下がった鈴だった。見たところ、ほかと変わったところはない。私は帳面を開いて、今聞いたことを書き留めた。


 カイさんは鈴の下へ脚立を運び、革帯から工具を取り出した。真鍮の縁を指で押さえ、何かを確かめてから、壁に留められた小さな箱を外していく。金具を傷つけないよう布を当てる手つきが、見ていて気持ちよかった。


 箱の裏側がこちらを向いたとき、私は小さく息をのんだ。


 三日月と、点が三つ。


 星時計の裏蓋にも、工房の古い時計にもあった印だ。カイさんはその刻印を親指でひと撫でし、少しだけ動きを止めた。それから何も言わず、蓋を外して箱の中をのぞきこむ。


「私にも見せていただいてよろしいでしょうか」


「ああ。ただ、まだ触るなよ。細い線が引っかかってるかもしれない」


 私は脚立の脇へ近づいた。開いた箱の中には、親指の先ほどの魔石が一つ収まり、その周りに細い銀の線が幾重にも巻かれている。どこからどうつながっているのか、見ただけでは分からないほど細かな仕事だった。


 これを二十年近く前に作った人が、あの工房の古い帳面を書いていた。私は真鍮の縁に目を凝らしながら、ルゥという職人のことを考えた。お客様の名前も修理した箇所も細かく残していた人なら、きっとこの仕掛けにも、何か理由があるのだろう。


 カイさんは魔石に工具の先を近づけ、ゆっくりと角度を変えた。ときどき手を止めて銀の線の向きを確かめ、別の細い工具に持ち替えている。私には、どの動きが正常でどこが故障なのか、まだ見分けられなかった。


「石は生きてる。線も切れてない。なのに鳴らないってことは……」


 カイさんが小さくつぶやいた。私が顔を上げると、彼は箱の奥をのぞき込み、眉をひそめている。


「どうかなさいましたか。何か分かったのでしょうか」


「……何か、詰まってる。線の奥に、妙なものがある」


 工具の先が、銀の線の隙間へゆっくり入っていく。周りの線を傷つけないように少しずつ動かすと、内側でかすかな金属音がした。カイさんは別の工具で線を支え、その小さなものを慎重に引き出し始める。


 いつの間にか、控えの間の入口には使用人たちが集まっていた。カイさんの手元を見ようとして、誰もが少しずつ首を伸ばしている。ミアも私のそばに立ち、何が出てくるのか目を凝らしていた。


 やがて、銀の線のあいだから、小さな装身具がころりと転がり出た。


 白い百合をかたどった、青い石の入ったブローチだった。


 カイさんの火傷の残る手のひらで、青い石が窓の光を受けてきらりと光る。私は思わず夫人の胸元を振り返った。そこには、お出かけ用の白い百合が変わらず留まっている。


 控えの間の入口で、誰かが息をのんだ。


 振り向くと、ソフィが青ざめた顔で立ち尽くしていた。握りしめた前掛けの端が、その手の中で小さく震えていた。

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