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伯爵令嬢の星時計~婚約破棄されても泣かなかったけれど、なぜか無愛想な職人にだけ甘いわ~  作者: 森凛
第一部 割れた星時計

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5/12

第5話 帳簿の空白

 翌日の昼過ぎ、私は一冊の帳面を抱えて、時計通りの坂を上っていた。


 屋敷で出入りの商人の注文を書き留めるのに使っていたもので、表紙の角は少し擦れているけれど、中にはまだ半分ほど白い頁が残っている。朝のうちに必要な記録を別の紙へ移し、残りを使わせてもらうことにした。昨日、カイさんに「明日から持ってまいります」と言った以上、手ぶらで行くわけにはいかない。


 坂道には、春のやわらかな日差しが落ちていた。軒先に吊られた真鍮の部品が風に揺れ、触れ合うたびに小さく澄んだ音を立てる。昨日ネルが帰っていったパン屋の前では、粉のついた前掛けを干している人がいた。焼きたてのパンの匂いにつられて振り向くと、隣を歩くミアと目が合った。


「お嬢様、帳面まで持っていくなんて、本当にあの職人さんのお店を手伝うおつもりなんですか。昨日は修理を見守るだけだとおっしゃっていたのに」


 ミアは私の腕の中の帳面を見て、困ったように眉を寄せた。昨日、オルゴールの子守唄が流れたときには、誰より熱心に耳を傾けていたのに、カイさんへの警戒はまだ解けていないらしい。


「手伝うというより、修理を待つあいだに、できることをするだけよ。黙って座っているのは、性に合わないもの。それに、昨日はお客様のお話を聞かせてもらえたでしょう」


「昨日は、ずいぶん長いこと作業台の端で黙って見ていらっしゃいましたけれど」


 そのとおりなので、返す言葉がなかった。私は坂の上を指さして、青い扉がもうすぐだと告げた。ミアは何か言いたそうだったけれど、帳面を落とさないよう、足元を見て歩く私に合わせてくれた。


 貴族の屋敷なら、帳簿をつける場所も、紙をしまう棚も決まっている。けれどあの工房では、預かった時計が壁いっぱいに並び、帳面は机の上で埃をかぶっていた。昨日ネルの名前を書き込んだときから、そのことが気になっている。任せてもらえるなら、まずは何がどこにあるのか確かめたい。


 青い扉には、昨日と同じ紙が貼られていた。


『開いてる。勝手に入れ。起こすな』


 最後の一行まで確かめてから、私は取っ手に手をかけた。音を立てないよう扉を押すと、油と金属の匂いがして、いくつもの時計の音が流れ込んでくる。窓から差し込む光は昨日より少し奥まで届いていて、床には歯車の形をした影が落ちていた。


 カイさんは、今日も奥の長椅子で眠っていた。毛布からはみ出した黒髪は相変わらず右側だけはねている。私はミアと顔を見合わせ、起こさないよう入口の机へ向かった。


 机の上には、昨日使わせてもらった古い帳面が置かれていた。丸い鉛筆も、私が戻した場所にそのままある。私は持参した帳面を横へ置き、先に古いほうを開くことにした。昨日はネルの依頼を書くための空いている頁を探すのに精一杯で、最初から読み返す余裕がなかったのだ。


 表紙を開くと、乾いた紙の匂いがした。頁の端は黄ばんでいたけれど、前半には、細かな文字が隙間なく並んでいる。日付、客の名前、品物、修理した箇所、受け取ったお代。どの行も小さく丁寧な字で書かれ、文字はほんの少し右へ傾いていた。


 私は思わず、指で行を追った。修理した日と引き渡した日が違うものには印がつけられ、同じ客からの依頼は、前の記録を探せるようになっている。今では使われなくなった言い回しもあったけれど、何を預かり、どこを直したかはきちんと分かった。


「ずいぶん丁寧ですね。こういう帳面なら、私も安心して引き継げそうだわ」


「昨日は、こんな字は見ませんでしたね。お嬢様がお書きになったところより、ずっと前の頁でしょうか」


「ええ。昨日は空いているところを探して書いたから、最初のほうは読まなかったの」


 頁をめくるたび、古い紙がかすかに鳴った。私は書き込まれた日付を順に追っていたが、あるところで指が止まる。丁寧な字が、その頁の途中でぷつりと途切れていた。


 次の頁は白い。その次も、さらに次も、ほとんど何も書かれていない。ときどき角ばった走り書きが現れて、品物の名前だけが残されている。時計、留め金、ゼンマイ。客の名前も日付も、お代も分からない。見覚えのある字だと思って扉の紙を振り返ると、線の跳ね方が同じだった。


 白い頁を何枚もめくり、最後に昨日のネルの依頼へ行き着いた。私が書いた名前と修理の記録だけが、急に整った行になっている。その前に広がる空白を、私はもう一度見直した。


「……前の方は、あんなにきちんと書かれていたのに」


「ほとんど真っ白ですね。これじゃ、何を預かっているのか分からなくなりませんか」


 ミアが身を乗り出して言った声は、思ったより工房によく響いた。私が慌てて口元に指を当てるより先に、奥の長椅子で毛布が動く。


「……うるさい」


 くぐもった声がして、黒髪が毛布の下へ引っ込んだ。ミアは申し訳なさそうに背筋を伸ばしたけれど、私は開いた帳面から目を離せなかった。


「帳面なんかなくても、仕事は回ってるんだよ」


 しばらくして起きてきたカイさんは、水差しから直接水を飲むと、そう言った。顔を洗ったのかどうかは分からないけれど、昨日と同じ作業着に着替えている。髪はまだ右側だけはねたままだった。


 私は古い帳面を作業台の端に置き、角ばった字の頁を開いて見せた。


「確かに修理は進んでいると思います。ただ、前払いでいただいたお代も、預かった品物も、ここにはほとんど書かれていません。いつ誰から預かったのか、カイさんだけが覚えていらっしゃる状態ですよね」


「俺が分かってれば十分だろ。壁の時計だって、どこの誰のか覚えてる」


「それはすごいことだと思います。でも、昨日のように、カイさんがお休みのあいだにお客様がいらしたら、どうなさるんですか。私はネルさんのお名前を聞けましたけれど、以前のご依頼については何もお答えできません」


 カイさんは口を開きかけ、それから閉じた。視線だけが、入口の机と長椅子のあいだを行き来する。昨日、ネルが来たときに眠っていたことを思い出したらしい。


 私は持参した帳面を作業台へ移した。屋敷で使っていたものなので、頁には細く線を引ける余白も十分にある。


「差し出がましいようですが、私に整理させていただけませんか。屋敷では商人の注文や銀器の数をずっと記録してきましたので、こういう仕事には慣れているんです。カイさんの手は、修理に使っていただいたほうがいいと思います」


「……それ、毎日やるつもりか」


「修理が終わるまでは通うお約束ですし、そのあいだにできるところまで進めたいと思っています。もちろん、分からないことは確認いたします」


 カイさんは水差しを置き、壁の時計を眺めた。いくつもの針がばらばらの場所を指していて、すぐ近くの時計だけが低く時を刻んでいる。私は返事を急かさず、帳面の上に両手をそろえた。


「……好きにしろ。帳場はあんたに任せる」


 言い終えると、カイさんは工具を手に取って作業台の奥へ戻っていった。あまりにあっさりしていたので、私は一瞬、聞き間違えたのかと思った。


 帳場。お金と品物の出入りを預かる場所のことだ。屋敷でも同じような仕事をしてきたけれど、ここでは昨日初めて顔を出した客の一人にすぎなかった。その私に、帳面を任せると言ってくれた。


「ありがとうございます。では、今日からきちんと記録いたしますね」


「細かいことは好きに決めろ。ただ、俺が使う工具の場所だけは変えるなよ。探すのが面倒だ」


「承知いたしました。工具の整理は、また別の機会にいたします」


「別の機会もいらん」


 私は返事をするかわりに、持参した帳面を開いた。今は工具より、記録の整理を優先したほうがよさそうだ。ミアが私の隣に椅子を寄せてくれたので、二人で入口の机へ戻った。


 定規を当て、預かった日、客の名前、品物、前金、引き渡した日、と欄を作る。屋敷の帳簿と同じように、空いている欄は後から記入できる幅を残した。最初の行には、昨日のネルの依頼を書き写す。祖母のオルゴール、ゼンマイの留め具と刻石の調整、前金は丸パン一つ、引き渡し済み。


 前金の欄に「丸パン一つ」と書くのは、やっぱり少し変な気分だった。けれど、カイさんはその代金で引き受け、ネルも嬉しそうに持ち帰った。銀貨でなければ勘定できないという決まりは、この工房にはないのだろう。


 私は文字の間隔を確かめ、次の行を空けて鉛筆を置いた。それから胸元の星時計をハンカチごと作業台へ運ぶと、カイさんは銀の蓋を受け取り、昨日の続きに取りかかった。先の丸い鉛筆は相変わらず書きにくかったけれど、今日はそれほど気にならなかった。


◇


 帳面の形ができると、次は壁に掛かった時計を確かめることにした。


 古い帳面には、直したまま取りに来られていない品物が残っている。昨日のネルのお祖母様の時計も、壁に掛けられた一つだった。あの札がなければ、ネルも自分の家に時計が残っていたことを知らないままだっただろう。


 私は脚立を借り、ミアに足元を押さえてもらった。まずは手の届く高さにある時計から外し、木の札に書かれた名前を読み上げる。ミアは古い帳面から同じ名前を探し、見つかれば新しい帳面に印をつけてくれた。


 ひとつ外すと、壁には長く日の当たらなかった形が残った。時計の裏側には埃がたまっていて、布でそっと拭くと、古い木枠の色が少し明るくなる。窓から入る午後の光の中で、時計の針だけが変わらず動いていた。


「お嬢様、もう少し右です。脚立は動かさないで、私が押さえていますから」


「ありがとう。次は、あちらの小さな時計ね。……あ、札に日付も残っているわ」


 帳面の字は小さかったけれど、時計と一緒に確かめれば記録がつながっていく。誰かが品物を預け、修理が終わるのを待ち、受け取りに来られないまま年月が過ぎた。そのひとつひとつが、今も壁で時を刻んでいる。


 七つ目の時計を外したところで、私は手を止めた。


 小さな銀の裏蓋の端に、見覚えのある印が彫られている。三日月と、点が三つ。胸元に下げている星時計の裏蓋にも、同じ印があった。


 私は脚立を一段降り、窓際へ時計を運んだ。光にかざして確かめても、印の形は変わらない。線の太さまでよく似ている。この印を初めて見たのは、カイさんと出会った夜の使用人通路だった。あのとき、彼は急に真剣な顔になった。


「カイさん。この時計、私の星時計と同じ印が入っています」


 作業台では、カイさんが割れた星図の蓋を磨いていた。銀のひびの縁を細い布で拭く手を止め、こちらへ顔を向ける。


「古いのは、だいたいそうだ。ほかのも見てみろ」


 言われて、私は先ほど外した時計の裏を順に確かめた。古い帳面の、あの右へ傾いた丁寧な字で記録されている品物には、どれも三日月と三つの点が彫られている。細工の細かさは違うけれど、印の形は同じだった。


「この印は、どなたのものなのでしょうか」


「師匠のだよ。師匠は、ルゥって呼ばれてた。この工房は、もともと師匠の店だ」


 初めて聞く名前だった。私は手に持った時計を布の上に置き、作業台のほうへ目を向ける。カイさんはやすりを置いて、壁いっぱいの時計を一度だけ見渡した。


「古いやつは師匠が直したものだ。直したあと、客が取りに来る前に師匠が死んだ。それきり取りに来なくなった分が、ここに残ってる」


「そうだったのですね。では、私の星時計も、そのルゥさんが作られたものなのでしょうか」


「ああ。この印を打てるのは、師匠だけだ。あんたの時計も、師匠の仕事で間違いない」


 私は胸元の星時計に手を添えた。十年間ずっと持っていた時計なのに、作った人の名前を今日初めて知った。ルゥという人は、母がどこで何を頼んでいたのか、知っていたのだろうか。


 一昨日、屋敷でハロルドが口にした言葉が浮かんだ。母も昔、よく東の方へお忍びで出かけていたという。もしかしたら、この坂を上って、青い扉を訪ねたことがあったのかもしれない。


 母がこんな工房で職人と話している姿は、どうしてもうまく思い浮かばなかった。私の知る母は、屋敷で本を読んだり、髪を梳かしたりしてくれた人だ。けれど、この時計を誰かに頼んで作ってもらったのなら、母にも私の知らない時間があったことになる。


「では、この帳面の最初のほうにある字も、ルゥさんのものでしょうか。とても丁寧に書かれていますね」


「師匠の字だ。俺は、あんなふうには書けない。……あんた、そっちは読めるんだな」


「はい。細かい字ですが、記録はきちんと残っています。できるところから整理してみますね」


 カイさんは小さく頷いて、また蓋を磨き始めた。やすりの音が静かに戻ってくる。私はもう少し師匠のことを尋ねたかったけれど、その横顔を見ていると、今は聞かないほうがいい気がした。


 時計を元の場所へ戻し、印をつけた行をもう一度確かめる。古い帳面の文字と、壁の時計の印を見比べれば、まだ調べられることはたくさんありそうだった。


◇


「親方ー! 頼まれてたゼンマイ、持ってきたぜ!」


 青い扉が勢いよく開き、外の風が机の紙を揺らした。飛び込んできたのは、十歳くらいの男の子だった。袖の短すぎる上着を着て、片手には紐でくくった小さな紙包みを持っている。急いで坂を上ってきたのか、頬が赤くなっていた。


「ピップ、扉は静かに開けろって、何度言えば分かるんだ」


「へへ、悪い悪い。部品屋のおっちゃんが、早く持ってけって言うからさ。……あれ、なんか女の人がいる」


 ピップと呼ばれた男の子は、私とミアを見比べて目を丸くした。ミアが椅子から立つと、今度は私の後ろへ回り込み、帳面の端から顔だけをのぞかせる。


「姉ちゃんたち、誰? 親方のお客?」


「お嬢様に向かって『姉ちゃん』とは何ですか。まずは、きちんとご挨拶なさい」


 ミアがたしなめると、ピップはますます私の背中へ隠れた。私は笑いそうになるのをこらえ、椅子を少し引いて、彼にも見えるよう帳面を開いた。


「リナ・エルフォードです。今日から、こちらの帳場を預かることになりました。お名前はピップさんでよろしいかしら」


「うん、ピップ! ちょうばって何するの? お金を数える人?」


「そうね。お金だけでなく、お預かりした品物や、お渡しする日も記録するの。ピップさんが持ってきてくださった部品も、あとで書いておきたいわ」


「へえ。じゃあ、親方より姉ちゃんに渡したほうが早いな!」


「俺にも渡せ。使うのは俺だぞ」


 カイさんが作業台から手を伸ばすと、ピップは笑って紙包みを差し出した。中のゼンマイを確かめたカイさんは、銅貨を何枚かと、昨日ネルの家から受け取った丸パンの残りを渡す。ピップは器用に受け止め、その場でパンをかじり始めた。


 カイさんによれば、ピップはこの通りで使い走りをしている子で、部品屋への使いや荷運びを引き受けているらしい。身寄りはなく、駄賃と昼食をもらいながら暮らしているという。カイさんは特別なことでもないように話し、ピップもパンを頬張りながら頷いていた。


 私は新しい帳面に、受け取った部品の名前を書き留めた。依頼された修理とどう結びつくのかは、まだ分からない。あとでカイさんに聞くことにして、ひとまず日付だけ添えておく。


「ピップさん、また何かお届けくださったときには、私にも教えてくださいね。カイさんがお休みでも、記録しておけますので」


「分かった、姉ちゃん。親方、明日からも寝てていいってさ!」


「そんなことは言っておりません」


 私とカイさんの声が重なり、ピップが声を上げて笑った。ミアも口元を押さえている。工房の時計の音は相変わらずばらばらだったけれど、今はその中に、子どもの明るい声が混じっていた。


 ピップがふと思い出したように、窓の外を指さした。


「あ、そうだ。表にすげえ馬車が来てるぜ。坂の下に止まって、こっち見てるんだ」


 鉛筆を持つ手が止まった。一昨日、この坂の下で私を待っていた黒塗りの馬車を思い出す。グランツ侯爵家の銀の鷲。執事長が帰り際に言い残した「次はギルドを通して」という言葉も、まだ忘れていない。


 私は椅子から立ち、窓辺へ向かった。ミアもすぐ横に来て、外を確かめる。坂の下には確かに立派な馬車が止まっていたけれど、その車体は淡い緑色だった。扉には紋章が描かれているものの、銀の鷲ではない。


 胸元を押さえていた手を、そっと下ろした。窓の外では、春の風が道端の若草を揺らしている。御者が馬車の扉を開けると、年配の婦人が日傘を差し、ゆっくりと石畳へ降り立った。

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