第4話 鳴らないオルゴール
翌日の昼過ぎ、時計通りの坂を上る私の隣には、侍女のミアがいた。
昨日、侯爵家の執事長と坂の上で鉢合わせたことをハロルドに話したところ、今日からは必ず付き添いをつけるようにと言われてしまった。心配をかけたのだから仕方がないけれど、昨夜のことを思い出すたび、あの黒い馬車がまた現れるのではないかと気になってしまう。
坂の下で辻馬車を降りると、春の風が外套の裾を揺らした。昨日より日差しが暖かく、石畳の継ぎ目に生えた草も、陽の当たるところだけ鮮やかな緑に見える。軒先では真鍮の部品が並べられ、開け放たれた工房の窓から、金槌を打つ乾いた音が響いていた。
ミアは十六歳で、もともとは下町の生まれだと聞いている。細い路地から荷車が出てきても、慌てることなく脇によけて、私よりもずっと軽い足取りで坂を上っていく。私のほうはドレスの裾を持ち上げ、足元を確かめるのに忙しかった。
「お嬢様、本当にこんな坂の上に、腕のいい職人がいるんですか? 昨日は侯爵家の方まで来られたのでしょう。ほかのお店を探したほうが安心ではありませんか」
「心配してくれてありがとう。でも、母の時計を見て、直し方を知っていると言ったのはあの人だけなの。それに、昨日もきちんと調べてくださったわ」
ミアは納得しきれない顔をしていたけれど、私の歩幅に合わせて少し速度を落とした。通りの向こうでは、パン屋の窓から白い湯気が上がっている。焼きたての匂いが風に混じると、ミアはそちらをちらりと見た。
「職人さんというのは、もっと朝早くから働いているものだと思っていました」
「カイさんは、昼過ぎまで寝ているそうよ。昨日も鐘が鳴ってすぐ伺ったら、起こしてしまったの」
「……お嬢様、その方、本当に大丈夫なんでしょうか」
昨日、時計を調べていたときのカイさんの手つきは、眠そうな顔からは想像できないほど確かだった。そう説明しようとしたところで、くすんだ青い扉が見えてきたので、私は代わりにそちらを指さした。
扉の横には、昨日と同じ『修理承ります 午後から』の真鍮の札がある。そのすぐ上に、昨日はなかった紙が一枚、鋲で留められていた。角ばった字で、大きく三行書いてある。
『開いてる。勝手に入れ。起こすな』
私はその紙をもう一度読んだ。早く来ても開けないと言っていたはずなのに、今日は鍵をかけずに待っていてくれたらしい。それならありがたいけれど、最後の一行からは、あまり歓迎されていない気もする。
「お嬢様、あの職人さんは、ちょっと変わっていますね」
「ええ。まだ二日しかお会いしていないけれど、私もそう思うわ」
ミアが心配そうに扉を見つめている。勝手に入っていいものか迷ったが、ここで叩けば、せっかくの注意書きに逆らって起こしてしまうかもしれない。私はそっと取っ手に手をかけ、音を立てないよう扉を押した。
工房の中には、昨日と同じ油と金属の匂いが漂っていた。開いた扉から細い光が床へ延び、窓際の作業台では、銀色の工具が一列に並んでいる。壁いっぱいに掛かった時計は相変わらず違う時刻を指していて、こち、こち、と重なり合う音が部屋の奥まで満ちていた。
その奥の長椅子で、カイさんが毛布をかぶって眠っている。黒髪が少しだけ毛布からはみ出していて、呼吸に合わせて布の端が上下していた。こんなに時計が鳴っていても眠れるのだから、よほど慣れているのだろう。
ミアは長椅子を見て足を止めた。何か言いかけたようだったけれど、私が口元に指を当てると、声を出さずに頷いてくれた。
起こすなと書いてあった以上、約束は守らなければならない。私たちは入口近くの小さな机へ移動し、並んで椅子に腰を下ろした。机の上には埃をかぶった古い帳面が一冊と、先の丸くなった鉛筆が一本、置きっぱなしになっていた。
何気なく鉛筆を手に取ってみる。屋敷なら、こんなに先が丸くなる前に削ってしまうところだ。けれど、ここは私の仕事場ではないので、勝手に触るのもよくないと思い直し、元の場所に戻した。
工房の中で待つ時間は、思ったより長く感じなかった。時計の音を聞いているうちに、あちらの鐘は低く、こちらは鈴のように高いと分かってくる。ミアが小さな時計を指さして、何の仕掛けだろうと目で尋ねたけれど、私にも分からず、首を横に振った。
◇
しばらくすると、青い扉が小さく三回叩かれた。
カイさんはまだ眠っている。ミアと顔を見合わせたあと、私は入口の机から立ち上がった。工房の人でもない私が開けてよいのか少し迷ったけれど、ここで待っていても、奥の長椅子から返事は聞こえてきそうになかった。
取っ手を回して扉を開けると、お花の髪飾りをしている小さな女の子が立っていた。昨日、坂の下のパン屋からカイさんに手を振っていた子だ。粉のついた前掛けを着けたまま、両腕で木の箱を大事そうに抱えている。
「あ、昨日のおねえさんだ。カイ兄、いる?」
「こんにちは。カイさんはいらっしゃるけれど、今はお休みになっているの。よかったら、先にお話を聞かせてもらえるかしら」
女の子は私の後ろをのぞき、長椅子の毛布を見つけたようだった。少し迷ってから、小さく頷く。その拍子に、髪に挿した花がふるりと揺れた。
私は扉を広く開けて女の子を招き入れ、机の前の椅子へ案内した。足が床に届かないので、彼女は箱を膝の上に乗せたまま、椅子の縁にちょこんと座っている。ミアが隣の椅子を寄せると、女の子はほっとしたように箱を机へ置いた。
「お名前を教えてもらえる? それから、その箱をどうしたいのか、おねえさんに聞かせてね」
「私の名前はネル。坂の下のパン屋に住んでいるよ。えっとね、これはね、おばあちゃんのオルゴールなの」
私は机の帳面を開き、余白のある頁を探した。屋敷では出入りの商人から注文を聞いて、品物と数と値段を書き留めてきた。修理の受付は初めてだけれど、話を聞いて記録することなら、少しは役に立てるかもしれない。
「では、ネルさん。いつ頃から鳴らなくなったのか、教えてもらえるかしら」
「おばあちゃんが、冬に死んじゃってから。前はね、寝るときにいつも鳴らしてくれたんだよ。ねじを回すと音が出るのに、今は何にも鳴らないの」
ネルは箱の角を指でなぞりながら、蓋を開けた。内側には小さな金属の筒と、櫛のような薄い板が並んでいる。私が見ている前で、慣れた手つきでねじを回してみせたけれど、筒は少しも動かなかった。
ネルはもう一度だけねじに触れ、それからそっと蓋を戻した。自分の扱い方が悪かったのではないかと気にしているようで、箱を抱えてきたときよりも、肩が小さく見えた。
私は帳面の上に鉛筆を置きかけて、少しのあいだ手を止めた。
「……そう。ずっと大切にしてきた物なのね」
「うん。おばあちゃんの歌が聞きたいの。カイ兄なら直せるって、みんな言ってるもん」
ネルの声は、最後のほうで少しだけ明るくなった。私は頷いて、帳面に名前と品物、故障した時期を書き込んだ。先の丸い鉛筆では細かい字が書きにくいけれど、読めなくなるほどではない。
「お代は、カイさんに確認してからでもいいかしら。何を直すか分からないうちは、金額が決められないから」
「お代なら、持ってきたよ」
ネルは前掛けのポケットを探り、小さな紙包みを取り出した。机に置いて開くと、中から丸パンが一つ現れる。表面はこんがり焼けていて、まだほんのり温かかった。
「お父さんと一緒に焼いたの。カイ兄、これ好きだから」
私は丸パンと帳面を見比べた。屋敷でつけている帳簿には、パン一つを修理代として受け取ったことなど一度もない。どの欄に書くべきか迷ったけれど、前払いという決まりなら、ここへ記録するのが正しそうだ。
ちょうどそのとき、長椅子のほうで毛布の擦れる音がした。
「……あんた、何してる」
振り返ると、カイさんが長椅子の上で体を起こしていた。髪は昨日よりさらに大きくはね、毛布が片方の肩からずり落ちている。こちらを見た目には、まだ眠気が残っていた。
ミアがすっと立ち上がり、私とカイさんのあいだへ半歩入った。
「お嬢様の前ですので、せめて上着くらい着ていただけませんか」
「……誰だ、こいつ」
「侍女のミアです。昨日の件がありましたので、ハロルドの言いつけで同行しております」
カイさんはミアをしばらく眺め、それから面倒そうに毛布を肩へ引き上げた。ミアはそれを見て少しだけ眉を寄せている。二人には、もう少し時間が必要そうだった。
「おはようございます、カイさん。扉に『勝手に入れ』とありましたので、お邪魔しております。それから、お客様がお見えになったので、お休みのあいだにお話を伺っておきました」
私は帳面を手に立ち上がり、書いた頁を開いて見せた。カイさんは毛布を片手で押さえながら、字を一行ずつ追っている。
「依頼人はネルさんで、お祖母様のオルゴールが冬から鳴らなくなったそうです。お代として、丸パンを一つお預かりしています。まだ修理できるかどうかは分かりませんので、ひとまず受付だけいたしました」
「ふうん……。あんた、勝手に仕事を増やしてくれるな」
「申し訳ありません。起こしてからご相談したほうがよかったでしょうか」
「いや。起こされるよりはましだ」
カイさんは長椅子から降りると、ネルのほうへ歩いていった。さっきまで面倒そうだった顔が少しやわらぎ、女の子の頭を軽く撫でる。
「ネル、よく持ってきたな。パンでいい。うちは前払いだからな」
「うん! お父さんと焼いたんだよ。食べてね」
「ああ。あとで食う」
ネルが嬉しそうに笑うのを見て、私も少し安心した。カイさんは丸パンを作業台の端へ移し、オルゴールを両手で持ち上げた。寝起きで足元もおぼつかなさそうだったのに、箱に触れると、急に動きが落ち着いた。
まず蓋を開き、筒を指でそっと動かす。次に箱を裏返し、底板を留める小さなねじを一本ずつ外していった。工具が金具に触れるたび、かすかな音がする。ネルは椅子を作業台へ近づけてもらい、身を乗り出してその手元を見つめていた。
「ゼンマイの留め具が外れてるな。これじゃ、いくら巻いても筒が回らない。それから、底の刻石も少し弱ってる。石を替えるほどじゃないから、手入れすればまだ使える」
刻石というのは、時計や仕掛けの拍子を刻むための魔石だ。オルゴールでは、音を鳴らす筒が同じ速さで回るように働いているらしい。小さな石が一つ弱るだけで、あんなに大切にしていた音が止まってしまうのだと思うと、不思議な気がした。
カイさんは外れていた留め具を元の位置へ戻し、細い工具で一度確かめた。それから小瓶の蓋を開けて、白っぽい粉を布の先へ少し取り、刻石の表面を丁寧に磨いていく。火傷の跡が残る指は大きく見えるのに、石の縁へ触れる動きは、驚くほど細かかった。
最後に底板を戻してねじを締めると、箱をネルの前へ置いた。
「よし。ねじを巻いてみろ。ゆっくりでいいぞ」
ネルは両手で箱を押さえ、そっとねじを回した。先ほどは動かなかった筒が、少しずつ回り始める。細い金属の歯が順番に弾かれて、澄んだ音が工房に流れ出した。
聞こえてきたのは、昔から伝わる子守唄だった。穏やかな調べが少しずつつながり、壁の時計が刻むばらばらの音のあいだを通っていく。窓から入る春の光の中で、オルゴールの金属の筒だけが、きらきらと小さく光っていた。
「わぁ、すごい! オルゴールが動いたよ、カイ兄ありがとう!」
ネルは椅子から身を乗り出し、箱をのぞきこんだ。嬉しそうにはしゃぐ声で、私もつられて笑ってしまう。ミアは作業台に近づいたまま、歌の終わりを待っていた。
私は子守唄に耳を傾けた。眠る前の静かな部屋を思い出すような音だった。もし、形見を直してもらえたら、私もこんなふうに嬉しくなるのだろうか。胸元の星時計に、そっと手を重ねる。
「音が戻ってよかったですね、ネルさん。これなら、またお家で聴けるわ」
「うん! 今日はお父さんにも聴かせるの。おばあちゃんも、きっと喜ぶよ」
カイさんは蓋を閉じる前に、筒の回り方をもう一度確かめた。それからネルの小さな手に箱を戻し、いつもより少し低い声で言う。
「これからも、ちゃんと大事にするんだぞ。変な音がしたら、無理に回さないで持ってこい」
「うん、約束する!」
ネルはオルゴールを抱え、何度も頷いた。私は帳面を開き、修理の箇所と、受け取ったお代を追記した。丸パン一つ。書いてみると不思議だったけれど、ネルの笑顔を見れば、きちんと受け取ったお代なのだと思えた。
◇
オルゴールの修理が終わると、カイさんはこちらへ手を出した。
「さて、あんたの番だ。時計を出してくれ」
私はハンカチに包んだ星時計を取り出し、作業台の布の上に置いた。カイさんは昨日と同じように拡大鏡をはめて、星図の蓋を丁寧に外す。窓際の明るい場所へ移動すると、細いやすりを選び、ひびの縁を少しずつ整え始めた。
しゃり、しゃり、と小さな音が続く。削られた銀の粉が、布の上に細く積もっていった。私は邪魔にならないよう作業台の端に立ち、手元を見ていたけれど、昨日のように質問を重ねるのはやめておいた。
今日直しているのは、割れた蓋の形だ。失われた三つの石にはまだ触れないらしい。十日で終わると言われた修理も、こうして一つずつ進めるのだと思えば、私が焦っても仕方がなかった。
やすりを動かしたまま、カイさんが口を開いた。
「さっきの帳面、続けて書いとけ。ネルみたいに、俺が寝てるあいだに客が来ることもあるからな」
「よろしいんですか? 今日は勝手に書いてしまいましたが、こちらのお店の決まりもあると思いますので」
「前払い以外、大した決まりはない。客の話を聞くのが苦手なんだ。その机、空いてるから使っていい」
入口の小さな机を見る。埃をかぶった帳面と先の丸い鉛筆が、昼の光を受けていた。ネルの依頼を書いた頁は、閉じた帳面のあいだにそのまま残っている。
カイさんが眠っているあいだにお客様が来れば、私が話を聞ける。修理の詳しいことは分からなくても、名前や品物、受け取ったお代なら、きちんと記録できるはずだ。せっかく任された仕事なのだから、次はもっと見やすく書こうと思った。
「ありがとうございます。では、明日からは私の帳面も持ってまいります。こちらの記録と照らし合わせながら、分かりやすく整理してもよろしいでしょうか」
「……好きにしろ。ただし、今は静かにしててくれ。ひびの端を削りすぎると、蓋が合わなくなる」
「はい。お邪魔をしないようにいたします」
私は頷き、入口の机へ戻った。ミアが椅子を少し引いてくれたので、座って帳面を開く。さっき書いたネルの名前の横に、受け渡しの日付を小さく書き足した。鉛筆の先が丸いせいで文字が太くなったけれど、それも明日から直せばいい。
そのあいだ、ネルはオルゴールを大事そうに抱え、帰り支度をしていた。私は帳面を閉じ、見送ろうと立ち上がったところで、壁の時計に下がっている木の札が目に留まった。
『ベルタ 坂下のパン屋』
昨日見たときには、時計が多すぎて気づかなかった。札には、古い字で名前と預かった場所が書かれている。坂下のパン屋なら、ネルの家のことだろうか。
「カイさん。あちらの時計の札ですが、もしかして、ネルさんのお祖母様のお名前ではありませんか」
カイさんはやすりを止め、私の指すほうを見た。しばらく札を眺めてから、拡大鏡を額に上げる。
「……ああ。ネルのばあさんだ。俺が来る前の、師匠の頃の客だよ。直してあったんだが、ずっと取りに来なかった」
「おばあちゃんの時計もあるの?」
ネルが顔を上げた。カイさんは脚立を運んできて、壁に掛かった時計を慎重に外した。掌に収まるほどの小さな時計で、木枠は長い年月を経て色が濃くなっている。彼が裏側を確かめてからねじを少し回すと、静かな針の音が聞こえた。
「ほら。これも持って帰れ。それもちゃんと直しているからな」
ネルは両腕にオルゴールと時計を抱え、びっくりしたようにカイさんを見上げた。少し考えてから、時計の木枠を指でそっと撫でる。
「おばあちゃんのも、ここにいたんだ。……お父さんに見せるね」
「ああ。落とすなよ。重かったら、先にパン屋まで持ってってやる」
「大丈夫。ちゃんと持てるよ!」
ネルは胸を張ったけれど、二つの箱を抱えるのは少し大変そうだった。ミアが扉を開けてやると、ネルはオルゴールを抱え直し、慎重に敷居をまたいだ。
私も扉の前まで見送りに出る。午後の陽射しは坂の向こうへ傾き始め、石畳には工房の窓枠の影が長く延びていた。パン屋の方角から漂ってくる焼きたての匂いに、ネルは嬉しそうに顔を上げる。
「リナおねえさん、ありがとう。カイ兄も、またね!」
「どういたしまして。足元に気をつけて帰ってね」
ネルは数歩進んだところで、ふいに振り返った。花の髪飾りが春の風に揺れ、小さな目が私の胸元へ向く。
「リナおねえさんの時計も、鳴るといいね。ばいばーい!」
私は手を振り返し、坂を下りていく小さな背中を見送った。腕の中の木の箱が、歩くたびにほんの少し揺れている。角を曲がる前にネルがもう一度こちらを見たので、私ももう一度だけ手を上げた。
扉を閉めようとしたところで、星時計が胸元に軽く当たった。私は外套の上からそっと指を添える。
布の下で、四つ目の石が一度だけ、小さく灯ったような気がした。




