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伯爵令嬢の星時計~婚約破棄されても泣かなかったけれど、なぜか無愛想な職人にだけ甘いわ~  作者: 森凛
第一部 割れた星時計

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2/10

第2話 時計通りの青い扉

 星時計は、枕元で一晩中黙っていた。


 夜会から戻ってドレスを脱いだあとも、私はなかなか寝台へ入る気になれなかった。薄い夜着に着替えてから、何度もハンカチをほどいては、銀の蓋を開く。七つ並んだ魔石のうち、光を失った三つは黒いままで、残された光は四つ目から先へ進まない。


 窓の外では、春の夜風が枝を揺らしていた。ときどき硝子に細い影が落ち、寝台の横の小卓を横切っていく。以前なら、その影が動くあいだにも星時計の光は次の石へ移っていたはずなのに、今夜はいくら待っても変わらなかった。


 割れた蓋に指を添えると、ひびの縁が爪に引っかかった。昨夜の大理石の床と、星時計が跳ねたときの音が浮かんできて、私は慌てて指を離した。痛かったのは首の後ろだけのはずなのに、こうして時計を見ると、胸の奥まで妙な痛みが残っている。


 母の形見を壊されたのだから、悲しくて当然だ。けれど、泣こうと思っても涙は出なかった。今は修理できる職人が見つかったことを考えよう。明日、昼過ぎに青い扉を訪ねればいい。そう決めて蓋を閉じたのに、少し経つとまた開いてしまう。


 結局、眠れたのは明け方の一時間ほどだった。


◇


 朝食の席に着く頃には、東向きの窓から入る日差しが、卓上の銀器を明るく照らしていた。紅茶に手を伸ばしたところで、執事が銀盆を持って現れる。


「お嬢様。グランツ侯爵家から、書状が届いております」


 私は手を止めた。昨日の騒ぎから、まだ一晩しか経っていない。父は春から領地に行ったきりなので、王都の屋敷に届く手紙は、私が先に目を通すことになっている。


 銀盆に載せられていた封筒は、上質な厚い紙でできていた。封蝋には翼を広げた銀の鷲が押されている。昨夜、大広間に掲げられていた旗と同じ紋だった。こんなに早く便りが来るとは思っていなかったけれど、婚約を破棄した家なのだから、何か用があるのだろう。


 封を開けて読み始めて、すぐ止まった。角張った、几帳面な筆跡で、ユリウス様の字ではない。下の署名を確かめると、グランツ侯爵ご本人の名が記されていた。


 『昨夜の愚息の非礼を詫びる。婚約の品たる星時計を、当家の職人にて修理の上、お預かりしたい。本日中に使いの者をやる』


 私は一度読み終えてから、最初の行に戻った。壊した側が修理を申し出てくれるのなら、それ自体は親切な話だ。ところが、何度確かめても、修理した時計を私へ返すとは書いていない。


 預かる、というのは、いつまでなのだろう。預かり証も、返却の期日もない。


 しかも、また「婚約の品」だ。


 母が亡くなる前に、私の手に握らせてくれたものだ。母の形見を婚約の品と呼ばれるたび、あのときの小さな手まで誰かに取り上げられるようで、嫌な気持ちになる。ユリウス様だけでなく、侯爵閣下までそうお考えなのだろうか。


 私は書状を丁寧に畳み、席を立った。自室の書き物机の引き出しを開け、普段使わない書類のいちばん奥へ収める。捨ててしまいたいくらい気分の悪い手紙だけれど、侯爵本人の署名がある。何かあったとき、役には立つかもしれない。


 戻ってくると、執事は紅茶を淹れ直して待っていた。湯気の向こうで、いつものように静かに頭を下げる。


「お返事はいかがなさいますか。使いの方がいらっしゃる前に、お出しになりますか」


「いいえ、書きません。お使いの方が見えたら、私は外出していると伝えてください。戻る時刻も、まだ分からないので」


「かしこまりました。ちなみに、どちらへ?」


「時計を直しに行ってまいります」


 執事は少しだけ目を細めたけれど、それ以上は尋ねなかった。行き先を知らなければ、侯爵家の使いが来ても答えようがない。こんな形で執事の仕事を増やすのは申し訳ないが、時計を取り上げられるよりはずっといい。


 紅茶を飲み終えると、私は出かける支度をした。昨夜のドレスは衣装箱にしまわれていて、鏡台の上には、片方だけになった真珠の耳飾りの箱が残っていた。少し迷ってから、残りの一つを取り出して財布に入れる。


 前金を片方だけ支払っているのは、どうにも落ち着かない。帳簿に書くなら、一組の耳飾りの半分を先に渡し、残額は後払いということになる。あの職人さんは前払いだと言っていたので、これでは最初から約束違反だ。


 外套を羽織り、星時計をハンカチに包み直した。壊れた鎖は胸元に収め、上から釦を留める。昨夜あれだけ人目にさらされたのだから、今日はなるべく目立たずに出かけたい。


◇


 時計通りは、王都の東の外れにあった。


 貴族街の広い道を抜けると、馬車の窓から見える建物が少しずつ変わっていった。手入れされた庭や高い門が減り、かわりに、店先まで道具を並べた家や、低い屋根の建物が続いている。石畳を行く荷車の車輪がよく響き、窓を開けると、春の風に混じって焼きたてのパンの匂いが入ってきた。


 辻馬車は坂の下で止まった。御者に運賃を払い、降りたところで昼の鐘が鳴り終わる。私は頭巾を深くかぶり直し、昨夜教わった青い扉を探して坂を上り始めた。


 通りの両側には、小さな工房がぎっしり並んでいる。開いた窓の向こうで振り子が揺れ、別の店先では、真鍮の部品が陽を受けて光っていた。金属を打つ音が近くで鳴ったかと思うと、少し離れたところからは時計の鐘が聞こえてくる。王都にはこんなにたくさんの時計を直す人がいるのだと、私は初めて知った。


 坂を上りかけたところで、パン屋の前にいた小さな女の子が私を見上げた。母親の袖を引いて何か囁いている。頭巾で顔は隠せても、外套の裾までは隠れない。普段なら気にも留めない生地の良さが、ここではかえって目立つらしい。


 私は裾を少し持ち上げ、石畳の継ぎ目を確かめながら歩いた。慣れない坂道で転んだら、また時計を落としてしまうかもしれない。修理に行く途中で傷を増やしたなどと説明するのは、さすがに避けたかった。


 坂の途中で、くすんだ青い扉が見つかった。塗装はところどころ剥げ、下の木目がのぞいている。立派な看板はなく、扉の横に小さな真鍮の札が打ちつけられていた。


『修理承ります 午後から』


 私は札を読み、念のため空を見上げた。鐘はもう鳴ったし、昼過ぎで間違いないはずだ。


 扉を三回叩いたが、返事はなかった。少し待って、もう三回叩く。すると中で何かが倒れる音がして、足音が近づいた。扉が細く開き、隙間から、昨夜よりさらに眠そうな目がこちらをのぞいた。


「……誰だ」


 カイさんだった。黒髪は右側だけ大きくはね、作業着のかわりに着ているシャツは、襟が片方だけ立っている。昨日の夜も眠そうだったので、これがいつもの顔なのかもしれない。


「リナ・エルフォードです。昨日、昼過ぎに伺うとお約束いたしました。お休みのところでしたか」


「……昼過ぎってのは、もう少し過ぎてからだと思ったんだが」


「昼の鐘は、先ほど鳴り終わりました」


 カイさんは扉の横の札に目をやり、額を押さえて長いため息をついた。


「分かった。俺が書いたんだったな。入れよ。本当に鐘が鳴ってすぐ来る貴族なんて、初めて見た」


 扉が大きく開いたので、私は頭巾を外して中へ入った。カイさんはまだ目が覚めきらないらしく、私が通るあいだも何度か瞬きをしている。話しかけるのは、もう少し待ったほうがよさそうだった。


 工房には、油と金属、それから乾いた木の匂いがした。窓から差し込む午後の光の中に細かな埃が浮いていて、作業台には小刀や小槌、細い針のような工具が所狭しと並んでいる。刃先の形が少しずつ違っていて、昨夜あの暗い通路で見た手仕事の続きを、今は明るい場所で眺めているようだった。


 何より目を引いたのは、壁を埋め尽くす時計たちだ。大きな柱時計の隣に小さな掛け時計があり、その下には懐中時計がいくつも吊るされている。振り子の動く速さも、針の指す時刻もばらばらなのに、どれも休むことなく動いていた。


 こち、こち、と近くで刻む音に、遠くから少し低い音が重なる。広間の楽団のように拍子は揃っていないけれど、不思議とうるさくはなかった。


「こんなにたくさん、修理を待っているのですか」


「いや、もう直したやつだ。取りに来ない客が多くてな。置いといたら、壁がいっぱいになった」


「お代は、どうなさっているのでしょう」


「前払いだよ。取りに来るまで待ってたら、俺が食っていけない。あんたにも昨日言っただろ」


 なるほど。それなら帳簿の上では、受け取ったお代と引き渡していない品が別々に残っていることになる。どの時計を誰が預けたのか、よく分かるものだと感心したけれど、今は自分の時計を先に見てもらわなければならない。


 カイさんは作業台の端へ工具を寄せ、横の椅子を顎で示した。私は腰を下ろして、手提げからハンカチの包みを出す。


「それでは、こちらをお願いいたします。昨夜から、光は四つ目で止まったままです」


 カイさんは包みを受け取ると、窓際に立って拡大鏡をはめた。銀の裏蓋を確かめ、ひびの入った星図の蓋を光にかざし、それから、細い工具を使って文字盤の縁を調べていく。私が見ていることも忘れてしまったように、手だけが静かに動いていた。


 壁の時計が、一つ、二つと時を告げた。少し間を置いて三つ目が鳴っても、カイさんは顔を上げない。私は膝の上で手袋の指先を重ね、工具の先をじっと追っていた。


「昨日、この時計は錠前だとおっしゃいました。どういうことなのか、もう少し詳しく伺ってもよろしいでしょうか」


 カイさんはようやく拡大鏡を外し、星時計を布の上に置いた。細い工具で文字盤の石を指しながら、こちらにも見えるように少し向きを変えてくれる。


「この七つは、ただ時を刻むための石じゃない。封じ石っていう、錠前の仕掛けを動かすための石だ。普通の時計なら針が動くが、こいつは石の光が順番に移るだろ」


「はい。母から受け取ってから、ずっとそうでした」


「中の仕掛けが、石を一つずつ確かめてるんだよ。開けられる相手が来るのを待ってる。だから、光が動いていても、鍵が合わなきゃ開かない」


 私は文字盤をのぞきこんだ。小さな石が七つ、静かに並んでいる。十年間、あの光が時を教えてくれているのだと思っていたけれど、本当は誰かを待っていたのだろうか。


 母は、困ったときに開けなさいと言った。子どもの頃には指先で蓋を押したり、鎖を引いたりしたこともある。でも、星図の下の仕掛けは少しも動かなかった。中に何があるのか、今になっても分からない。


「困ったときなら、昨夜からずっと困っていますが……」


 小声でこぼしてみたけれど、カイさんは聞こえなかったように時計を傾けていた。真剣に作業しているのだから、邪魔をしてはいけない。私はそれ以上言わず、銀の蓋の奥に目を向ける。


 割れた星図の蓋の内側には、もう一枚、銀の板があった。表面は滑らかで、鍵穴らしいものはどこにも見当たらない。細い光が板の端をなぞるように反射して、すぐに消えた。


「鍵は、どこにあるのでしょうか」


「それは、知らん。師匠もそこまでは教えてくれなかった」


 少し困ったような返事だった。けれどカイさんは時計を返そうとはせず、黒くなった三つの石に工具の先を近づけた。触れるか触れないかというところで手を止め、角度を変えて確かめている。


「まず蓋の割れたところを直す。それから光を失った石を三つ、作り直して入れ替える。どれも同じ形に見えるだろうが、削り方が違う。これと同じ削り方ができるのは……」


 言葉が、そこで途切れた。


 カイさんは拡大鏡をかけ直し、石をもう一度のぞいた。眠そうな目が細くなり、工具を持つ指が、しばらく動かなかった。私には何がそんなに難しいのか分からないけれど、昨夜あっさりと直せると言っていたときとは、少し顔が違って見えた。


「……十日かかる」


 十日。思っていたより時間が必要らしい。けれど、母の時計が直るなら待てると思った。十年持っていた時計なのだから、あと十日くらいは大切に運べばいい。


 ただ、先ほど屋敷で読んだ書状を思い出した。本日中に使いの者をやると書いてある。十日間ずっとここへ置いたままにすれば、侯爵家の人が来たとき、私の手元には何も残らない。


「その間、時計はここに置いていけ。毎日預かったり返したりしてたら、作業が進まない」


「申し訳ありませんが、それはできません」


 思わず早く答えてしまい、カイさんが眉を上げた。私は一度姿勢を正し、今朝の書状について順番に話した。侯爵本人の署名があること、当家の職人で修理して預かると書かれていたこと、返すとは一行も書かれていないこと。


「……昨日の坊ちゃんの家か」


「その坊ちゃんの父親のほうです。カイさんを疑っているわけではありませんが、この時計を、私の目の届かないところへ預けるわけにはいかないんです」


 そう言ってから、私は時計の銀の蓋を見た。まだひびが入ったままだ。誰かに触られたくない気持ちが、今朝より強くなっている。カイさんは私の顔と時計を交互に見て、面倒そうに息を吐いた。


「……で、どうする。毎日持ってきて、持って帰るつもりか」


「はい。明日から毎日伺います。私がいるあいだに作業をしていただければ、帰りには持ち帰れますので。ご面倒をおかけしますが、邪魔にならないようにいたします」


「冗談だろ。仕事場に客がいると気が散るんだよ。十日ずっと見られてたら、余計に時間がかかる」


「邪魔しないように、黙って座っています」


「あんたが黙っても、こっちは気になるんだよ」


 それは、確かにそうかもしれない。私だって、帳簿をつける手元を十日間ずっと見られていたら落ち着かないだろう。そこは考えが足りなかったけれど、星時計を預けることだけは、どうしてもできない。


 そこで財布を開け、持ってきた真珠の耳飾りを取り出した。作業台の布の端に置くと、小さな真珠が午後の光を受けて柔らかく光った。


「昨日お渡しした前金の残りです。お代が足りなければ、通うたびにお持ちします。立ち会いのご迷惑も、できる限りおかけしないようにしますので」


 カイさんは耳飾りを見てから、片手で髪をかき回した。何か言いかけてやめ、壁の時計へ目を向ける。そのあいだに私はそっと手を伸ばし、作業台の端に置かれた星時計を受け取ろうとした。


 指が、銀の鎖に触れた。


 文字盤の四つ目の石が、ふっと明るくなる。


 ごく細い光だった。瞬きをする間に消えてしまい、また元の静かな石に戻っている。私は驚いて手を止めた。昨夜から何度も開いて確かめたけれど、あんなふうに光るのは初めてだ。


 顔を上げると、カイさんも石を見つめていた。さっきまで眠そうだったのが嘘のような目で、鎖と私の指先を交互に見ている。何か確かめたいことがあるようだったけれど、私が尋ねるより先に、カイさんは顔をそむけた。


「……今の、見えましたか」


「なんでもない。石がまだ少し動いてるだけだ」


 そう言うと、星時計を私の手のひらに載せ、作業台の工具を片づけ始めた。私はもう一度石を見た。光の列は、やはり四つ目で止まったままだ。


「明日から昼過ぎに来い。早く来ても開けないからな。作業してるあいだは、その辺で静かにしてろよ」


「……立ち会っても、よろしいのですか」


「好きにしろ。毎回説明するのは面倒だからな」


 あれほど嫌がっていたのに、急に認めてもらえた。安心したのと同時に、理由が少し気になったけれど、作業台へ向かった背中からは、もう返事が戻ってきそうになかった。


 私は時計をハンカチで包み直し、胸元へ収めた。帰り支度をして椅子を戻すと、カイさんは拡大鏡をつけたまま、さっき使っていた細い工具を手に取っている。


「それでは、明日の昼過ぎにまた伺います。どうぞよろしくお願いいたします」


 返事のかわりに、工具が台に置かれる小さな音がした。


 青い扉を押し開けると、午後の光が坂の石畳を白く照らしていた。工房の中で聞こえていた時計の音は扉の向こうへ遠ざかり、かわりにパン屋のほうから人の声が聞こえてくる。


 坂を下りようとして、私は足を止めた。


 坂の下に、黒塗りの馬車が一台止まっている。四頭立ての大きな車体は、石畳に長い影を落としていた。扉に描かれているのは、翼を広げた銀の鷲。


 御者台の男が、まっすぐこちらを見上げていた。

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