第1話 婚約破棄の夜、形見が割れた
シャンデリアの魔導灯が、三度またたいた。
天井から降り注いでいた柔らかな光が、一瞬ずつ途切れる。そのたびに、磨き上げられた大理石の床に落ちた人々の影が揺れた。春の社交期が始まったばかりのグランツ侯爵家では、夜も更けたというのに、広間に集まった人々の熱気が少しも冷める気配を見せていない。
ちょうど楽団が最初の曲を終え、最後の弦の音が消えたところだった。拍手が起こりかけた、そのわずかな静けさを選んだように、私の婚約者が声を張った。
「リナ・エルフォード。君との婚約は、今夜限りで解消させてもらう」
二百人ほどの招待客が、いっせいにこちらを向いた。さっきまで楽しげに交わされていた談笑が途切れ、扇の陰で囁き合う声が広がっていく。老紳士にワイングラスを渡そうとしていた給仕は、銀盆を持ったまま固まっていた。
ユリウス様は、私から三歩離れたところに立っていた。明るい金髪をきれいに整え、胸を張って、いつものように人目を引く立ち方をしている。その左腕に、薄桃色のドレスをまとった令嬢がぴたりと寄り添っていた。
メイ男爵家のクラリス様だ。柔らかな色のドレスの裾を片手で押さえ、いかにも心細そうにユリウス様を見上げている。今夜、婚約者の私を差し置いて、ユリウス様が最初の曲を踊ったのも彼女だった。
最初は、何かの間違いかと思った。けれど私を見るユリウス様の顔には、驚きも迷いもない。どうやら私だけが、今夜ここで何が起きるのか知らされていなかったらしい。
「突然のお話で驚いております。理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「分かっているだろう? 君はクラリスに、ずいぶんひどいことをしたそうじゃないか。茶会で恥をかかせ、ドレスに紅茶をこぼし、階段でまで……。そんな振る舞いをする女性を、グランツ家に迎えるわけにはいかない」
「階段で、背中を押されたんです」
クラリス様が、震える声で言葉を継いだ。潤んだ目をユリウス様に向けると、彼は安心させるようにその手を取る。周囲からは同情するような声が聞こえたけれど、私は二人の手よりも、クラリス様のドレスの裾に視線が留まっていた。紅茶をこぼされたという話のわりに、今夜のドレスはずいぶんきれいだ。
そもそも私は、彼女と茶会で同じ卓についたことすらない。階段というのは王立学院の西階段だろうか。あそこを最後に下りたのは、半年前の卒業式の日だったはずだ。
言い返したいことなら、十も二十もある。いつ、どこで、誰が見ていたのか、一つずつ確かめたいところだけれど、今ここで尋ねても、きっと答えは出ない。二百人の前で言い争えば、その様子まで明日の噂になるだけだ。
私は手袋の指先をそろえ、ゆっくりと息を吸った。膝が震えていないことを確かめてから、ユリウス様をまっすぐ見る。
「承知いたしました。婚約破棄は、お受けします」
広間のざわめきが、一段大きくなった。誰かが小さく息をのむ。泣くと思われていたのだろう。ユリウス様まで拍子抜けしたように瞬きをして、それから取り繕うように顎を上げた。
「……ずいぶんあっさりしているね。まあいい。なら、婚約の品も返してもらおう」
その視線が私の胸元へ落ちたとき、嫌な予感がした。
銀の鎖の先には、手のひらほどの懐中時計が下がっている。丸い蓋には細かな星図が彫られ、文字盤には数字のかわりに小さな魔石が七つ並んでいた。母はこれを、星時計と呼んでいた。
「こちらは婚約の品ではございません。亡くなった母の形見ですので、お渡しすることはできません」
「同じことだよ。君の母上は、それを僕たちの婚約の印にすると約束した。ならば、グランツ家へ返すのが筋だろう?」
私は思わず胸元の鎖を押さえた。そんな約束は一度も聞いていない。それに母が亡くなったのは私が八つのときで、ユリウス様との婚約が決まったのは十二のときだ。
順番がおかしい。勘定で例えるなら、最初の一行から合っていない。
「申し訳ありませんが、母からそのような話は聞いておりません。私にとって大切な物ですので、お断りいたします」
「君は、またそうやって理屈ばかり……!」
ユリウス様の手が伸びてきた。私が一歩下がるより早く鎖をつかまれ、強く引かれる。首の後ろで留め金が弾け、小さな痛みが走った。
星時計は、ユリウス様の指をすり抜けた。
大理石の床に、硬い音が響く。一度跳ねた銀色の時計が、滑るように私のドレスの裾へ近づき、そこで止まった。
周囲の声が遠くなった。私は裾を押さえて膝をつき、床の上の時計を両手で拾い上げた。冷たい銀の感触はいつもと変わらないのに、星図の蓋には、今までなかった斜めのひびが走っている。
そっと蓋を開くと、七つの魔石のうち三つが光を失っていた。
母が「困ったときに開けなさい」と言って、私の手に握らせてくれた時計だった。あのときは小さかった私の手にも、今ではすっかり収まる。どうすれば開くのか分からないまま十年が過ぎたけれど、光だけは毎晩、変わらずに動いていた。
一つ目から二つ目へ、二つ目から三つ目へ。針のかわりに、石の光が順番に移っていく。それを見るのが、子どもの頃からの習慣だった。
けれど、今は四つ目で止まっている。
五つ目へ渡るはずの光を待っても、何も起こらなかった。私は時計を少し傾け、指で蓋の縁を確かめた。ひびに触れると爪の先が引っかかる。その小さな傷が、どうしようもなく嫌だった。
「……わざとじゃない。君が抵抗するからだろう」
頭の上から、ユリウス様の声が聞こえた。いつもの自信に満ちた調子ではなく、少し上ずっている。隣ではクラリス様が「ユリウス様は悪くありませんわ」と、彼の袖を引いていた。
私は顔を上げなかった。この時計を母から受け取った日のことを、もう少し思い出したかった。けれど、二百人の視線の中で床に膝をついたままでは、それも難しそうだ。
立ち上がり、星時計をハンカチで丁寧に包んだ。指がうまく動かず、布の端が一度すべってしまったので、もう一度包み直す。膝を曲げる前に、私はいつもより少し時間をかけて、口元に笑みを作った。
「今宵はお招きいただき、ありがとうございました」
礼儀作法の先生が褒めてくれた角度で軽く膝を曲げ、最大限の笑顔で会釈する。そして二百人ぶんの視線を背に、出口へ向かって歩き出した。
泣くのは後にする。今は、手が空いていない。
◇
大広間を出ると、客用の廊下ではなく、使用人用の細い通路に入った。正面玄関へ行けば、帰ろうとする客と鉢合わせてしまう。来るときに案内された道とは逆の方向へ進めば、裏から馬車寄せに回れるはずだ。
背後で重い扉が閉まり、楽団の音がくぐもって遠くなった。広間の熱気が届かない通路には、夜の冷たさが残っている。春とはいえ、薄い夜会服で歩くには少し肌寒く、私はハンカチを胸元へ引き寄せた。
そこで初めて、指が冷えきっていることに気づいた。布を握りしめる力が強すぎて、手袋越しにも指の関節が痛い。どうやら、さっきまで平気な顔をするので精一杯だったらしい。
一度だけ深く息を吐いて、指をほどく。包みの中で銀の縁が手のひらに当たると、また力を入れそうになったので、今度は両手で大事に持ち直した。
通路は薄暗く、壁の魔導灯が一つおきに消えていた。明るい広間から来たばかりの目には、床の端もよく見えない。慎重に歩いていると、金属の触れ合う小さな音が聞こえてきた。
消えた灯りの下に、男が一人、脚立に乗っていた。
煤のついた作業着の袖をまくり、壁から外した灯りの金具をのぞきこんでいる。腰の革帯には、長さの違う工具が何本も差してあった。宝石や絹に囲まれていた先ほどまでの広間と違い、ここには金属と油の匂いがする。
「そこ、足元に線が出てる。踏むなよ」
男は振り向かずに言った。見ると、床に細い銅線が這っている。私は裾を持ち上げてまたぎ、そっと足を下ろした。男は工具を一本替えてから、ようやくこちらを見る。
黒髪で、年は二十代の半ばくらいだろうか。右側の髪が少しはねている。目つきが悪いと思ったけれど、よく見ると、ただ眠そうなだけかもしれない。
「迷ったのか。客の出口はあっちだぞ」
「ありがとうございます。出口は存じておりますが、裏から帰りたいんです。こちらを通ってもよろしいでしょうか」
「ああ。線だけ踏むなよ。まだ直ってないから」
そう言うと、男はもう灯りに向き直っていた。ドレスの裾が汚れることも、私が誰なのかも、少しも気にしていないらしい。今夜の広間で私を見ていた人たちとは、ずいぶん違う反応だった。
歩き出しかけたところで、足が止まった。
この人は、魔導具を直している。さっきから手にしている小さな金具も、何度か見たことのある魔導灯の部品だ。ハンカチの中の時計を見下ろすと、四つ目までの光が、布を通してほんの少しだけ透けていた。
「あの、急に申し訳ありません。魔導具の修理をなさる方ですか。直していただきたい物があるのですが」
「今夜はこの屋敷の灯りを頼まれただけだ。広間のシャンデリアが三度またたくって苦情が来たから、元をたどってたら、ここの線がおかしくてな」
さっきの、あれか。婚約破棄の直前に三度も明かりが揺れたので、何かの演出かと思っていたけれど、ただの故障だったのか。
私は少し迷ってから、ハンカチを開いた。ひびの入った銀の蓋を見せると、男は面倒そうに脚立の上から首を伸ばす。
その動きが、途中で止まった。
男は工具を革帯に戻し、脚立を一段ずつ降りてきた。私の手から時計を受け取ると、灯りの残る場所へ移動して角度を変える。ついさっきまで眠そうだった目が、銀の裏蓋に向けられていた。
男の親指が、裏蓋の端をそっとなぞる。三日月と、点が三つ。私はずっと飾り彫りだと思っていた印だった。
「あんた、これをどこで手に入れた」
「母の形見です。母から直接いただきました」
「……母親の名前は?」
「セレナ・エルフォードです。十年前に亡くなりました。母のことは、ご存じですか」
男は答えるまでに、少し間を置いた。印の上にあった親指を離し、今度は割れた蓋を慎重に傾ける。
「……会ったことはない。師匠から、名前だけは聞いたことがある」
「そうでしたか。では、この時計を作った方については、何かご存じでしょうか」
「ああ。これは、その師匠の仕事だ。十年前に死んだ職人でな」
十年前。胸の奥に引っかかるものはあったけれど、男はもう時計のひびを調べている。私は急かさずに待った。蓋を動かす指は、先ほど壁の金具を外していたときより、ずっとゆっくりだった。
「直せるとしたら、俺だけだ。中の組み方を知ってるのは、弟子だった俺しか残ってない」
思いがけない言葉だった。母の時計を作った職人に弟子がいて、今、こうして目の前にいる。母からも父からも聞いたことのない話だけれど、少なくともこの人は、あの小さな印を見ただけで何かに気づいたのだ。
「本当ですか。でしたら、ぜひお願いいたします。修理のお代は――」
「悪いが、断る」
星時計が、私の手に戻ってきた。
「俺は貴族の仕事を受けないことにしてる。払いが遅いし、壊れたら職人のせいにする。さっき広間にいた坊ちゃんみたいにな」
やっぱり、あの騒ぎはここまで聞こえていたらしい。
断られるのは、今夜これで二度目だ。一度目は黙って受け入れたけれど、二度目まで諦めるつもりはなかった。何しろ、ここで引き下がれば、直せるという人をもう一度探すところから始めなければならない。
「では、お代は前払いにいたします。今、ここでお渡しすれば、お引き受けいただけますか」
「だから、貴族の――」
私は時計を片手で支え直し、もう片方の手で耳の留め金を外した。小さな真珠の耳飾りを手袋の上に乗せ、男の前へ差し出す。片方だけでも、職人の手間賃としてはひと月分ほどになるはずだ。
「こちらを前金としてお預かりください。足りなければ、明日、残りを持って工房に伺います。それから、修理中に何かございましたら、私の責任にしてくださって結構です。星時計は、私が自分で落としたことにいたします」
男は真珠を見下ろし、それから私の顔を見た。
「……落としたのは、あの坊ちゃんだろ」
「ええ。ですから、そちらには後で別に請求します」
男が喉の奥で短く笑った。眠そうだった目が、そのときだけ少し開く。先ほど広間で浴びた笑い声とは、まるで違う音だった。
「カイだ。下町の時計通り、坂の途中の青い扉が俺の工房。昼過ぎなら起きてるから、そのとき持ってこい」
「ありがとうございます。リナ・エルフォードと申します。では、明日の昼過ぎに伺いますね」
カイさんは真珠を作業着の胸ポケットへ入れた。それから私の手元を見て、もう一度だけ星時計を貸してほしいと言った。
「工房に持ってくる前に、ひとつ確かめたい。割れ目から中をのぞかせてくれ」
私はハンカチを広げ、時計を差し出した。カイさんはひびの入った蓋に片目を近づけ、壁の灯りに向けて少しずつ角度を変えていく。通路の奥では、遠くの楽団が次の曲を始めたようだったけれど、カイさんは少しも顔を上げない。
細い工具を使うでもなく、何かを開こうとするでもなく、ただ割れ目の奥を確かめている。最初はじっと待っていた私も、あまりに長いので心配になってきた。
「どうでしょうか。直りそうですか」
カイさんは答えずに、もう一度だけ時計を傾けた。眉間に深いしわが寄っている。やがて銀の蓋をそっと閉じると、時計を私の手のひらへ戻した。
「あんた、これを一度でも開けたことがあるか」
「いいえ。母は『困ったときに開けなさい』と言っていたのですが、何度試しても開かなくて……」
「だろうな」
カイさんの指先が、星図の蓋のひびの奥を示した。
「これは時計じゃない。錠前だ」




