↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
伯爵令嬢の星時計~婚約破棄されても泣かなかったけれど、なぜか無愛想な職人にだけ甘いわ~  作者: 森凛
第2部 ルゥの遺したもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/14

第12話 マルタの約束

 星削りの見本が見つかった翌日、カイさんは工房の長椅子で、丸一日眠っていた。


 昨夜、マルタさんの時計を預かったあと、鈴の仕掛けに詰まっていた埃だけは取り除いてくれた。釦を押すと、余計な一回を鳴らすこともなく、正しい時刻を告げるようになったのだ。そのときはまだ拡大鏡を外そうとしなかったけれど、ミアに「もう暗くなります」と言われて、ようやく工具を置いた。


 今日の工房には、やすりの音がない。窓から入る春の日差しが、作業台に並べられた銀の工具を細く照らしている。壁いっぱいの時計はいつもどおりばらばらの時を刻み、その下でカイさんは毛布を頭までかぶり、少しも動かなかった。


「……まだお休みなんですね」


 ミアが声をひそめた。私は机に座って帳面を開き、昨日の修理記録に『引き渡し待ち』と書き足した。マルタさんの木の時計は、柔らかな布に包んで作業台の端に置いてある。いつ取りにいらしても渡せる状態だけれど、今はそれよりも、カイさんにしっかり眠ってもらいたかった。


 十日間、彼は毎日石を削っていた。失敗した十四個分の記録をつけた私には、眠れない夜がどれほど続いたのかも、少しは想像がつく。午後の間、何人かお客様が来たけれど、私は時計を預かって名前と依頼を記し、作業台へは近づかなかった。


 夕方、帰る前に長椅子を見たときも、毛布の端から黒い髪が少し見えているだけだった。明日は起きていてくださるだろうか。そう思って扉を閉めたけれど、起きていなければ、もう一日眠っていてもいい気がした。


◇


 その次の日、私が工房へ着くと、作業台から細い音が聞こえてきた。


 かり、かり、と刃が石の表面をなぞる音だ。カイさんはもう起きていて、額に拡大鏡をつけ、マルタさんの時計から取り出した魔石を窓際に置いていた。すぐ横の紙には、細かい線がいくつも引かれている。


「おはようございます。……いえ、もう昼過ぎですね。昨日はゆっくりお休みになれましたか」


「寝た。起きたら腹が減って、ネルんとこのパンを三つ食った。……あんた、そこに置いた帳面、あとで見せてくれ」


 顔を上げずに答えながら、カイさんは石を少し傾けた。灯りを当てる角度が変わると、砂粒より小さな面が一つずつきらめく。紙に写しているのは、その面の向きらしい。線の長さも傾きも違うけれど、無秩序に見えた細かな削りに、ひとつの順番があることは私にも分かった。


「何をお確かめなのですか」


「昨日までの俺は、表面を細かく削れば星削りになると思ってた。けど、師匠の石は、隣の面へ刃を移す向きが決まってる。……まだ全部は分からんけどな」


 カイさんは紙の端に小さな印をつけると、別の刻石を布の上に載せた。今までのように一度で仕上げようとはせず、見本と紙を何度も見比べている。刃の先が触れるたび、透明だった石の表面に、白い光を返す小さな面が増えていった。


 午後が終わるまで、石は一度も砕けなかった。


 私は帳面の仕入れ欄を開いて、材料の残りを確かめた。石が砕ければ、そのたびに新しく買わなければならない。昨日までは買い入れの行が増える一方だったので、これだけでも大きな進歩だ。帳場としては大変ありがたい。


 けれど、カイさんの指先をのぞくと、巻き直したばかりの布に薄く赤いところがあった。削り始める前に手当てをしたほうがいいのでは、と声をかけかけたが、彼が石を持ち上げたので黙った。


 指の先で、こつりと石を弾く。


 少し濁った、短い音がした。


「……まだ違うな」


 カイさんは石を布へ戻し、紙の線を一本引き直した。私は帳面に『刻石 追加購入なし』と書いたあと、彼の手元がよく見えるよう、窓のそばの椅子へ移った。


◇


 マルタさんが工房に顔を出したのは、その翌々日だった。


 坂の下までは辻馬車で来て、そこからはピップの肩につかまって上ってきたらしい。青い扉が開くと、杖の音に続いてピップの明るい声が聞こえた。


「親方ー! マルタ婆ちゃん連れてきたぞ。坂の途中で、三回も休んだんだ!」


「数えなくていいよ。あたしはあんたより、ずっと長くこの坂を上ってるんだからね」


 マルタさんは杖を床へつき、声のするほうへ顔を向けた。ピップが椅子を引こうとすると、「その椅子の場所は分かってるよ」と言って、自分で背を探り当てる。前と同じ客用の椅子に腰を下ろしてから、膝の上に杖を横たえた。


「修理は済んでおりますので、いつでもお渡しできます」


 私がそう伝えると、マルタさんは軽く頷いた。


「知ってるよ。あの坊やが新しい石と格闘してるうちは、預けとく。ここの時計は、まだあたしの耳に要るからね」


 何のことだろうと思ったけれど、カイさんは驚いた顔をしなかった。作業台の布を広げ、昨日から削っていた石を指先でつまみ上げる。


「じゃあ婆さん、ひとつ聞いてくれ」


「婆さんじゃない、マルタだよ。……ほら、鳴らしてごらん」


 カイさんが石を弾いた。かすかに澄んだ音がしたけれど、マルタさんはすぐに首を振った。


「だめだね、坊や。そこが違う。あたしの時計の石は、もっと高くて細い音で鳴るよ。それは、風邪を引いた鈴みたいな音だね」


「そんなに違うか? 面の向きは、だいぶ合わせたつもりなんだけどな」


「石には耳を近づけてごらん。ルゥはいつも、削るたびに石を鳴らしてたよ。あんた、そばで見てなかったのかい」


 カイさんは何か言い返そうとして、口を閉じた。少ししてから石を台へ戻し、刃を持つ手の向きを変える。私はその横顔を見ながら、十年前の工房のことを考えていた。


 十四歳だったカイさんは、きっと今と同じ作業台の前で、師匠の手を見つめていたのだろう。けれど、石を弾く音まで技の一部だとは、教えられなければ分からない。私だって、カイさんのやすりの音を毎日聞いているのに、どれが仕上げの音なのか、まだ区別できない。


 カイさんが刃を寝かせると、削り粉がほんの少しだけ布へ落ちた。石を弾くと、先ほどより高い音がする。マルタさんは首を傾け、耳を澄ませてから「もう少しだね」と答えた。


 その日から、マルタさんは二日に一度、工房へ通うようになった。修理を終えた時計を受け取るためではなく、削りかけの石の音を聞くためだ。ピップは坂の下まで迎えに行く役を買って出て、ときどき丸パンを二つ買って戻ってきた。一つはマルタさんの分、もう一つは自分の分らしい。


 私も、帳場で仕事をしながらその音を聞くのが日課になった。カイさんが刃を入れて、石を弾く。マルタさんが違いを指摘すると、彼はむっとした顔でやり直す。何度か繰り返すうちに、石の音が少しずつ澄んでいくのが、私の耳にも分かるようになってきた。


 春の夕暮れは日に日に遅くなり、窓際の作業台に残る明るさも長くなった。外では店じまいをする人の声や、石畳を転がる荷車の音がする。壁の時計がばらばらに時を告げるなかで、カイさんの弾く石の音だけは、毎日少しずつ変わっていった。


 そして、何日か経ったある午後のことだった。


 カイさんがいつものように石を弾くと、細く澄んだ音が工房の中へ広がった。大きな音ではないのに、ほかの時計の響きと混ざらず、耳の奥までまっすぐ届く。私は帳面に置いていた鉛筆を止め、顔を上げた。


 マルタさんは杖の上で両手を重ね、しばらく黙っていた。カイさんも石をつまんだまま、返事を待っている。外の通りから誰かの笑い声が聞こえ、遠くの鐘が一つ鳴った。


「……ふん。やっと、ルゥの弟子らしい音になったじゃないか」


 マルタさんの口元が、ゆっくりと緩んだ。


 カイさんは一度だけ息を吐き、布の上へ石を置いた。顔を上げないので表情はよく見えなかったけれど、作業台の下で、靴のつま先が小さく動いている。私は嬉しくなって、帳面の端に『五つ目 試作成功』と書きかけた。


 まだ星時計にはめていない。そう思い直して、鉛筆を止めた。


◇


 その日の帰り際、マルタさんはようやく自分の時計を受け取った。


 カイさんが木の箱を手渡すと、彼女は両手で包み込むように持った。指の腹で蓋の縁をなぞり、釦を確かめてから押す。澄んだ鈴の音が、決まった回数だけ鳴った。


 最後の音が消えるまで、マルタさんは何も言わなかった。いつもは人の言葉を待たずに話し始めるのに、そのときだけ、箱を膝に抱えたまま静かにしていた。私は帳面の引き渡し欄へ日付を書き込み、鉛筆を置いた。


「あの人とね、約束したんだよ」


 マルタさんの声は、先ほどより少し低かった。


「目が見えなくなって、何もかも嫌になってた頃さ。朝なのか夜なのかも分からなくて、誰かに教えてもらうのも腹が立ってね。そうしたらルゥが、この時計を持ってきたんだ。あたしが死ぬまで、必ず鳴らしてやるって言ったよ」


 木の蓋を撫でる指が、一度だけ止まった。


「ところが、あの人のほうが先に死んじまった。噓つきだねえ。十年も待ったのに、取り立てに行く相手がいないんだから」


 マルタさんはいつもの調子で笑おうとしたけれど、声は少しかすれていた。私は返す言葉が見つからず、帳面の頁を押さえたまま聞いていた。


 十年前、私も母を亡くした。母にもう一度聞きたいことは、今でもいくつもある。けれど、マルタさんには、母を失った私とは別の形で、十年分の言えなかった言葉があるのだと思った。


「それで、あんたのところへ取り立てに来たんだよ、坊や。あの人の約束、あんたが継ぎな。あたしが死ぬまで、この時計を鳴らすんだ」


 カイさんは木の時計を見つめ、それからマルタさんの顔を見た。少しのあいだ返事をしなかったので、私はそっと二人を見比べた。やがて彼は、いつものぶっきらぼうな声で言った。


「……前払いだぞ。次に狂ったら持ってこい。俺が直すから、今度は十年も待つなよ」


「もう払ったよ。あんたの師匠の頃からね」


 マルタさんが笑うと、カイさんも喉の奥で短く笑った。私は帳面の新しい行を開いて、今の約束を書き留める。時計の名前、マルタ様。点検と修理の期限は未定。お代は受領済み。


 前払いで、期限が決まっていなくて、何度修理が必要になるかも分からない。帳場としては、こんなに見通しの立たない契約は困る。けれど私は、書いた行を消さずに、受領済みの欄へまっすぐ線を引いた。


 ピップが杖を取ってマルタさんを戸口へ案内する。閉まる間際に「また来るよ」と声がして、カイさんは作業台から「気をつけて帰れよ」と答えた。青い扉が閉まると、工房には壁の時計の音が戻ってきた。


◇


 マルタさんを見送ったあと、カイさんは仕上げたばかりの石を布の中央へ置いた。


「……五つ目、はめるぞ。あんたの時計、出してくれ」


 私は胸元から星時計を外し、作業台の横へ回った。薄い銀の鎖を外し、ハンカチを広げて時計を載せる。蓋のひびはカイさんが流した銀で継がれていて、元どおりとはいかないものの、指で触れても引っかからなくなっていた。


 七つ並ぶ魔石のうち、五つ目から先の三つは、まだ暗い。夜会の夜、床に落ちた瞬間から変わらない光景だった。あれから何度もこの蓋を開き、そのたびに同じところで止まる光を見てきた。


 カイさんは拡大鏡をつけ、五つ目の黒い石を細い工具で外した。石を支えていた銀の爪を一本ずつ起こし、傷つけないように布へ置く。それから、星削りを施した新しい石を指先でつまみ上げた。


 私が見ると、石は夕方の光を細かく返していた。表面には、マルタさんの時計と同じように無数の面が並んでいる。けれど、ここまでたどり着くのに何日かかったのか、買った石の数を数えるより、今日だけはその表面を見ていたかった。


「少し押さえてくれ。……そう、そこだ。ずらすなよ」


 言われたとおり、私は時計の端を手袋の指で押さえた。カイさんの手がすぐそばで動く。薄い金具が石を囲み、爪が一つずつ倒されるたびに、小さな金属音がした。


 最後の爪が留まると、カイさんは工具を離した。


「……これで、どうだ」


 最初は何も起こらなかった。私は息を詰め、文字盤を見つめる。窓の外で荷車が通り、床板がかすかに震えた。ミアがいつの間にか私の隣へ来て、手を胸元で組んでいる。


 一つ目の石が、ほのかに灯った。


 二つ目へ、三つ目へ。小さな光が順に移り、四つ目でいつものようにまたたく。私は思わず身を乗り出した。今までなら、ここで終わるはずだった。


 けれど、今度は光が消えなかった。


 四つ目の石の奥に集まった光が、細い糸のように伸びる。隣の暗い石へ触れると、その内側に、砂粒ほどの明かりがひとつ生まれた。光は細かな面を次々に渡り、やがて五つ目の石全体を満たした。


 銀で継いだ星図の蓋の内側に、五つの淡い光が並んでいる。


「……カイさん、動きました。五つ目まで、ちゃんと光が届いています!」


 私が顔を上げると、カイさんも目を見開いていた。拡大鏡を額へずらし、石の並びと私の顔を交互に見ている。今度こそ本当に動いたのだと分かった瞬間、私は思わず彼の手を取った。


 両手で、かなり強く握っていた。


 カイさんの手は大きく、指に巻いた布の下には何度も火傷をした硬さがある。以前手当てをしたときは、職人の手を守るためだと説明できた。けれど今は、そんな理由が何一つない。ただ嬉しくて、気がついたら手が伸びていた。


 カイさんも動かなくなった。少し開いた口から何か言葉が出かかったけれど、結局、何も言わない。すぐ近くで見ると、眠そうなはずの目が、今日は驚くほどはっきり開いていた。


「……お嬢様」


 背後でミアが咳払いをした。私はようやく自分の手に気づき、慌てて離した。


「失礼いたしました。つい、嬉しくなってしまって……。あの、手のお加減は大丈夫でしょうか」


「……ああ。別に、痛くはない」


 カイさんはそう言いながら、握られていた手を見下ろした。私は帳面を開こうとして、置き場所を忘れてしまった。喜びすぎたせいで、頭が少しぼんやりしているのだと思った。


 けれど、その熱は引かなかった。


 首の後ろが急に熱くなり、何かが背中を伝って頭へ上ってくる。窓から差す夕日が妙に眩しく、壁の時計の音が一つずつ遠ざかっていった。私は目を瞬かせ、作業台に手をつこうとしたけれど、指先が思う場所へ届かなかった。


「……あれ」


 声に出したつもりだったのに、自分の耳にはかすかにしか聞こえない。床の木目がゆっくり傾いた。立っているのに、足の裏が床へついている感じがしなかった。


「お嬢様? お顔が……!」


 ミアの声が聞こえた。返事をしようとして口を開いたところで、膝から力が抜けた。手にしていた帳面が滑り落ち、頁が床で広がる音がした。


 倒れる、と思った。


 次の瞬間、体が横へ落ちるかわりに、誰かの腕に支えられた。鼻先をかすめたのは、金属を磨く油と、洗いきれない煤の匂いだった。カイさんが片腕を私の背に回し、もう片方の手で肩を押さえている。


「おい、しっかりしろ。聞こえるか」


 耳元の声だけが、やけにはっきり聞こえた。私は頷いたつもりだったけれど、頭がうまく動かない。カイさんはミアに長椅子の毛布をどけるよう頼み、私をそちらへ運んで座らせてくれた。


 背もたれに体を預けると、少しだけ息がしやすくなった。けれど、頭の中に熱い水がたまっているようで、目を開けるだけでも気分が悪い。見上げると、カイさんは作業台の星時計と私を見比べ、顔をしかめていた。


「……魔力酔いか。悪い、気づくのが遅れた。手を貸せ」


 カイさんは自分の指に巻いていた布をほどき、邪魔になった端を歯で引いて外した。私は何を言われたのかすぐには分からなかったけれど、彼が私の右手を取ったので、力を抜いて任せた。ミアが手袋の留め具を外すと、カイさんは素肌になった私の手のひらへ、自分の手を重ねた。


「布越しじゃ効かない。少し、じっとしててくれ」


 火傷の跡が残る手は、指の腹が硬く、私の手をすっぽり覆うほど大きかった。熱を持っているのは私の体のはずなのに、触れたところだけ、少し冷たく感じる。カイさんが手のひらをゆっくり押し合わせると、首の後ろにたまっていた熱が、そこへ向かって流れ始めた。


 目には見えない。けれど、湯をいっぱいに注がれた器から、別の器へ少しずつ移しているような感覚があった。胸の奥の苦しさが和らぎ、耳の中で響いていた時計の音が、またひとつずつ近くなる。


 私は長椅子に座ったまま、ゆっくり息を吐いた。ミアが目の前にしゃがみ、私の顔を覗き込んでいる。カイさんはその横で、私の手を離さずにいた。


「……もう、大丈夫です。たぶん。先ほどは、何が起きたのでしょうか」


 声が戻ってきたのを確かめてから尋ねると、カイさんはようやく少し肩の力を抜いた。


「魔力酔いだ。封じ石が新しく灯ると、持ち主の魔力が揺れる。うまく収まりきらなかった分が体に残ると、熱が出たり、目が回ったりするんだ」


 彼は重ねた手を少し持ち上げて、続けた。


「職人が肌を合わせて、あふれた魔力を受け取り、外へ逃がしてやる。魔力抜きっていう。昔、師匠に教わった。……こんなふうに急に倒れるとは思ってなかった。悪かったな」


 私は首を横に振った。新しい石が灯ったとき、私も喜んでばかりで、自分の体のことなど考えていなかった。今になって思えば、熱くなったのは手を握ったせいだけではなかったらしい。


「でしたら、また同じことが起こるのでしょうか。五つ目の石は、これからも灯り続けるのですよね」


「ああ。石が灯ってるあいだは魔力が揺れやすいから、これから毎日、抜いてやる必要がある。ほかの職人にも頼めなくはないが、あんたの時計の中身を見せることになる。今は、俺がやったほうがいい」


 毎日。


 私はその言葉を頭の中で繰り返した。修理が済むまで工房へ通う約束はしていたけれど、今度は時計だけでなく、私の体もカイさんの仕事に加わることになるらしい。手を貸すだけで治るのならありがたい。ただ、その手がまだ重なっていることに、ようやく気づいた。


 カイさんも同じことに気づいたようだった。私の指先を一度見てから、ぱっと手を離し、壁の時計へ目を向ける。そこに何か書いてあるわけでもないのに、ずいぶん真剣に見つめていた。


「……仕事だ。治療の一つだからな」


 誰も何も尋ねていないのに、カイさんは念を押した。私は手袋を受け取りながら頷く。


「はい。助けていただき、ありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします」


 ミアが腕を組み、私たちを交互に見た。いつもなら私の体調を心配してくれるのに、今日は少し違う顔だ。


「……それ、本当に仕事なんですか。お嬢様、顔が赤いままですけれど」


「仕事だ」


「仕事です」


 カイさんと同じときに答えてしまい、私は口を閉じた。ミアが眉を寄せる。今度こそ頬が熱くなったけれど、こちらの熱については、魔力抜きでは治らない気がした。


◇


 帰りの馬車に揺られながら、私は帳面を開いた。


 夕方の坂道には、もう店じまいを始めた店が多かった。窓の外を流れていく屋根の上に春の薄い雲がかかり、石畳は傾いた日差しを受けて明るく見える。工房を出るときには自分の足で立てたし、馬車に乗ってからもめまいは起きていない。


 まず、マルタ様の時計は引き渡し済み。次に、星時計の五つ目の石は取り付け完了。残りは二つ。私は項目ごとに確認し、いつものように丁寧な字で書き込んだ。


 残りは二つ。


 母の形見が少しずつ元に戻っているのだから、残りが減るのは喜ばしいことのはずだ。けれど私は、書いたばかりの『二つ』を見つめたまま、しばらく鉛筆を動かせなかった。今日は倒れたりもしたので、きっと疲れているのだと思う。


 帳面の下に、新しく一行を作る。


『魔力抜き 代金?』


 しばらく眺めてから、鉛筆の尻で消した。今までつけたことのない項目なので、どの費用に入れればいいのか分からない。そもそもカイさんにはお代を尋ねるのを忘れてしまった。


 消し跡を指で押さえると、鉛筆の先がよく尖っていることに気づいた。今朝、工房へ着いたときにはもう、机の真ん中に置いてあったものだ。私が削った覚えはない。あの鉛筆を削ってくれる人にも、修理のお代とは別に何か支払うべきなのだろうか。


 帳面を閉じ、膝の上で右手を開いた。夕日の差す馬車の中で見る手のひらは、いつもと同じだった。指の長さも、爪の形も、何ひとつ変わっていない。


 けれど、手袋をはめようとして指を入れかけたところで、私は少し迷った。


 掌に残った熱はもう引いているはずなのに、あの硬い手の感触だけは、まだはっきりと思い出せた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。