第11話 音で時を告げる時計
老婦人は、私の返事を待たずに敷居をまたいだ。
使い込まれた杖が青い扉の下をこつりと叩き、床板の継ぎ目を確かめる。春の日は長くなったとはいえ、もう夕方だ。坂道から吹き込んだ風にはまだ少し冷たさが残っていて、私は開け放した扉をそっと閉めた。
老婦人は杖を前へ伸ばし、二度ほど床を叩いた。先が作業台の脚に触れると、少し左へ向きを変え、入口の机の前まで歩いてくる。そして客用の椅子を見つけると、背に指を滑らせ、慣れた様子で腰を下ろした。
閉じられた両目は、こちらを見ていない。それなのに歩き方にも、椅子に座る仕草にも迷いがなかった。私は手提げを持ったまま、その一連の動きを見つめてしまった。
「……今日はもう閉めた。扉の札を見ただろ」
作業台の向こうからカイさんの声がした。先ほどまで十日分の失敗を打ち明けていた人とは思えない、いつものぶっきらぼうな調子だ。ただ、声はひどくかすれている。
「見えないから、指で読んだよ。『午後から』とは書いてあったが、『夕方まで』とは書いてなかったね。あんたの店は、閉める時刻を決めてないのかい」
老婦人は口元を少し上げた。私は扉の脇の札を思い浮かべる。確かに、そこには『修理承ります 午後から』としか書いていない。毎日通っているのに、終業時刻のことは一度も考えたことがなかった。
明日、帳面に営業時間の欄を作っておこう。もっとも、店主が昼過ぎまで眠っている工房では、そこから相談する必要がありそうだ。
「それにしても、ひどい声だね。三日は寝てないだろう。昔から、職人ってのは加減を知らないものかね」
「……十日だ。いや、途中で少しは寝たけどな」
「馬鹿だねえ。ルゥもそうだったよ。夢中になると飯も忘れて、しまいには立っていられなくなる。弟子まで同じことをする必要はないだろうに」
老婦人がそう言うと、カイさんの手が止まった。
その顔を見て、私は驚いた。ほんの少し前まで眠くて仕方がなさそうだったのに、今は目を見開いている。師匠の名を、あんなふうに自然に口にする人が現れるとは思っていなかったのだろう。
「お嬢様。そろそろお帰りのお時間ですが……」
ミアが外套の襟を整えながら、小声で知らせてくれた。私もすでに帰り支度を済ませていたけれど、お客様が椅子に座っている。しかも、ルゥさんを知っている方だ。
私は手提げを入口の机に戻し、外套を着たまま帳面を開いた。カイさんはまだ作業台の向こうで動こうとしないので、まずは私が話を伺うことにする。
「いらっしゃいませ。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。こちらで受付をしております、リナと申します。今日は修理のご依頼でしょうか」
老婦人は、声のしたほうへゆっくり顔を向けた。目を閉じたまま、私の言葉が終わるのを待っている。その仕草を見て、私はいつもより少しだけはっきりと話すようにした。
「ほう。若い娘さんが帳場にいるのかい。さっき扉まで来た足音も、あんただね。十八か、十九。背筋の伸びた、ずいぶん頑固そうな足音だったよ」
「……十八でございます。ですが、足音でそこまで分かるものなのでしょうか」
「年は外れることもあるよ。でも、あんたは椅子を引くときも、杖の音が聞こえたときも、動く前に一度止まる。考えてから動く人の足音さ」
後ろでミアが小さく吹き出した。私は少し恥ずかしくなって、帳面に目を落とす。年齢を当てられたのも驚いたけれど、動く前に考えていることまで見抜かれたのは、何だか落ち着かない。
そういえば、今も返事をする前に一度考えている。なるほど、否定する材料が見当たらない。
「マルタだよ。昔から、ここの客だった。ルゥが死んだことは知ってる。弟子が店を継いだと聞いたから、一度来ようと思っていたんだがね。この足じゃ、坂を上るのに十年もかかっちまった」
マルタさん、と私は声に出して確かめた。その名には覚えがある。さっきまでカイさんと一緒に開いていた、ルゥさんの古い帳面に載っていたはずだ。
頁を一枚ずつめくると、途中から紙の色が少し濃くなった。十年前で途切れた、小さく丁寧な字が並んでいる。その中に、確かに同じ名前を見つけた。
『マルタ様 音の時計 調整』
記された日付は、十一年前の秋だった。
「ございました。十一年前にも、こちらへ時計をお持ちになっていますね」
「よく残してたねえ。ルゥはそういうことを、いちいち書いていたから」
マルタさんは懐かしそうに言った。私は古い字をもう一度眺める。十一年前の秋、この机の前に今と同じ人が座り、ルゥさんが修理を受け付けたのだろうか。工房のどの時計も知らない頃の出来事が、帳面のたった一行で急に近く感じられた。
カイさんがようやく作業台から出てきた。十日間ろくに眠っていないせいか、歩く足取りは少し重い。それでもマルタさんの前に来ると、椅子をもう一つ引いて腰を下ろした。
「……で、婆さん。今日は何を持ってきた。杖の修理なら専門外だぞ」
「婆さんじゃないよ、坊や。あんたこそ、こんなに声がかすれてるなら、杖より先に自分を直したらどうだい。持ってきたのは時計だよ」
カイさんは言い返そうとして、やめた。代わりに片手を差し出すと、マルタさんは膝に載せていた包みをゆっくりほどき始めた。
◇
包みの中から現れたのは、両手に収まるほどの丸い木の箱だった。
濃い色の木目には長い年月を経た艶があり、角は何度も手で撫でられたように滑らかになっている。小さな傷もいくつか見えたけれど、留め金はきれいに磨かれていた。大切に使われてきた品物なのだと、触らなくても分かる。
ただ、時計だと言われなければ、宝石箱か何かだと思っただろう。数字も針も、時刻を示す文字盤もない。上には、指の腹ほどの丸い釦が一つついているだけだった。
「これは、どうやって時刻を読むのでしょうか」
「読むんじゃないよ。聞くんだ。耳を澄ましてごらん」
マルタさんは釦の位置を指先で探し、軽く押した。
ちりん、ちりん、と澄んだ鈴の音が鳴り始める。
壁じゅうの時計の音に紛れそうなのに、その鈴だけは、細い糸を引くように明るく響いた。ひとつ、ふたつ、みっつ。私は思わず頭の中で数え、五回目の音が消えたところで耳を澄ませた。
少し間を置いて、先ほどより低い音が一度だけ鳴った。
「五時半だね。五つ鳴れば五時。そのあと低い音が一つ鳴れば半時だよ。数字を読まなくても、これなら間違えない」
ちょうど坂の向こうから夕方の鐘が聞こえてきた。通りの店が次々と戸を閉め始める頃だ。マルタさんの手のひらに載った小さな箱が、その音と同じ時刻を知らせているのを見て、私は感心してしまった。
「こんな時計があるのですね。私は初めて拝見しました」
「目が見えなくなって、すぐの頃にルゥが作ってくれたんだよ。町の鐘が聞こえない部屋もあるだろう。そんなとき、時間が分からないと困るからね」
マルタさんの指は、釦から離れたあとも木の蓋に触れていた。指先が迷わず同じ場所へ戻る。何年も繰り返してきた仕草なのだろう。
私の胸元には、銀の星時計がある。こちらも数字ではなく石の光が順番に移り、時を知らせていた。ルゥさんという職人は、使う人に合わせて時計の形を変えられる人だったのかもしれない。そう思うと、目の前の木箱をもっと詳しく見たくなった。
「それで、この冬から音が狂い出してね。一時間に一度、余計に鳴るようになったんだ。夜中に三時のはずが四回鳴ったら、さすがにあたしも目が覚める。最近は、時計に起こされるために寝てるみたいだよ」
マルタさんの言い方がおかしくて、私は思わず微笑んだ。けれど、決まった音で時を知る人にとって、音が一つ増えるのは小さな故障ではないだろう。五つ鳴ったら五時だと信じているのに、それが違っていたら、何を目安にしたらいいのか分からなくなる。
「それはお困りでしたね。以前は正しい回数で鳴っていたのですね。音の数がずれることと、冬から症状が出始めたことを記録しておきます」
私は帳面の新しい行に依頼内容を書き入れた。カイさんはもう木の箱を手に取り、継ぎ目を指で確かめている。急に呼び止めたら嫌がられそうだったので、前金については手元の作業が一段落するのを待つことにした。
「……修理はできる。中を開けてみないと、どこが悪いかは分からんけどな。婆さん、預かっていいか」
「そのために坂を上ってきたんだよ。お代は前払いだろう。ルゥの店は、昔からそうだった」
マルタさんは懐から小さな財布を取り出した。硬貨の縁を親指でなぞり、一枚ずつ、きちんと数えて机に並べていく。その動きがあまりに確かなので、私は思わず見入ってしまった。
私が帳面につけるより早く、必要な分が揃った。最後の一枚を置くと、マルタさんは財布の口を閉め、私のほうへ硬貨を押し出した。
「確かにお預かりいたします。受領の記録をつけておきますね」
そう答えながら、私はまた一つ知った。カイさんの前払いは、彼が面倒を避けるためだけに決めたものではない。ルゥさんの頃から、この工房で続いていた約束だったのだ。
カイさんは聞こえていたはずなのに、何も言わなかった。ただ、木箱を作業台へ置く前に、その蓋を親指で一度撫でていた。
◇
修理の受付が済むと、マルタさんは椅子の背にもたれた。窓から差す夕日が、銀色の髪の上をゆっくり移っている。帰る支度をしていたミアも、いつの間にか外套を脱ぎ、少し離れたところで話を聞いていた。
「ああ、そうそう。時計のことで、もうひとつ話があるよ。去年の春、これを売れと言ってきた人たちがいてね」
私は鉛筆を止めた。
「売る、とは……この時計を、でございますか」
「そうさ。立派な靴を履いた男が訪ねてきて、グランツ侯爵家の使いだと名乗った。金貨を二十枚出すから譲ってほしいって。あたしの手のひらに収まる時計に、金貨二十枚だよ。妙な話だろう」
私は反射的にカイさんを見た。彼もちょうどこちらを向いていたので、一瞬だけ目が合う。
ブランシュ子爵夫人が話していたことと同じだ。侯爵家はルゥさんの作品を買い集めている。けれど、目の見えない人のために作られた小さな時計にまで、それほどの値をつける理由が分からない。
「失礼ですが、そのお申し出は、お断りになったのでしょうか」
「もちろん。友達にもらった物を、金で売る馬鹿がどこにいるんだい。靴の立派な男も、最後には諦めて帰ったよ」
「……お師匠様とは、お友達だったのですか」
聞き返すと、マルタさんは初めて少しだけ頬を緩めた。閉じた目のまま、作業台のあるほうへ顔を向ける。その目線の先には、カイさんが立っていた。
「最初は客だったけどね。あたしは友達だと思ってる。目が見えなくなってから、毎日が長くてね。ルゥはここに来るたび、よく話を聞いてくれた。時計の具合を確かめに来ただけなのに、気づけば日が暮れてたこともあったよ」
私はマルタさんの顔を見ていた。長く付き合った人のことを話す声だった。ルゥさんは十年前に亡くなっている。もう一度会いたくても会えない人の名前を、こうして口にしてくれる誰かがいるのは、少し羨ましかった。
私にも、母のことを聞ける相手がもっといたらよかったのに。そう思ってしまい、胸元の星時計に触れかけた手を止めた。
「面白い人だったねえ。職人のくせに、貴婦人の手をしていたよ」
マルタさんが何気なく続けると、カイさんが作業台から顔を上げた。
「師匠の手は、火傷だらけだったぞ。毎日石を削ってたんだからな」
「火傷の下の話をしてるんだよ、坊や。あたしは目が見えなくなってから、握った手の形をよく覚えるようになった。あの人は、小さい頃にいい暮らしをした手だったね。指の形が違うんだ」
カイさんは納得したのかどうか分からない顔で、拡大鏡を探し始めた。私は思わず自分の手を見下ろす。手袋は外していたけれど、今まで工具を握ったことのない指先には、火傷も、硬いところもない。
ルゥさんの手も、そうだったのだろうか。カイさんが覚えているのは、きっと仕事をしていたときの手だ。マルタさんには、その下にあるものまで分かったのかもしれない。
「あんたも、ちょっと手を貸してごらん。帳場の娘さん」
突然声をかけられ、私は顔を上げた。マルタさんは私のいるほうへ手のひらを差し出している。断る理由もないので、私は椅子の横へ移り、自分の手をそっと重ねた。
乾いた小さな指が、私の人差し指から順に触れていく。爪の形を確かめ、指の節をなぞり、手のひらを軽く包む。くすぐったくて少し身を引きそうになったけれど、相手は真剣だ。私は膝をそろえて、できるだけ動かないようにした。
「……冷たい指だね。あんた、緊張するたちだろう。人にはあまり見せないんじゃないかい」
「そう、でしょうか。緊張していないつもりではいるのですが」
「それは、自分に言い聞かせるのが上手なんだろうね」
私は何と答えたらいいか分からなかった。あの夜、母の形見を壊されたときも、泣かずに笑って退出した。けれど指が冷えきっていたことを、今でも覚えている。
カイさんの前では、なるべく落ち着いていたいと思っている。修理を頼みに来た私まで慌ててしまったら、仕事の邪魔になる気がするからだ。
マルタさんの指が、私の親指の付け根で止まった。
ほんの短い間だった。何かを確かめるように一度だけそこを撫で、それから、何事もなかったように手を離した。
「……何かございましたか」
「いや、なんでもないよ。貴族の手ってのは、どれも似てるもんだ」
私は自分の手を膝に戻し、親指の付け根を見た。特に変わったところはない。それでも、マルタさんの指が一瞬だけ止まった感触が残っていて、気になった。
ただ、今尋ねても、きっと同じ答えが返ってくるだろう。私は席へ戻り、帳面の頁を押さえた。そのとき、作業台のほうから金具を外す細い音が聞こえた。
◇
カイさんは、丸い木箱を柔らかい布の上に置いていた。裏の小さな蓋を押さえる金具を一つずつ外し、外した順に右手の皿へ並べていく。細かな作業が始まると、さっきまでの眠そうな様子はなくなった。
窓の外は夕暮れに近づいていた。向かいの工房が鎧戸を閉める音がして、坂を行き交う人の声も少しずつ減っていく。ミアが作業台のそばへ魔導灯を運ぶと、布の上だけが明るく照らされた。
「ありがとう、ミア。……カイさん、お手元はよく見えますか」
「ああ。これで十分だ。あんたはそっちの帳面、落とすなよ」
私は頷いて帳面を抱え直した。前に、作業台へ身を寄せすぎて細い部品を見失いそうになったことがある。今日こそ邪魔をしないよう、少し離れて見ておくことにした。
カイさんが蓋を持ち上げると、小さな鈴の仕掛けと、細い金属の輪が現れた。どちらも指の先よりずっと小さい。釦を押すと中の仕掛けが動き、決まった数だけ鈴を鳴らすのだという。普通の時計とは違っていても、時を刻む仕組みが箱の中に収まっているのは同じらしい。
裏蓋の端には、三日月と点が三つ並んだ印が彫られていた。
「……やっぱり、師匠のだ」
カイさんは親指でその印を一度なぞった。いつものように工具を持つ手なのに、そのときだけ動きがゆっくりになる。私は自分の胸元の星時計を押さえた。同じ刻印を持つ品が、また一つ目の前にある。
「鈴の仕掛けに埃が噛んでる。こいつが動くたびに引っかかって、余計に鳴るんだろう。掃除すれば直る。……音を決めてる石は、これか」
カイさんは細い工具を使い、金具の奥から親指の先ほどの魔石を取り出した。石は淡い光を帯びている。壊れているようには見えなかったけれど、彼はそれを布の上へ載せ、拡大鏡をかけ直した。
そのまま、動かなくなった。
最初は工具の先が引っかかったのかと思った。けれど、カイさんの手は石に触れてさえいない。拡大鏡を通して、何かをじっと確かめている。
「カイさん。何か、ございましたか」
返事はなかった。ミアも気づいたらしく、魔導灯の位置を少しだけ変えてから手を止めた。作業台の周りが静かになると、壁に並んだ時計の音が急にはっきり聞こえ始める。
私は帳面を机に置き、カイさんの邪魔にならないよう、そっと横へ回った。彼が石を少し傾けたとき、灯りの光が細かな面に当たる。
石の表面には、砂粒よりも小さな面が無数に刻まれていた。一つ一つの向きが違うため、角度を変えるたびに光る場所が移っていく。淡い輝きが石の奥まで重なり、まるで小さな夜空を閉じ込めたようだった。
私は息をのんだ。十日間で砕けた十四個の刻石も、加工するところをずっと見てきた。けれど、こんなに細かく、しかも整った面を持つ石は一つもなかった。
カイさんが、拡大鏡を少し持ち上げた。火傷の残る指先が石の縁へ近づき、触れる直前で止まる。包帯を巻いた指が、かすかに震えていた。
「……お師匠様の、削り方なのでしょうか」
私は思わず尋ねた。カイさんは石から目を離さず、ゆっくり頷く。いつもなら何か一つは言い返す人なのに、今は言葉を探しているようだった。
やがて彼は石を布の中央へ置き、もう一度拡大鏡をのぞいた。細かな面が灯りを受け、金色と白い光を静かに返している。
「……星削りだ」




