第10話 師匠の名
白い粉が、作業台の上に小さな山を作っていた。
カイさんは閉じた手をしばらく見つめ、それから、指の間に残っていた粉を布で拭った。せっかく巻いた包帯にも、細かな白い粒が入り込んでいる。窓から差す夕日を受けると、その粉はまだ石の欠片だった頃のように、かすかに光って見えた。
私は入口の机に置いていた帳面を持ち上げたまま、動けずにいた。朝から聞こえていた刃の音が止まると、壁に並んだ時計の音ばかりが大きくなる。いつもなら平気で口を挟むピップも、今日は作業台の向こうで黙っていた。
「ピップ。今日はもう帰れ。そこのパン、持ってっていいぞ」
カイさんが、ようやく口を開いた。いつものようにぶっきらぼうだったけれど、声が少しかすれていた。
「え、でも親方、それは親方の昼飯だろ。おいら、さっき食べたし」
「いいから。今日はもう仕事はない。暗くなる前に帰れよ」
ピップはカイさんの顔と、作業台の白い粉を見比べた。何か言いたそうに口を開いたけれど、結局、丸パンを両手で抱えて引き下がる。戸口でこちらをちらっと振り返り、それから静かに扉を閉めた。
あの子が扉を静かに閉めるところを見たのは、たぶん初めてだった。いつもなら勢いよく出ていくので、壁の時計が一つくらい揺れるのに。ミアも何も言わず、窓際の椅子へ移ると、外の通りへ顔を向けた。私たちの話が聞こえないふりをしてくれているのだろう。
カイさんは拡大鏡を額から外した。金具が作業台に触れて、小さく音を立てる。彼はそのまま少し俯いていたけれど、やがて椅子を引き、私へ向き直った。
「悪い。十日じゃ直らない」
覚悟していたはずの言葉だった。それでも、本人の口から聞くと、胸の奥が少し重くなった。
「……そうですか」
「驚かないのか。あんた、ずっと今日まで待ってただろ」
「はい。ですが、刻石を十四個もお買いになっていましたので、うまくいっていないことは分かっておりました。部品屋さんの請求書は、すべて帳面に写しておりますから」
私は帳面を開き、今日つけたばかりの行を指で示した。最初の頃は十一個だった刻石が、今日までに十四個になっている。直さなければならない石は三つだけだから、数字は初めから合っていなかった。
カイさんはその欄を見て、わずかに口元を動かした。笑いそうになったのかもしれない。けれどすぐに目を伏せ、布の上に置かれた星時計へ視線を戻した。
「……帳面は正直だな。俺よりずっと」
何と返せばいいか分からず、私は鉛筆を持った手を下ろした。たしかに、昨日も一昨日も、私は修理が順調かどうかを尋ねていた。そのたびにカイさんは「間に合わせる」と言って、また石を削り始めたのだ。
責めたい気持ちがないわけではなかった。十日で直ると聞いたから、私は毎日ここへ通ってきた。でも、目の前に積もった白い粉を見ると、その言葉をすぐに口にすることはできなかった。
「蓋のひびは直せる。中の組み方も分かってる。そこまでは、師匠の仕事を見て覚えたんだ」
カイさんは時計の文字盤をこちらへ向けた。ひびの跡を細い銀で継いだ蓋は、初めて見た日よりずっときれいになっている。蓋の下では七つの魔石が並び、最初の四つだけが淡い光を保っていた。
「だけど、五つ目から先は別だ。普通に削った石をはめても動かない。師匠の秘伝の削りで作らないと、あの仕掛けには合わないんだよ」
カイさんの指が、黒くなった三つの石の上で順に止まる。
「星削り、月削り、日削り。三つとも違う技だ。覚えた職人が弟子にだけ教えるもので、図面を見ただけじゃ分からない部分もある。……裏蓋の印、覚えてるか」
「三日月と、点が三つですね」
「ああ。あの点は、三つの削りを使える職人の印だ。師匠は全部できた。だから、あの時計にも印を打てたんだ」
私は裏蓋に刻まれた小さな印を思い浮かべた。使用人通路で、カイさんが初めて目を留めた場所だ。ずっと飾りだと思っていた三つの点に、そんな意味があったなんて。
工房へ初めて来たとき、カイさんは七つの石を一つずつ調べ、これが錠前の仕掛けだと教えてくれた。その説明には迷いがなかった。だから私は、彼なら最後まで直せるのだと、何の疑いもなく思っていた。
「カイさんは、その三つの技を、お師匠様から教わったのではないのですか」
「……教わりきってない」
カイさんは時計をそっと布の上へ戻し、椅子の背にもたれた。十日間ほとんど眠っていないせいか、目の下に濃い影がある。けれど、その目は今、私の顔ではなく、壁の古い時計の一つを見ていた。
「師匠が亡くなったのは十年前だ。俺は十四だった。弟子になって二年で、ようやく刃の持ち方を覚えたところだったんだよ。三つとも削るところは見た。何度もな。でも、ちゃんと教わる前に師匠が倒れた」
私は黙って聞いていた。十四歳のカイさんがどんな少年だったのか、私には想像することしかできない。ただ、今目の前で何度も石を削り直している人が、当時は刃の持ち方を覚えたばかりだったのだと思うと、何だか胸が痛くなった。
「教わった手順は覚えてる。刃の角度も、だいたいはな。けど、石によって違うところがある。師匠なら指先で分かったんだろうが、俺にはまだ分からない。今日のも、最後のところで割れた」
カイさんは布に巻かれた指を開いた。包帯の端に、石の粉が白く残っている。私が手当てをした日より、傷が増えているように見えた。
「それでは、十日で直せるとおっしゃったのは……」
「見栄だ」
今度は、迷わずに答えが返ってきた。
「貴族の令嬢が、耳飾りまで外して頼んできたんだ。できないとは言いたくなかった。十日あれば、削ってるうちに思い出すかもしれないと思ったんだよ。……結局、思い出さなかったけどな」
最後の言葉は、机に落ちるように小さかった。カイさんは椅子から立ち、作業台の隅に散った粉を布で集め始める。一度手を止め、また同じところを拭いている。もう粉は残っていないのに。
私は星時計を見下ろした。母から受け取った日のことを、また思い出していた。あの人はこれを「困ったときに開けなさい」と言って渡してくれたけれど、開け方は教えてくれなかった。どうしてなのか、何を入れたのか、今となっては母に尋ねることもできない。
カイさんにも、尋ねられないことがあるのだと思った。師匠が亡くなったあとで、あの刃はどの角度だったのかと聞いても、答えは返ってこない。それでも十日間、毎日同じ作業台に座り続けていたのだ。
カイさんは作業台の引き出しを開け、小さな布包みを取り出した。
「前金は返す。悪かった」
そう言って、机の上で布をほどく。そこには真珠の耳飾りが二つ、並んでいた。夜会の晩、使用人通路で外した片方と、翌日この工房へ来たときに渡したもう片方だ。
白い真珠が夕日に照らされ、古い木の机の上に丸い影を作っている。私は思わずそれを見つめた。てっきり売って、材料費か工賃に充ててもらったものだと思っていたのに、金具まできれいなまま残っている。
「……売っていらっしゃらなかったのですね」
「売りに行く暇がなかっただけだよ。だから、返せる。修理はここまでだ」
カイさんは布の端を寄せ、耳飾りを包み直そうとした。いつもなら小さな部品をつまむ指が、今日は思うように動かないらしい。金具が一つ布に引っかかり、彼が眉を寄せる。
私はその手に目を留めた。包帯の下には、石を削ってできた火傷がある。手当てをしたとき、少しでも楽になるようにと、布の巻き方を何度も確かめた手だった。修理を続けてほしいからだけではなく、傷が増えるのを見たくなかったのだと思う。
「カイさん。申し訳ありませんが、お受け取りできません」
「……あんた、話を聞いてたか? 俺じゃ直せないって言っただろ」
「はい。十日では直らない、と伺いました。もう直せないとは、おっしゃっていません。それに、当工房の帳簿では前金の返金を受け付けておりません。帳場の私が決めました」
カイさんが顔を上げた。しばらく私を見てから、あきれたように眉を寄せる。
「ここは俺の工房だぞ。勝手に決めるなよ」
「存じております。ですから、帳場を預かっております。前金をお返しして修理を終えるのでしたら、その分も帳面に記さなければなりませんが、私はまだ依頼を取り下げておりません」
カイさんは口を開きかけ、結局何も言わなかった。私が最初にここへ来た日、彼は客がいると気が散ると言っていた。それなのに今は、帳場まで任せてくれている。だったら、預かった仕事を途中で終わりにするのは、帳場としても困る。
私の言い分が正しいかどうかは、少し怪しい。何しろ、前金の返金を受け付けないという決まりは、今ここで作ったばかりだ。でも、カイさんが黙っているのだから、ひとまずこの件は私の勝ちということにしておこう。
私は布包みを机の向こうへそっと押し戻した。カイさんはしばらく真珠を見ていたが、やがて包み直して引き出しへ戻した。そのあとも、引き出しの取っ手に指をかけたまま動こうとしない。
「……あんたは、変わってるな。直るかどうかも分からない物に、まだ金を払ったままでいいって言うのか」
「大切な時計ですから。直る方法が残っているなら、もう少し試したいんです。ただし、カイさんのお手がこれ以上傷つくのは困りますので、次は別の方法を考えたいと思います」
私はそう答え、入口の机へ戻った。自分の帳面の隣に置いていた、もう一冊を取りに行くためだ。
古い革表紙は、何度も開かれたせいで角が柔らかくなっている。最初にこれを見つけた日、私は仕事の記録が途中で途切れていることに驚いた。今ではその理由も知っている。丁寧な字で帳面をつけていた職人ルゥは、十年前に亡くなったのだ。
私は二冊を作業台に並べた。自分の帳面と、ルゥさんの帳面。新しいほうの紙はまだ白く、古いほうは日に焼けて黄ばんでいる。カイさんが、不思議そうにその二冊を見下ろした。
「何をする気だ」
「お師匠様が遺したものを探します。まずは、お客様の記録からです」
◇
古い帳面を開くと、小さく丁寧な字が、頁いっぱいに並んでいた。
日付、客の名前、預かった品物、直した箇所、それから受け取ったお代。字はどれも少し右に傾き、行の間隔まできれいに揃っている。私は初めて読んだとき、この人となら帳面の書き方について一度ゆっくり話してみたかったと思った。
その頁を、カイさんのほうへ向ける。彼は立ったまま腰をかがめ、私の指が示した行をのぞきこんだ。
「ブランシュ子爵夫人の呼び鈴は、ルゥさんが作られた品でしたね。ほかにも、こちらのお客様の時計には、同じ三日月の印がありました。ネルのおばあ様の時計もそうでしたし、壁に残っている時計にも、同じ印がたくさんございます」
「ああ。師匠が直した物だ。持ち主が取りに来る前に、師匠がいなくなった分もある」
カイさんの声が、少し低くなった。私は頷いて頁をめくった。何十頁にもわたって、客の名前と品物が続いている。これだけの仕事を引き受けていたなら、今も王都のあちこちに作品が残っているはずだ。
「その中に、星削りや月削り、日削りを使った物があるかもしれません。ルゥさんがどんなふうに石を削られたのか、完成した品を見られれば、手がかりになるのではないでしょうか」
カイさんの手が、帳面の上で止まった。さっきまであきらめたように伏せていた目が、並んだ文字を追っている。
「……見本があれば、削った跡は分かるかもしれない。でも、何が残ってるかなんて、今から探しても」
「お客様のお名前は、ここにあります。一軒ずつお訪ねして、お話を伺いましょう。もう引っ越された方もいるでしょうけれど、今も王都にお住まいの方なら、訪ねる方法を考えます」
「貴族の屋敷ばかりじゃないぞ。師匠の客は、坂の下にも東区にもいた。俺だって、全部は知らない」
「でしたら、なおさら一人では大変ですね。交渉と帳簿は、私の得意なことですので、そちらはお任せください」
そう言いながら、私は新しい帳面に欄を作り始めた。お客様の名前、品物、現在の持ち主、訪問日、それから確認した結果。まだ分からない欄は空けておき、まず最初の数行に、読める名前だけを写していく。
書いているうちに、次に何をすればいいのか少しずつ見えてきた。私は、壊れた物を直すことはできない。でも、古い帳面から必要な手がかりを探し、持ち主に会いに行くことならできる。母の時計のために、自分にできる仕事がまだ残っているのが嬉しかった。
カイさんは私の横で、しばらく頁を見ていた。やがて、古い帳面の一行に指を置く。
「……その名前、覚えてる。昔の客だ。どんな物を預かってたかは、もう忘れたが」
「でしたら、その方も候補に入れましょう。覚えていらっしゃることは、あとで一つずつ教えてくださいね」
「俺の記憶も当てにならんぞ。十年も前だ」
「構いません。分からなかったことも記録いたしますので。お師匠様の作品を、探しましょう」
口に出すと、ようやく自分でもその方法が現実味を帯びてきた。もちろん簡単ではないだろう。すでに持ち主が亡くなっていたり、品物が壊れてしまっていたりするかもしれない。それでも、目の前の石を何度も砕くだけでなく、試せることがある。
「それから、一つ気になることがございます。グランツ侯爵閣下も、ルゥさんの作品を買い集めていらっしゃいます。ブランシュ子爵夫人のお話では、去年からいくつも買おうとなさっていたそうです。私たちが探す前に、ほかの方へ渡ってしまうかもしれません」
カイさんは顔をしかめた。侯爵がこの工房へ来た日のことを思い出したのだろう。あのときも、星時計の刻印を見ていた。
「……あの鷲の旦那か。何をそんなに欲しがってるんだか」
「理由は分かりません。ただ、同じ品物を探すのなら、こちらも急いだほうがよろしいかと存じます」
私は帳面を少しカイさんのほうへ寄せた。彼は書きかけの欄を見つめたあと、髪をがしがしとかき回した。十日間ずっと石に向かっていた手が、今は帳面の文字をたどっている。それだけでも、さっきとは違って見えた。
「……十日どころじゃなくなるぞ。何か月かかるか分からない。途中で何も見つからないかもしれないし、それでもいいのか」
「はい。時計をお預けしたままにはできませんが、できるだけ毎日お持ちします。お客様を訪ねる日は、私もご一緒しますので」
「毎日通うのか。これからも」
カイさんは、私の顔を確かめるように見ていた。私は頷き、開いた帳面を押さえる。
「もちろんです。お約束しましたので」
答えた声が、思いのほか明るくなった。
おかしい。修理が十日で終わらないと言われたばかりなのに、私は明日もこの工房へ来られると聞いて、安心している。母の形見が直るまで何か月もかかるのなら、娘としては困るはずだ。帳場の人間としても、納期の延長は立派な問題である。
それなのに、どうして嬉しいのだろう。
窓からは春の夕日が差し込み、作業台の端まで赤く染めていた。顔まで熱くなった気がして、私は慌てて帳面へ目を落とす。さっきからずっと立っていたせいだろうか。それとも、昨夜あまり眠れなかったからだろうか。
たぶん疲れているのだ。今夜は早く寝よう。
「……なんだ、その顔。まだ何か計算してるのか」
「はい。修理の日程を考えておりました。今は期限を決められませんので、そのように記録いたします」
私は新しい頁に鉛筆を走らせた。尖った芯は引っかかることなく、きれいな字を書くことができた。
『修理期間 未定』
カイさんがその字をのぞきこみ、短く息を吐いた。
「……好きにしろ。俺も、昔の客のことを思い出してみる」
「ありがとうございます。では、明日からもよろしくお願いいたします」
私は帳面を閉じて、古い帳面と並べて作業台の端へ置いた。夕日に照らされた二冊の表紙が、少しだけ色を変えて見えた。
◇
窓の外の影が長くなり、工房の中もだいぶ薄暗くなっていた。いつの間にか坂の上の店では戸締まりが始まり、時折、鎧戸を閉める音が聞こえる。ミアは外套を腕にかけ、私のほうへ戻ってきた。
カイさんは十日ぶりに、大きなあくびをした。拡大鏡を外したままの顔は、先ほどよりも少しだけ眠そうに見える。ようやく今日は休んでもらえるかもしれないと、私が思ったときだった。
ぐう、と低い音がした。
最初は壁の時計が鳴ったのかと思ったけれど、音は作業台のほうから聞こえていた。カイさんが一瞬動きを止め、何も置かれていない机の隅を見た。そこには今朝、ネルが持ってきた丸パンがあったはずだ。
丸パンは、さっきピップに渡してしまった。
カイさんはゆっくりと天井を仰いだ。私は笑ってはいけないと思いながらも、どうしても口元を押さえてしまう。
「ネルが教えてくれました。カイさんの『あとで』は、だいたい明日なのだそうですね。お食事も、あとで召し上がるおつもりでしたか」
「……食うつもりはあったんだよ。今朝から忙しくてな」
「存じております。ただ、今日はもう石を削らないのでしたら、何か召し上がってからお休みになってください。明日のお仕事にも差し支えますので」
「……あんた、帳場なのか、俺の世話係なのか、どっちなんだ」
「帳場です。職人さんが倒れたら、修理代をお預かりしているお客様にご迷惑がかかりますから」
カイさんはまた何か言おうとしたが、もう一度お腹が鳴ったので、結局口を閉じた。今度こそ私も少し笑ってしまった。
「お嬢様、そろそろお帰りの時間です。今日はもう、外套をお召しください」
ミアが私のそばへ来て、外套を広げてくれた。ずっと窓際にいたはずなのに、話の内容は聞こえていたらしい。私が袖を通すあいだ、ミアはカイさんのほうを一度だけ見て、それから声を落とした。
「見栄で十日と言ってしまったのは、よくないと思います。でも、石を十四個も砕くのは、見栄だけじゃできませんよね。あたし、そこは少し分かる気がします」
私は外套の釦を留めながら、ミアを見た。初めてここへ来たときには、カイさんが長椅子で眠っているだけでも驚いていたのに。今は仕事ぶりを見て、考えを少し変えたのだろう。
「そうね。私も、そう思うわ」
答えると、ミアは小さく頷き、手提げを渡してくれた。私は胸元に星時計がないことを確かめ、作業台へ目を向ける。時計はまだ布の上にあり、カイさんが片づけている途中だった。帰るときには受け取らなくてはいけない。
そう思って一歩踏み出した、そのときだった。
こつ、こつ、と石畳を叩く音が、開いた窓から聞こえてきた。
誰かが杖をついて、坂を上ってくるらしい。足音はゆっくりしていて、少し歩くたびに杖の先が地面を確かめている。ピップが駆け戻ってきたときの賑やかな足音とは違うし、侯爵家の馬車の車輪の音でもない。
音は青い扉の前で止まった。短い間があってから、今度は扉の板を二度、こつ、こつ、と叩く。
カイさんが作業台から顔を上げた。私はミアと顔を見合わせ、手提げを入口の机へ置いた。戸口まで歩いて取っ手に手をかけると、外から少し冷たい夕風が吹き込んでいるのを感じた。
扉を開けると、小柄な老婦人が立っていた。
薄い外套を着て、片手には使い込まれた杖を握っている。夕日の光が顔へまともに当たっているのに、まぶしそうにもしない。閉じたままの目を工房の中へ向け、私のほうに少しだけ顔を傾けた。
老婦人は、杖の先で敷居を軽く確かめてから尋ねた。
「ルゥの店は、ここかい」




