第9話 鈴原 昭、遊びで捨てるなら、対価が要る
篠宮玲がポケットから携帯を出し、番号を回す。目は私から外れない。
「上がれ」
切って一分もせず、ノックが三回。
一ノ瀬が金属のアタッシュを提げて入り、玲の口角の血を一目見て眉を上げ、賢明にも何も言わない。
箱の中は書類の束だ。
一番上を抜き、私の前へ出す。
親子鑑定ではない。内容証明でもない。
所有権移転。都心のフラット、三百八十平米。譲渡人欄はすでに彼の名、譲受人は空欄。
「一ノ瀬先生」
我慢できずに口を開く。
「今はそれも副業?」
「仕方ない」
肩をすくめる。
「こういう幼なじみを持った」
「書け」
篠宮玲が言う。
口を開く。
「自分が何をしてるか、わかってる?」
「わかってる」
一枚目を書き終えると、二枚目を抜く。篠宮グループの株式譲渡。受益者:鈴原 昭。
「狂ったの」
「書け」
「書かない」
ペンを置く。
「篠宮は家の業よ。お母さんは二十億まで出して守った。それを私に渡す? 気で殺すつもり、それとも私を殺しに来させるつもり」
「両方だ」
彼が言う。
「……」
「お前を五年奪った」
私を見て、声は平らだ。
「俺は家を奪う。清算だ」
その場に凍った。
「責任、取りたくないのか」
突然聞く。
「は?」
「抱いて逃げる。五年」
彼が言う。
「鈴原 昭、遊びで捨てるなら、対価が要る」
「……口、五年前より達者ね」
三枚目は入学願書。市内一の私立一貫校。生徒氏名欄は、すでに印字されている——
鈴原 煌。
「来年九月、小学校だ」
篠宮玲が言う。
「席は、先に押さえた」
その紙を見つめ、指が震える。
家から株、子ども学校まで。
十五歳のクラスまで、考えてある。
手を上げ——
手首を掴まれる。
「殴っていい」
間を置く。
「手は痛む」
「篠宮玲!」
「選べ」
画机の前に閉じ込め、両腕で両側を支える。
「今、書け。さもなくば、書くまでキスする」
階下でヘッドライトがカーテンの隙間を明るく掃く。
急ブレーキ。エンジンは切らず、夜に唸る。
篠宮玲の眉が寄る。
私を放し、窓辺で端を開ける。
一目見て、カーテンを戻した。
「誰」
「母さんの車だ」
携帯がそのとき光る。
数秒画面を見て、開かず、見ているだけ。
「何て」
「母さんが——」
顔を上げ、声は静かだ。
「明日の昼、篠宮本邸。お前に会う、と」
笑った。一声。
いいだろう。
五年前に終わらせなかった喧嘩も、区切りが要る。
「ちょうどいい」
屈んでハイヒールを履き直す。
「私も、一言借りがある」
「何を」
「あなたの息子は」
私は言った。
「売ってない」
ドアまで行き、ノブに手をかけ、ふと止まる。
「篠宮玲」
「ん」
「梧桐の樹冠」
振り返らない。
「会う前に描き切ったら、許さない」
後ろが、二秒、静かになる。
それから低く笑った。
「わかった。残しておく」
扉を押して出る。夜風が入り、テレピンと薄荷の煙草が、階下までついてきた。




