第8話 相変わらずだ、痛いと、噛む
「あなたのお母さんが、会いに来た」
口に出して、自分でも驚いた。言うつもりはなかった。
篠宮玲の全身が強張る。
「五年前の冬、喫茶店に呼び出された。小切手を一枚渡された。二十億。あなたから離れろ、と」
一字一句、ゆっくり言った。
「あなたが私のために篠宮を継がない。二百年続いた家を、息子の手で潰させるわけにはいかない、と言われた」
顎の線が、鋭い一本になる。
「だから受け取ったのか」
「受け取ってない」
目を上げる。
「小切手は裂いた。裂いてから、あなたに会いに走った。全部、そのまま伝えるつもりだった。寮の下で、三時間立った」
「降りてきた。一人じゃなかった」
瞳孔が、ぐっと縮む。
「綾瀬 凛」
その名を出す。
「芸術科の綾瀬凛。腕を組んで、あなたが鞄を持っていた。車に乗った」
「それは——」
「何だったか、要らない」
遮る。
「知ってるのは、小切手を裂いて、空腹で雪の中に三時間立って、見たのがそれだったこと。それから、私は去った。翌日、妊娠がわかった」
「知らせようとした。本当に。電話をかけた——」
声が震えるのが自分でわかる。止めない。
「出たのは女だった。玲は風呂だ、と」
顔が、一瞬で真っ白になる。
口を開いても、音が出ない。
笑った。泣きより醜い笑いだったはずだ。
「見て。二十億いらない。欲しかったのはあなた一人。なのに、あなたは私一人じゃなかった」
「だったら、少なくとも、自分に尊厳は残す」
沈黙が部屋を膨らませ、鼓膜が痛くなる。
篠宮玲が突然、手を上げ——
拳が、耳の横の壁に落ちた。
轟音。石灰がさらさら落ちる。
目を閉じ、避けない。
息が荒く顔に当たり、酒と薄荷の煙草が混ざる。
「あの電話は」
声が潰れている。
「綾瀬が取った。俺の携帯だ」
「父の誕生日で、運転手が連れてきた。プレゼントを買いに付き合っただけだ。実家に戻り、酒の匂いのまま風呂へ入って、携帯は外套の中」
「風呂だ、と彼女は言った」
「その日、実際に風呂に入ってた」
私を見据える。
「切り終えて履歴を消し、俺には一言も言わなかった。翌日かけ直すと——お前の番号は、もう空番だった」
下唇の内側を噛み、血の味がした。
「寮の下だ」
一字ずつ絞る。
「降りたのは、父が寄越した運転手が待っていて、実家へ戻らなきゃいけなかったから。綾瀬は運転手が連れてきた。俺が連れてきたんじゃない。乗る前、お前の棟のほうを一目見た——」
止まる。
「来てない、と思った」
何かが頬を伝う。
一滴、手の甲に落ちる。
温かい。
彼のではない。
私のだ。
五年。この人のために泣くのは、初めてだった。
「昭」
額を合わせ、声が砕けている。
「聞かずに、死刑を宣告した」
手が上がり、指腹が目尻に乗る。そこは濡れている。
それから顔を寄せ、吻が落ちた。
探りではない。奪いだ。
五年の恨と、五年の執着。深くて、容赦がない。押しても動かない。舌が入り、私は噛んだ——
血の味が、二人の口の中で弾ける。
低く呻いて半寸離れ、口角の血を舐め、笑った。
「相変わらずだ」
彼が言う。
「痛いと、噛む」
息が切れ、足が立たない。




