第7話 言っただろう、検査する、と
夜八時、いつもの場所。
大学の頃、篠宮玲と住んでいた部屋だ。
鍵は古い、銅の。回すと渋い。
扉を押すと、テレピンの匂いが溢れた。
明かりはない。カーテンが引かれ、隙間から向かいのネオンが床を赤と緑に切っている。
手で閉めて、カチャリと鳴る。
「靴、脱げ」
闇の中から、篠宮玲の声が浮かぶ。
窓枠に座り、片脚を屈め、指の先に一点の紅が点滅している。
玄関にスリッパが一足。ピンクの、うさぎ耳。左耳が半分欠け、私が歪な縫い目で繕った。
五年前、スーパーのセールで買った、五百円。
まだ、ある。
「入れ」
居間は狭い。古いソファ、一枚の画机。机にはチタンホワイトが半本、狼毫が一本、軸は歯型だらけ——締切に潰れたときの癖だ。
スケッチ紙が一枚、画鋲で留めてある。
窓外の古い梧桐だ。幹だけ描いて、樹冠が空いている。
四年生の終わりに、描きかけのままだ。
「毎月、来てたの」
「毎週だ」
煙草を消し、窓枠から下りる。着地は軽い。
「置いていった歯ブラシは、まだコップの中だ」
洗面の扉が開いている。コップに二本、青とピンク。
「洗いかけの靴下は、ベランダで五年干した。風化してる」
画机の前で止まり、スケッチを指ではじく。
「これは、毎晩二筆足した。樹冠は、もうすぐだ」
指先が掌に食い込む。
歩いてくる。一歩、二歩。
革靴の音が床に脆く当たる。
下がり、背が壁に着く。涼みが肩甲骨から滲む。
目の前で止まる。距離は三十センチもない。
「検査だ」
彼が言う。
「何を」
「言っただろう」
顔を寄せ、鼻先が触れそうになる。
「検査する、と」
指が鎖骨に乗り、腹は冷たい。肩の窪みで止まる。
「痩せた」
顔を逸らす。
顎を摘まみ、正面へ戻される。
「逃げるな」
もう片方の手がTシャツの裾から入る。全身が強張った。
掌が張り付き、熱い。肋骨を一本ずつ数え、三本目で止まる。
「ここ、昔は肉があった」
奥歯を噛む。
指はさらに下り、腰の側面へ滑る。ごく浅い跡——きらを産むとき、麻酔の針穴だ。
指腹が強く押し、平らに均そうとするみたいだった。
「それと、ここだ」
いきなり体を回される。
両手で壁を支え、石灰の粒が掌に食い込む。
指が後腰の窪みに落ちる。親指が沈み、膝が折れ、滑り落ちそうになった。
「篠宮玲——」
「静かに」
胸が張り付き、壁と彼の間に包まれる。顎が肩の窪みに乗り、息が耳の後ろに当たる。
後頸の産毛が、一面に立つ。
「五年だ」
彼が言う。
「千八百日以上。お前はこの街で、俺の子どもを育ててた」
「部屋を借りるのも、仕事を探すのも、熱を出したきらを抱いて救急へ走るのも、見てた——」
血が凍る。
「初めて予防接種に連れてったとき、四時間並んだ。きらが泣いて、お前は子守唄を、声が潰れるまで歌った」
声は平坦で、平坦さが怖い。
「俺は車の中にいた。病院の外だ」
壁を支える指が丸まり、爪が石灰を削って白い線を残す。
「監視してたの」
声が乾いている。
耳垂を軽く噛まれ、全身が震えた。
「あんなにきれいに消えた。説明の一つも残さなかった。探すのに時間がかかった。見つけたときは、もう出産入院してた」
「入りたかった。看護師が言った。家族のサインが要る、と」
長く止まる。
「俺は家族じゃなかった」
彼が言う。
「サインする資格すら、なかった」
体を正面へ戻される。仰いで見るしかない。
目は充血し、顎には青白い無精ひげ。朝の、一点の狂いもない社長ではない。
五年前、アトリエで寝ていた篠宮玲だ。
「なぜだ」
聞く。
「鈴原 昭、なぜ、だけでいい」




