第17話 昭、父さんの工場は経営失敗じゃない
翌朝七時半、篠宮玲がドアを叩く。
書類袋を提げ、目の下は青黒い。
「寝てないの」
「寝た」
袋を卓に置く。
「四十分」
開ける。
一枚目は銀行の流れ。
六千九百万、三回に分けて入金。期間は八ヶ月。
備考欄の字が、一行ごとに目を刺す。
【鈴原氏 協力費】
【鈴原氏 慰撫費】
【残金】
残金。
中絶は成らず、子どもが生まれた。
だから綾瀬家は、残を削った。
紙を握り、指先が冷たい。
「これもある」
二通目を押し出す。
企業調査。父の小さな工場が五年前に潰れた全経過——
得意先を新会社に途中で奪われ、三社、同時期。
銀行が突然融資を引き、理由は「経営リスク評価」。
税務が二度、帳簿を見に来た。
「得意先を奪った会社の」
声は平らだ。
「登記上の法人は、綾瀬凛の叔父だ。融資を引いた銀行の副頭取は、去年、綾瀬家の会社の副社長に移っている」
「昭、父さんの工場は経営失敗じゃない」
「綾瀬家が最初から最後まで、組んだ局だ」
居間は静かだ。
きらはまだ起きていない。
ソファに座り、二通を、頭から末尾まで、三度読んだ。
それから、決めた。
「実家へ戻る」
「付き合う」
「いい」
書類を袋へ戻す。
「うちの家の事」
見て、争わない。
厨房へ入り、湯を沸かし、昨夜食べ残した粥の半分を電子レンジへ入れる。
「新幹線は手配した。九時半だ」
言う。
「車は階下。USBは袋の内張り。証拠の電子は全部入ってる」
「それと——」
間を置く。
「県庁所在地にホテルを取った。家には上がらない。邪魔しない」
「でも出る前に、一度、向かいの道を見てくれ」
「俺は、あそこに停めてる」
見る。
五年。この人は、まだこうだ。
刃は全部私の手に渡し、振り返れば見える位置へ退く。
「篠宮玲」
「ん」
「ありがとう」
笑って、きらの鞄のファスナーを閉めてくれる。
新幹線二時間、タクシー四十分。
実家は隣県の小都市だ。
きらは初めてで、窓に顔をつけて外を見る。
「ママ、ここの空、低いね」
新しい団地の前で停まる。
一秒、仰いだ。
出ていくとき、両親は紡績工場の古い社宅、六階、エレベーターなしだった。
今は、この団地。エレベーター付きの洋風、棟間隔は馬が走れるほど広い。
六千九百万が、小都市で何を意味するか。
このエレベーター付きと、階下の区画に停まる真新しい白いSUVだ。
「ママ?」
きらが手を引く。
「どうして止まってるの」
「大丈夫」
息を吸う。
「行こう。おばあちゃんとおじいちゃんに会う」
開けたのは母だった。
新しいセーター、パーマ、私を見た瞬間、目が先に光る。
それから膝元のきらを見る。
その顔——眉、目、口を結ぶ形——
笑いが、少しずつ硬直した。
「……これが、子ども」
「鈴原 煌」
私は言った。
「息子」
「おばあちゃん、こんにちは」
きらが顔を上げ、礼儀正しく、距離がある。
手が上がり、頭を撫でようとして、きらがさりげなく私の後ろへ半歩隠れる。
手が、宙で止まる。
居間で、父がソファから立ち上がる。真新しい部屋着、腹は五年前より一回り丸い。
「よく戻ったな」
顔を張り、父親の構えを出す。
「電話一本もなく、五年——」
「パパ」
遮る。
「子どもを連れてる。玄関は、場違いでしょう」
詰まって、体を横にずらし、道を開ける。
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