第七章 物的証拠は現場の中に
「ふうーっ」
気の抜けた炭酸のようなため息とともに、玄関ドアが開かれた。中から出てきたのは恰幅のいい刑事だった。
「小山警部補」
「うわぁ!阿久馬、またお前か、やめろ、やめてくれ」
まだ何もしてないのに、小山警部補はめまいを覚えたようだ。たくさんの白髪で灰色っぽく見えるチリチリ髪を、半狂乱になって振り回している。あと、またってなんだ。
「検視結果を教えてください。遺族の許可はとりました」
「お前の推理を聞いとるとまた時間外が増える。勘弁してくれ」
小山警部補は耳を押さえてブルブル震えている。刑事という割にユーモアあふれる人かもしれない。しかし、どんだけ迷惑かけたんだ。
「なら遺族から直接聞きます」
「鬼かお前は、それだけはやめろ」
フィギュアスケート選手顔負けのターンを見せた先輩の肩を、小山警部補がつかむ。
「まったく……また臭うんか?」
ウインナーのように太く、ひび割れた餅のようにがさがさの指で、小山警部補が丸眼鏡を押し上げる。髪色のせいで勝手に年配の刑事だと思い込んでいたが、目尻のシワから察するに、四十代半ばのように見えた。まさか阿久馬先輩のせいで白髪が増えたとか、ないよな。
「はい」
張りに張った胸に手を当て、先輩は宣誓する。
「一応聞いてみるが、臭わん時はないんか」
「もちろんあります」
絶対ウソだ。小山警部補の顔はそう言っていた。
しかし、このままでは先輩は確実に遺族に突撃する。そう判断したのだろう――僕だってそうする――小山警部補は検視結果を教えてくれた。
「死因は頸部を圧迫されたことによる窒息死。溢血点もあった。直腸温から、死亡推定時刻はお前の言う通り、お前たちが被害者を発見した時間から、どれだけさかのぼっても三十分から一時間前ってとこだな」
先輩がじぃ、とこっちを見ている。しまった、僕は慌ててメモを取る。
「凶器は?」
「まだ見つかってない。あいつが――」
存外優しそうな目で、小山警部補はミニパトの方を睨む。
「――どっかに隠したんじゃろう、そのうち吐くわ」
それだけ言うと、小山警部補はすたすた歩き始めた。
「待ってください」
すごい嫌そうな小山警部補。気持ちはわかる。
「あの男は犯人ではないかもしれません」
「被疑者じゃ」
「自認したんですか?」
「否認しとる」
「知ってます」
なんで聞いたんだよ。小山警部補の顔はそう言っていた。
「じゃあ逆に聞くがな阿久馬、凶器を隠すようなやつが、正直に話すと思うか?」
ちりちりの髪をかきむしりながら、小山警部補。
「被害者に対するストーカー行為で接近禁止命令を受けとる。逆恨みによる犯行じゃよくあることじゃ……くそ、また警察に批判が来る」
「誤認逮捕となれば、それこそ余計な批判が来るのでは?」
「ベランダの手すりから足痕跡が出とる。正式な鑑定はまだじゃが、あいつの履いとる靴とよぉ似とる。なんかの限定物なんじゃろう?間違いない」
光明が差した。としか言いようがない。本来、人に使う言葉ではないが、この時の先輩の顔色の話だ。
アメジストの瞳に今までとは違う光が宿っている。僕がまだ知らない光だ。興奮しているのか、喜びに満ち満ちているのか、それともあぁ、ともかく、先輩はペコちゃんキャンディをバキッと噛み砕き、その破片と唾とを一緒にまき散らしながら小山警部補に食らいついた。
「指紋は?」
「出とらん。じゃがストーカー、手のひらに紐の痕がついとらんかった。厚手の手袋か何かしとったんかもしれん」
「手袋もどこかに隠滅したと?」
「あぁ」
小山警部補はしかめっ面になっていた。女子高生のものとはいえ、唾を吐きかけられて喜ぶ人はいない。と、まだピュアだったこの時の僕はそう思っていた。
とにもかくにも、名探偵阿久馬志水は水を得た魚のごとく活き活きとしていた。ビチビチという効果音が先輩の背後に見えた。実際に飛び散っているのは汚らしい唾液だが。
「今の話を聞いて余計に思いました。この事件は臭います」
小山警部補にお礼を言った後――意外にも、そこだけは礼儀正しいのだった――先輩はアパートの中に戻った。目指すはもちろん友恵さんの部屋だ。途中で右に曲がる階段を上がると、わずかばかりの廊下の左右に、薄いベニヤのドアがある。その、右手側の方を、先輩はゆっくりと押し開く。
先輩のお尻を追いかけるように中に入る。
しん、とした静寂が、部屋を包み込んでいる。
心なしか、空気が冷たい気がする。
その中心は間違いなく、部屋の中央で寝かされている友恵さんだ。正しくは、そのご遺体の。
検視というものを、メスやら何やらで解剖するものだと思っていた僕は――先輩曰く、そういう検視もあるらしいが――布団にくるまれ、まるで眠るように目をつむっている友恵さんを見て驚いた。
葬祭場のそれとまでは言わないが、刑事たちはきれいに丁寧にご遺体を取り扱っているようだ。布団の中に横たえられた友恵さんは、言われなければ、今すぐにでも目を覚ましそうに見える。
「――なにしてるんですか」
何をしているのかはわかっている。なぜそうしたのかを聞きたかった。
ご遺体の傍らで膝をつき、静かに手を合わせる先輩に僕は聞いた。
「死者に対する礼を忘れてはならない。ボクの師匠の教えだよ」
掛け布団をはぐりながら、先輩は言う。
「師匠?」
「まだご存命だよ、県警の機動鑑識にいらっしゃる。大事件になればキミも会えるよ」
そうですか、一生お会いできないように祈っています。
「昔のボクは、今と違って少々やんちゃでね、それこそ、コナン君のように事件現場をうろついて、師匠に大目玉を食らったこともある」
口が裂けても言えないが、えっ、今はやんちゃじゃないと思っておられるのですか。
先輩は黒いポシェットをごそごそやって、薄手の白い手袋と、これまた薄い黄色のゴム手袋を取り出した。
「なんですか、それ」
先輩はまず白い手袋をつけ、その上から黄色のゴム手袋をはめた。
「探偵七つ道具の一つ、白手&ゴム手セットさ。ほら、君にも貸してあげよう、ゴム手だけだけど」
寄せた眉間のシワに、軽くて冷たい感触が当たる。落ちる前に両手を皿にすると、薄い黄色のゴム手がぱたりと着地する。
「指紋を残さないためですか?」
ゴム手はツルツル、というよりはサラサラとした感触だ。気持ちよくて、つい指先で撫でまわしてしまう。
「警察が現場入りする前ならそれもあるが、今回はご遺体に触れるからね、感染防止だよ」
「はあ」
「あまり意識しないことだろうから忠告しておくが、家族以外の遺体に触れる時は気を付けたまえ。どんな感染症を持っているかわかったものではない。特に、遺体の損傷が激しく、血液や体液が出ている場合は要注意だ。エイズや肝炎に感染する恐れもある」
そう言いつつ、ひるむことなくご遺体に触れる先輩を見て、僕は生唾を飲み込む。
「な、なるほど……」
先輩が指先でなぞっているのは、ご遺体の首元だ。その軌跡を目で追うと、くっきりとロープの跡がついているのがわかる。しかしそれよりも――
「あれ?じゃあなんで、阿久番先輩は人工呼吸したんですか?」
――僕は自分の頭の中にわいて出た疑問を、口にせずにはいられなかった。
だって、僕に注意するくらいだ。感染症の危険性を、阿久馬先輩はきちんと理解していたはずだ。それなのに、あの時先輩は、一切の迷いなく心臓マッサージを始め、人工呼吸までした。人に言っておいて自分が破るなんて、こんなに説得力のない話はない。
「まだ体が温かかったからね、医師なり救急隊が確認するまで、死亡したかどうかの判断を下すべきでないと判断した」
先輩は僕に背を向けたまま、四つん這いになってご遺体の観察を続ける。まるで、事件と無関係な質問なぞ相手にしちゃおれんと言わんばかりの態度だ。
だから僕はきっぱりと言った。
「そうじゃなくて」
先輩が無視できないように。僕がめったに出さない強い口調で。
「自分が感染症にかかるかも、しれないわけじゃないですか」
ご遺体を覗き込んだ姿勢のまま、先輩はピタリと動きを止めた。
僕は黙って先輩の後頭部を見つめ続ける。答えを待つ。
自分がなぜそこまでこだわったのか、今になってもわからない。記者としての本能だと思いたい。
たぶん。でも、たぶん。
僕はこの時すでに、気になって気になって仕方なかったのだ。
冷たい口調、尊大な態度、人情なんてかけらも感じさせない極めて現実的な思考。その裏にある、阿久馬志水の本心が。
ため息をつくでもなく、嫌そうな声をあげるでもなく、いつもと同じ冷静さで先輩は体を起こした。ご遺体を見つめているのか、部屋の隅を見つめているのか、僕の位置からはわからなかったが、自分の太ももに肘を預け、じっとしていた。
そして話してくれた。
「もうかなり古い話だけれど、東京の秋葉原で、無差別殺傷事件があった」
「犯人はまず、トラックで歩行者天国に突っ込んでね。五人を撥ねた。そのまま走り続けて、対向車線にいたタクシーとぶつかって止まったあとは、ナイフを持って、逃げ惑う人々を次々に襲った」
「現場は地獄絵図さ。轢かれた人、刺された人、切りつけられた人。人、人、人――警察も消防も、ただの交通事故だと思って初動が遅れていた。傷つき、倒れた人に対して、救急車の数が圧倒的に足りなかった」
「最終的にDMATまで出動することになったわけだが、それだけじゃない。専門家が到着するまでの間、命をつなぎとめようと奮闘したのは、その場に居合わせた名もなき人たちさ」
「あとになってわかったことだったが、被害者の一人がB型肝炎を患っていてね。事件から数日後、警視庁は、救護にあたった人に血液検査を呼びかけたんだ」
気が付いた時、僕は先輩のアメジストの瞳に見つめられていた。
「君はどう思う?」
知っていたさ、当然。
これでも記者を目指す者の端くれだ。戦後日本で起きた重大犯罪は、すべて目を通してきた。
知っていたさ。そう、知っていた。
知っていたに決まってるじゃないか。
本当に、先輩にそう言い切ることができるのだろうか?
「自分の手のひらから零れ落ちそうな命を目にした時、何もせずにじっとしていられるかい?」
こちらの動揺を見透かすような、先輩の目、アメジストの光。僕は答えられない。
「たぶん、すくいあげたかったんだよ」
小さな声でそうつぶやくと、先輩は友恵さんの顔に視線を落とした。決して開かれることのないまぶたに。慈悲をかける女神のように。
そのまなざしは、どこか寂しそうでもあった。
「結果として、零れ落ちてしまったとしても。すくいあげたかったんだよ、その人たちは」
「……すいません」
「ふふ、どうして謝るんだい」
「いや、変なこと、聞いちゃって……」
どうしてだろう、僕にもわからない。
ただ、自分がひどく無知をさらけ出したような、あるいは無頓着な、失礼なことを聞いたような気がした。羞恥心にも似た何かが、口をついて出たのだ。そうとしか言いようがない。
「ワダソン君は不思議な男だねぇ、そんなことを聞いてきた番記者、今までいなかったよ」
なぜだか先輩は、嬉しそうにニヤニヤしていた。
「それは失礼しました」
「優しい人間は、記者には向いていないと思うよ」
「探偵も向いてないと思いますけど」
ちょっとムカついたので、僕は言い返しておいた。
先輩はまた口角を上げた。
「おや――」
一転、真面目な表情に戻って先輩は、ご遺体の頭をすこしだけ持ち上げた。
「これはおかしいね、ほら」
僕は先輩の指し示す箇所に顔を近づけた。
「索状痕が体の前半分にしかついていない」
先輩の言う通りだ。ご遺体の首についているロープの跡は、ぐるりと一周していない。首の前半分にだけ痕があり、後ろ半分はまっさらな、どちらかというときれいな首筋になっていた。
「首を一周、ぐるっと回してないってことですか……そんなので殺せるんですか?」
「難しいが、不可能ではない。ロープの両端を持って首にあてて、そのまま、両端を床にこう、ぐっと押し当てていけば――うまく体重をかけられれば、頸部を圧迫できる。ただし被害者と対面することになる。苦しくて暴れるだろうから、かなりの力が……いや」
そういうと、先輩はもう一度索状痕に顔を近づけ、しげしげと見つめた。
「防御創がない」
「ボウギョソウ?」
ご遺体の頭を素早く――しかしそっと優しく――枕の上に戻すと、先輩はさらに掛け布団をまくり、組まれている両手を引きはがした。凝視しているのはおそらく、爪の先だと思われた。
「例えばワダソン君、今この瞬間、ボクに首を絞められたらキミはどうする」
一本一本、ご遺体の指先を念入りに確認しながら先輩。
「えっ――いや、そりゃ、嫌がりますけど」
「つくづく優しい男だねキミは。嫌がるだけかい?もうすこし詳細にイメージしてみたまえ」
「詳細に、ですか……」
「気道が狭まって息苦しくなる。全身から汗が吹き出し、視界が黒く、狭まっていく。脳が酸素を求めてもがきはじめる」
「うーん……そうなると、たぶん、先輩を殴っちゃいます」
想像上の話とは言え、女性を殴るのは気持ちのいいものではない。苦い味と言うか、モヤモヤしたものを感じながら僕は答える。
「そうだね。では、ボクがキミの後ろに回り込んで、ひも状のもので首を絞めていたらどうだい」
「手が届かないので、こう、首に巻き付いたロープを、なんとかしてはがそうと……しますかね」
「それも死にもの狂いで、ね」
先輩はしたり顔でご遺体の手を持ち上げる。なかなか動かないその指の一本を――死後硬直と言うらしい。詳細はまたいつか――むんずとつかんで無理やり開く。
「そういった状況でできるのが防御創だ。例えば本件の場合、友恵さんが生き残るには、相手を傷つけてでも引きはがすか、首に食い込んだ凶器を引きはがすか、そのどちらかしかないわけだが――まず、爪の先に何も詰まっていない」
僕は目を細めて、ご遺体の指先に注目する。どれだけ見つめても、女性特有のきれいな、磨き抜かれた爪があるだけだ。
「ほんとだ、きれいですね」
「相手と対面した状態で首を絞められていたと仮定するならば、手が届く距離に被疑者がいたことになる。友恵さんは必死になって相手を押しのけようとするだろう。そうすると、相手の腕や顔をひっかくことになる。本来ならば、爪の隙間に相手の皮膚片が詰まっていてしかるべきだ。もしくは」
先輩はご遺体の手を元に戻し、首元を指さす。
「被疑者との距離があり、手が届かない場合、どうにかして凶器を引きはがそうとかきむしるはずだ。そうなれば、爪の隙間には自分の皮膚片と、首の周りにひっかいた傷痕が残る」
「そのどちらも、ない――」
「その通り。奇妙だね、友恵さんは、首吊りでもないのに、まったくの無抵抗で死を受け入れたことになる」
「たしか、昼寝をするとか言ってましたよね、友恵さん」
「全身麻酔でもかけない限り、呼吸が絶たれた段階で覚醒するよ」
「じゃあ誰かが睡眠薬を飲ませたとか」
「勘違いしているようだが、睡眠薬は、眠れない人の〝眠気を誘発する〟タイプがほとんどだ。よほど大量に飲まない限り、意識が混濁するレベルまで達しない。それに、飲ませたとして、誰が、どうやって?キミ、ボクに『精がつくよ』と言われて、見たこともない錠剤を渡されて、ほいほい飲むのかい?」
「……飲まないっすね」
僕が無い知恵を絞り出して答えたというのに、先輩は次々に――それも嬉しそうに――否定する。
「そう、簡単に騙して飲ませられるものではない……ましてや、飲んだところで、首を絞めるには不十分な代物……」
遺体をぺたぺたと撫でまわしながら、色んな部位をひっくり返しながら、阿久馬先輩はしばらく黙り込んでいた。しかし、ご遺体の脇の下を覗き込んだあたりで、突然電気が走ったように顔を上げると、部屋の入り口に向かってどたどたと四足で走った。
そのままドアに激突するのでは、と思われたが、ギリギリのところで先輩は止まり、麻薬を探す警察犬のように、鼻先でドア枠をなぞった。
ちょうどドアノブのすこし下の高さでくんくん鼻を鳴らし、そして全身で歓ぶと、反転し、今度はベランダに向かって駆け出した。
建付けの悪い窓ガラスをガラリラ開けて、ベランダに飛び出すと、スパイダーマンみたいに四つん這いになった。その状態で、隣室のベランダとを隔てている仕切り板の方に顔を向けた。友美さんの話では、お隣は騒音が原因で入居していないはずだが……?
「ワダソン君!」
興奮した様子で、先輩は仕切り板に向かって叫ぶ。
「今からボクが言うものを調べてくれるかな!」
顔だけで振り返った先輩の顔が、ゆでダコのように蒸気している。辛抱たまらんといった感じで、はぁはぁと呼吸している。発情した犬と言われてもしっくりくる。肩からはらはらと髪の毛が落ちていく様が、妙に色っぽく感じる。
が、しかし、気分上々の先輩と反比例して、僕の気持ちは下降線をたどる。絶対にとんでもないことをお願いされるに決まっている。
「一応聞いてみますが、それは必要なことなんですか」
「再び来たのだよ!」
間違いなく、先輩は僕の気持など気にしていないだろう。
「お宝をさらう時が!」
そう、一ミリだって。




