第五章 出されたものは残さずに
パラリロリレリラリレリラロ~。
場違いなほど明るい音で、電子レンジが温め完了を告げる。湯気をあげる卵焼きを、友美さんはお盆に乗せる。これに追加して、みそ汁、ごはん、あとはわかめサラダだ。卵焼きの隣にはウインナー二本もついている。バランスよく丁寧に作られたお昼ご飯だと、見ただけでわかる。
「なんか……ストーカーよりも家庭環境が気になりますね」
友美さんが二階へ上って行ったあと、僕はささやく。
「いい着眼点だね、ワダソン君」
阿久馬先輩は腕を組んだまま、片方の眉を吊り上げる。
「えーと……褒められてます?一応」
反応に困っていると、ドタドタドタ!と、天井が暴れ出す。どこの隙間からかわからないが埃が。家が古い分、このまま全部抜け落ちてくるのではないかという恐怖に襲われる。
「だから…………って!言っただろうが!」
遮音性が皆無とは言え、二階での出来事だ。すべては聞こえない。しかし、気持ちのいいものではない言葉が後に続いているのがなんとなくわかる。この声は友美さん……いや、お姉さんの友恵さんか。二人の声は非常によく似ているが、おしとやかな友美さんがこんなに口汚く罵るはずがない。だからこれは友恵さんだ。
「ごめんなさい、うるさかったですよね」
疲れ切った顔で友美さんが降りてくる。
「いえ……」
「姉と鉢合わせてしまって……機嫌が悪いみたいで……」
正直言って気まずい。こんな時に限って先輩は何も言ってくれない。普段は余計なことばかり口走るのに。
「せっかくですから、食べていってください。つまらないものですけど」
え、マジすか。僕はもうすぐでその言葉を音にして発するところだった。
「えっ、あっ、いや……」
なんとか失礼になるまいと奮闘した結果、コミュ障の典型みたいな、単語にならない音が惨めに飛び出した。代わりに先輩が前に進み出る。
「せっかくの申し出だ。ワダソン君、いただいていこう」
「え!?いいんですか?ブラ――下着、干したのに」
外で見張るとか、外をぶらつくとか、とりあえず外に出て空気を吸うとか、しなくていいんですか?ちなみに僕はめちゃくちゃしたいです!
「まだ12時台だ。人の家に侵入するのに、白昼堂々やる者はそうそういないよ」
「そりゃあ、そうかもしれませんけど……」
下着で人を釣ろうとするのも、そうそうないことだと思います。
カチャ、カチャ、カチャリ。
重たい沈黙の中、食器が触れ合う音だけが響く。
阿久馬先輩がいただこうと言ったのに、ひたすら無言で食べ続けている。昼食に対する感謝はおろか、感想さえ何一つ述べない。黒いポシェットを肩にかけたままなのも、なんだか失礼な気がする。よっぽど大事な物でも入っているのだろうか。
「んん、おいしいですね」
「ありがとうございます」
無言に耐えかね、僕は無理やり感想をひねり出した。正直、味がしなかったのは内緒だ。
「卵焼き――こっちのは殻入ってないみたいです」
「よかったです。私、たまに失敗しちゃうので」
振る舞われたのは、友美さんが父親に持って行ったものと全く同じメニューだった。話から察するに、お姉さんも同じものを食べたのだろう。
「そういえば、さっきの人、帰ってきませんね」
「あぁ、吉城ですね」
「ヨシキさんって、言うんですか」
「姉とお付き合いしてるんです。コンビニに行くってことは、たぶんパチンコです。お金がなくなったら帰ってきますよ」
「……パチンコ?」
「大学生で、お金ないくせに、好きなんですよ。姉にもよくお金を借りてるんです」
「あぁ……」
先輩、マジでなんか言ってください。何を言っても空気が死ぬんです。
「コーヒー淹れますね、インスタントですけど」
食器を一通り洗い終えた後、友美さんがおもむろに切り出した。インスタントコーヒーの瓶を取り出したところでふと止まる。
「あっ、苦手だったりします?阿久馬さん、いつもフラペチーノですもんね」
「いえ、お構いなく」
阿久馬先輩はなぜかもったいぶって答えた。それと、あのクリームもりもりのファンシーな飲み物はフラペチーノというのか。
インスタントの粉をさらさらと投入しながら、友美さんは微笑みつつこちらを振り返る。
「助手さんもいつもコーヒーですものね、学生さんなのにすごいです。私、高校生のころなんて、苦くて飲めなかったですよ」
奇遇ですね、僕も、どうしても飲めないコーヒーがあります。
「父も食べ終わる頃でしょうから、私、回収に行ってきますね」
そう言い残し、友美さんは二階へ上がっていった。
手狭なリビングには、僕と先輩、そして淹れたてのコーヒーが取り残された。先輩は相変わらず何も言わない。さっきからなぜだろう。世の中の女子は突然不機嫌になると聞いたことがあるが、これもその類だろうか。困ったぞ、対処法がさっぱりわからない。
コッチ、コッチ、壁掛け時計の秒針だけがうるさい。見ると、先輩はコーヒーカップを持ち上げたまま、その時計を凝視している。現在時刻は13時を少し過ぎたところだ。友美さんが二階へ上がってから、無限に時が過ぎたように感じる。手持ち無沙汰な僕は、ごまかすように何度もカップに口をつける。
「コーヒー、おいしいですね」
いかん、別にただのインスタントコーヒーなのに、思わず口をついて出てしまったぞ。とんでもなく失礼なことを言ってないだろうか――しかし、普段人類が口にすべきでない廃液を強制的に振る舞われている身としては、当然の帰結のようにも思える。
幸いなことに、阿久馬先輩は壁掛け時計に怨念をこめるのをやめ、ちびりとコーヒーを口にした。
「おかしいな、ボクが淹れた時はこんな風にならないのに――」
初めて見せる困惑の表情で、先輩は多方面からコーヒーカップを見つめる。『空はなぜ青いの?』と首をかしげる幼稚園児のようだ。不機嫌なわけではなさそうだったので、とりあえず一安心だ。
「先輩、いつもどうやって淹れてるんですか……?」
「説明書通りにやるのもつまらないからね、ボク流のアレンジを加えているよ」
たぶんそれがよくないです。
「ストーカー、引っ掛かりますかね」
「引っかかるといいねぇ」
他人事のように呟く阿久馬先輩。コーヒーカップを片手に不敵に笑う姿は実に様になっている。しかし胡散臭さが半端ない。高値の壺を売りつける宗教勧誘のお姉さんみたいだ。
「んっ」
どこのスーパーでも売っている、ありふれたインスタントコーヒー。その二口目を口につけたその時、先輩のアメジストの虹彩が、驚いた猫のように刹那的に引き絞られた。
「えっ」
僕は当初、ついに先輩がおいしいコーヒーの淹れ方でも悟ってくれたのかと淡い期待を抱いたのだが違った。
「しっ――――」
阿久馬先輩は唇の前で人差し指を立てた。
僕はこぼしてしまうギリギリのところで、コーヒーカップ傾ける右手を止めた。
先輩はじっと一点集中したまま、微動だにしない。僕も、波立つコーヒーの水面を見つめつつ、耳をそばだててみる。
何も聞こえない。壁の薄い古アパートだが、特に気になるような物音はしない。
バタバタバタン!壁の向こうから――これは部屋の外だ――なにか大きなものが落下したような音がした。阿久馬先輩が稲妻のように立ち上がり、台所の窓にかぶりつく。少し遅れて僕も続く。先輩の脇の下から覗き見ると、猛烈なスピードで走り去って行く男の背中が見える。腕を振るタイミングと足を踏み出すタイミングがとんでもなく汚い。しかしあの後姿は間違いない。なにせこっちは、何十時間もそれを見続けてきたのだから。
毎日背負っているピカチュウ色のリュック、ひらひらとマントのようにはためいているのはお気に入りのグレーのパーカー、履いている靴はナイキの限定もの。
萩森雄三だ。
「行くぞ!」
言うが早いか、先輩は再びロケットスタートを切った。
すれ違いざま、黒いポシェットに僕はみぞおちを殴られる。せき込みながら窓から頭を突き出して確認する。見えた。ベランダから伸びている雨どいが、途中でぐにゃりと折れ曲がっている。つまり――あのストーカーが、侵入を試みたと見て間違いないだろう。
室内の空気を吸うころには、阿久馬先輩がすでにローファーを履いている。僕は急ぎ転身し、玄関に突撃する。先輩が開けっ放しにした扉から飛び出す。
「うわっ!」
軽薄そうな声とぶつかりそうになる。足をもつれさせながら振り返ると、パサパサの金髪が視界の端でちらつく。
「っぶねぇな!ごるァ!」
不機嫌そうな顔を隠しもせず、唾を飛ばすのは吉城さんだ。コンビニかパチンコか知らないが、用事は終わったようだ。
「すいません!」
あいにく相手をしている暇はない。僕は背中に向かって叫びながら先輩の後を追う。
「ワダソン君!」
少し先を行く先輩が、身振り手振りで合図する。萩森を直接追わず、最初の角を右に曲がっていく。先輩の長い髪が見えなくなると、代わりに現れるのは萩森の背中だ。そこまで足が速くないようだったが、あいにく僕も人様に自慢するほど身体能力が高いわけじゃない。それにスタート位置が違いすぎる。言い訳したいわけじゃないが、正面の玄関から回った僕に対し、萩森が落下したのは裏手のベランダ下だ。
「くそっ!待て!」
悔しまぎれに叫ぶと、ニキビ面で萩森が振り向いた。叫びこそせず、しかし男にあるまじき悲壮感漂う顔で声なき声を上げると、激しい息遣いを一段と荒々しくした。悲しいかな走行スピードにはそこまで反映されなかった。
「ひぃ!」
萩森が――今度は――叫んだ。
原因は我らが探偵倶楽部部長だ。
どこをどう走ってきたのか知らないが、先ほど右手に迂回したはずの阿久馬先輩が、いつの間にか萩森の正面に躍り出ていた。日本男児として大変屈辱だが、確実に僕より足が速いらしい。
状況はまさに前門の虎、後門の狼。決して自画自賛するつもりはない。しかしそれでも萩森は慌てふためき、正面の先輩に向かってがむしゃらに突撃していった。
「う!うわぁああああ!」
「あっ!」
マズいぞ――もちろん、僕らくらいの男女を相手にした場合、より非力な女子を相手に選ぶのは理にかなっているが――このままだと、僕が萩森に追いつくより先に、萩森が先輩の胸に飛び込みかねない。
「先輩!」
僕の呼びかけに先輩は答えない。
めちゃくちゃに両手を振り回しながら突っ込んでくる萩森を、いつも通り、胸の下で腕を組んで、堂々たるたたずまいで待ち構えている。
「どっ――!どっ、どっ!どけっ――!どど――!」
「あっ!ぶなぁ――あ?」
僕は叫ぶのを途中やめした。走るのもやめた。
萩森の、決して重量級ではないにしろ、男女の体格差として当然のごとく先輩より重たいはずの体が。
華麗に宙を舞った。
それはもう見事なまでに。〝大車輪〟という言葉がこれ以上ないくらいふさわしい飛び方だった。
僕は脳内でもう一度再生する。
萩森のでたらめな、パンチと呼ぶにはあまりにもお粗末な拳が、前髪をかすめようかというその時、阿久馬先輩が風のように素早く、そして静かに動いた。
左腕を頭上に掲げ、振り下ろされた拳を外にはじくと同時に、左足を後ろに引き、萩森に対して半身になった。そのまま前につんのめる萩森の上腕を右手で掴むと、地面に向かって引き、さらに左手で相手の手首を決めた。
あとはもう書き記した通りだ。萩森は大車輪になった。
「……マジ?」
萩森の上にまたがる先輩を見つめ、僕は絶句するほかない。
心配無用だ――ボクがやる
いや、そうは言ったけども。
「ワダソン君?手伝ってくれるかな?」
見ると、死にかけのゴキブリのようにかさっ、かさっ、と動く萩森の関節を、先輩がガッチリ決めている。右腕を背中の方に回して、右手首を背骨の方に押し当てて……あー、動かない方がいい。肩がもげるぞそれ。
「あ!はい……!」
僕は慌てて駆け寄り、まだ元気な両足を押さえる。
「あっこら、足首を押さえたまえ。膝が自由だと蹴られるよ」
「……はい!でもやりましたね、ほんとに捕まえるなんて」
萩森のふくらはぎに座りながら、僕は微笑む。
対照的に、先輩は曇り顔だ。
「いや、捕まえることはできない」
「え?どういうことですか?捕まえてるじゃないですか」
現に、萩森が暴れる度、肩がミシミシと音を立てている。阿久馬先輩が――緩めないどころか――締め上げているからだ。
「言い方を変えよう、今、ボクたちには、このストーカーを捕らえる法的根拠がない」
「なんでです?アパートに侵入したのに」
「住居侵入未遂でほぼ間違いないが、ボクらは現認していない」
「ゲンニン……?」
聞きなれない言葉だ。僕は萩森の太ももを誤ってつねりながら首をかしげる。
「直接見ていないということだ。やっただろう、間違いないだろう。だろうでは証拠にならない。裁判でも負ける」
「えぇ!?」
「ワダソン君!日本は?」
「…………証拠裁判主義です」
探偵俱楽部に初めて訪れたあの日、先輩が口にした言葉を僕は渋々繰り返す。
「その通り。例えば、万引き犯がリンゴを一つ持っていました。売り場からはリンゴが一つなくなっていました。しかし、万引き犯がリンゴを持ち去るところを実際に見ていなければ、有罪にできないんだよ」
「そんな無茶苦茶な――」
「いいや、無茶苦茶なのはキミだ。万引き犯が自分の家からリンゴを持ってきたと言い張ったらどうする?無実の人をキミは有罪に仕立て上げるのかい?その可能性を排除できるかい?」
「そんなの屁理屈ですよ」
「なら、排除してみたまえ。確たる証拠を突き付けて」
「……そんなの、実際に見てなきゃ無理――あっ」
したり顔で先輩はうなずく。納得すると同時にとてつもなくムカつく。
「そういうことだ。本件の場合、雨どいが折れた。現場から男が逃走した。その事実しかボクたちは見ていない。雨どいから男の指紋が出てきて初めて事実が確定する。その前段階で身体を拘束することはできない。ということで、お願いするよ。ついてきてもらえるかな?萩森雄三君?」
思いっきり身体を拘束した状態で、先輩は萩森の後頭部にささやきかける。
自分の名前が出てきたことに、萩森は心底驚いたようだった。肩が相当痛いはずだが、釣り上げられた魚のようにバッタンバッタン跳ねた。
「うゔーっ!なんでっ、だにも!してないのに!」
顔の右半分をアスファルトにこすりつけながら、萩森は叫ぶ。
「萩森雄三、大学卒業後就職先が見つからずコンビニアルバイトで生計を立てている八月二十三日生まれの二十四歳実家との関係も悪く逃げるように地下アイドルにのめりこみ収入のほとんどをおっかけ活動に使っている」
先輩は呼吸を忘れたように言い切った。あまりに詳しく把握しすぎて、萩森がドン引きしている。
「どちらにせよ身元は割れているよ。それとも、ストーカー規制法に基づく接近禁止命令を破っていると、警察に通報した方がいいかな?」
なるほど、友恵さんに対する接近禁止命令を盾にするつもりだ。それはいいが、さっきから先輩のアメジストの瞳がギンギンに光っている。興奮しすぎだ。はたから見たらどっちが犯罪者かわからない。
「ちっ、違う!よよよ、呼ばれたんだ!」
砂利を食べながら、萩森は訴えた。
「ともりんに呼ばれて!今日っ、今日は――!」
それは、苦し紛れに出てきたにしては、いやに真に迫る言い訳だった。
「……呼ばれた?」
僕はやまびこのように萩森の言葉を復唱する。そんなわけないだろと同時に思う。呼ばれてないから雨どいなんて非常識な経路から侵入を試みたわけだし。
「そうだ!ベランダにともりんが出てきて!てっ、てて、手招きした!近づいたら、『上がってきて』『プレゼントがある』って!言っ、いい、言ってくれて!」
そうか、それなら仕方ないな、雨どいを上っても――いや待て、落ち着け。自分に都合のいいことばかり言うのは、ストーカーの常とう手段じゃないのか?探偵活動なんて生まれてこの方やったことないけど、たぶんそういうものだ。ストーカーの被害を警察に届け出た友恵さんが、その張本人たる萩森を自宅に招き入れるなんてありえない。そうだ。これは、なんとか言い逃れしようとしている萩森の嘘なのだ。
「いや……嘘をつくにしてももうすこしマシな――」
混乱しながら先輩の顔をうかがった僕は、さらに混乱することになる。
なぜなら先輩が――拘束を緩めこそしなかったものの――口を半開きにして、考え込むように萩森の横顔を見つめていたからだ。
「嘘じゃない!ともりんは昔から!ぼっ、僕のことが好きなんだ!しぃ仕事が忙しくて、疲れた時は機嫌が悪いけど……ライブではっ!いつも僕のことを一番たくさん見てくれるし!握手会の時だって覚えてくれてる!名前入りでサインだってしてくれた!」
アイドルとはそういうものだ。僕は手のひらにじっとりと汗を感じながら、自分にそう言い聞かせる。
「そそ、それ以外は、そうだ!プップレ、プレゼントだって、くれ!くれた!この靴は――」
その瞬間、阿久馬先輩が阿修羅のごとき形相で振り返った。僕はとたんに恐ろしくなって、その視線から逃れるように身をひねった。
「――僕の服に似合うだろうって、ともりんが選んでくれたんだ!」
先輩が萩森の靴を凝視している。白い、ナイキのスニーカーだ。調査したのだから僕も覚えている。なにかの限定モデルだ。たしかに、限定ものとなればプレゼントにもなりやすいだろう。
しかし、阿久馬先輩の言葉を借りて言うなら、実際に見ていない僕らには真相がわからない。まさか、ほかの服もそうだって言うんじゃないだろうな……。
「……どうします?」
半分助けを求めるように、先輩に視線を送った。ぶっちゃけ、捕まえるまでもそうだが、捕まえた後のことだって僕はノープランだ。
先輩はチラリとだけ僕の顔を見て、またスニーカーの凝視に戻った。
「いずれにせよ、接近禁止命令が出ているのは間違いない。ご協力いただけないなら警察を――」
先輩の言葉はそこで途切れる。
静かだった街の、ただの探偵ごっこだと思っていた忙しくものどかな日常が、唐突に終わりを告げる。
金切り声とは、昔の人はよく名付けたものだ。
「キャアアアアアァァァ!」
耳をつんざくその声は、僕が他の現代人と同じく太古昔に置いてきた本能を一瞬のうちに呼び覚ました。まさにゾクリとしたのだ。それ以外に、僕の背筋を襲ったこの感覚を言い表す言葉はない。
これから先、何度も感じることになるなんて思いもせずに。僕は振り返る。
「……ともりん?」
地面と同じ位置から立ち上ってくる萩森の疑問。彼もおそらく同じ方向を見ているのだと、僕は薄ぼんやり思う。
「――戻るぞワダソン君」
「えっ?えっ?」
視界を横切る先輩のお尻、黒いポシェット。僕はお手本のような二度見でその行く先を追う。先輩は既に走り出している。
「そいつを連れてくるんだ!」
アメジストの瞳と人差し指を、射貫くように僕に向けて。しかし全速力で走りながら、先輩はそれだけ叫んで行った。
そこからどうやってアパートまで戻ったのか、僕は正直覚えていない。
ストーカー男を逃がすまいと無我夢中だったのもあるが、そのあとに見た光景が衝撃的すぎて、そのことばかりが蘇る。
あの時の驚き、恐怖、そして一つまみのスパイスほどわずかな興奮を、生涯超えるものは、おそらく、ない。
人が死ぬ瞬間を、初めて見た。
扉の前に立ち尽くすヨシキと、自分の部屋から顔をのぞかせる上原姉妹の父親、二人は二階の、友恵さんの部屋を呆然と見つめている。
部屋に入ると、びっしょりと汗をかいた阿久馬先輩が、横たわる友恵さんに心臓マッサージを施している。時折手を止め、口づけをして、大きく二回、息を吹き込んでいる。
しかし友恵さんは、ピクリともしない。
「お姉ちゃん!お姉ちゃん……!」
傍らで、友美さんが泣きじゃくっている。
「ワダソン君!」
僕の方を見もせずに、体を上下させながら先輩が叫ぶ。
休日の朝にたたき起こされたように、僕はまどろんだ返事しかできない。
「救急車だ!ワダソン君!」
「はい――えっと――」
「119だ!」
「は――はい!」
他人のものみたいにもたつく手で、僕はスマートフォンを叩くのだった。




