第四章 独身男性のゴミをさらえ!
「和田」
担任の石田先生のため息が、居心地の悪さを加速させる。組んだ腕の上で、マニキュアをした先生の人差し指が神経質にリズムを刻んでいる。
「悪いことは言わないから、阿久馬はやめておけ」
悔し――くはないが、とても言い返せない。
「見てくれはいいが、あれは問題児だ。去年も色々あってな」
出会ってまだ一週間ですが、色々ありました。
「入学早々遅刻なんて……大学への進路にも影響してくるし、この先どうなるかわかったもんじゃない」
僕は先生のパンプスを見つめ続けるしかない。
「お前は入学試験も成績上位だったし、期待してるんだぞ?」
「あー……ありがとう、ございます……?」
「で、今日はなんでこんな時間になったんだ」
職員室の時計は午前10時を回ったところだ。そう、誰がどう見たって、真面目な生徒が登校してくる時間ではない。
「えっとですね……」
果たして律義に説明するべきなのか、それともごまかすべきなのか。刹那の熟考により僕が導き出したのは、全部先輩のせいにしてしまえという投げやりな結論だった。
「まず、午前五時に呼び出されまして」
「よくわからないが、いやらしいことじゃないだろうな。年頃の男女が逢引きなど――」
「とある男が出勤するまで、三時間待ちまして」
「いやらしいことの方がよかった」
先生が額を押さえる。
「出勤時、男が捨てたゴミ袋に印をつけて」
「えっなんで」
「いったん、ゴミを置いとくためです。まずは男をつけて、勤務先を特定しなくちゃいけなかったので」
「学生にそんな義務はない」
「それで、勤務先がわかったので、ゴミのところに戻ってですね……」
「もう嫌だ聞きたくない」
「中身を――」
「いやあああぁぁぁぁぁぁ!」
石田先生が壊れた。
けっこう若い先生のはずだが、申し訳ない。お嫁に行けない顔をさせてしまった。
「石田先生のことは気にしなくていいから。君は二度と遅刻しないように」
「は……はい……」
すいません教頭先生。たぶんこの約束は一か月ともちません。僕は頭を下げながら後ろ歩きで廊下に出た。
「やけに長かったね、ワダソン君」
片膝を曲げ、背中と足裏を壁につけ、阿久馬先輩は怠惰に立っていた。そして校内で堂々とペコちゃんキャンディを舐めている。遅刻以外にさっそく罪を重ねている。
「逆に早かったですね、先輩は」
「最近は理由を聞かれなくなった」
おそらく、あとでなにを聞かれても『知りませんでした』で通すつもりだ。もしくは見放されたか。いずれにせよ気を付けよう。一年後の僕もそうなる可能性が高い。
「いやぁーっ!いやよ!私もう二十八なのに!」
うわっ、なんだ、石田先生まだ叫んでるぞ。あとそんなに若くなかった。
「婚約者どころか彼氏だっていないのに!教え子がストーカーで逮捕なんていやよおぉぉぉぉ!」
栗色の髪をふんわりとセットして、ナチュラルメイクで、美人というよりはかわいいの延長線上にいるような先生だったが、男子生徒からの受けはそれなりによかった。はずだ。それがこんな、廊下まで聞こえるほど取り乱すなんて。
「石田先生には去年、だいぶ迷惑をかけたからなぁ」
他人事みたいに言いながら、ペコちゃんキャンディをちゅるんと引き抜く先輩。ぬらぬらと光る舐めかけの飴を手に、こちらに近づいてくる。
「まっ、とにかくこれであの男のことが少しずつわかってきたわけだ」
「宝物から、ですか?」
「ゴミにはその人の生活が現れる。それを見ることで、対象者の人となりがわかるのさ」
舐めかけの飴を顔の前でちらつかせないでください。汚い。
「好きな食べ物は何か、趣味は何か、自慰の回数からある程度の年齢も――」
「ぶっ――――げほっ!えほぉっ!」
なんてこと言うんだこの人!
「おや、被疑者のゴミから精液をくるんだティッシュを取り出し、DNA鑑定をするなんて常識だよ」
僕の知ってる常識にはありません。あと、次からトイレで流そう。関係ないけど、全然。
チャイムが鳴った。ちょうど休憩時間になったのだ。教室という教室から生徒が出てくる。
「まだまだ青いねワダソン君。ま、今日はお疲れ様。水曜と金曜も確認して、週末に備えよう」
からん、と飴を咥えなおし、阿久馬先輩は歩いて行った。生徒の群れに消えていく先輩の背中を見つめながら、僕はあきらめた。
教頭先生、ごめんなさい。
放課後、記者俱楽部で僕を待っていたのは、岸谷先輩のダルがらみだった。
「ねぇ~、しんちゃん、しーちゃんとなんかいい感じだったねぇ。二人して遅刻?駆け落ち?」
どこかで見ていたのだろうか、伊達に記者倶楽部やってないなこの女。しかし、舐めかけの飴で脅迫される状況を見て〝いい感じ〟とは、岸谷先輩もなかなかズレた感性をお持ちのようだ。
「いい感じじゃありません。今後の探偵倶楽部の活動について少々……あとしんちゃんってなんですか」
「しんのすけって言ったら、しんちゃんじゃん?オラはにっ、んっ、きもっ、のぉ~」
僕の頭を撫でながら、岸谷先輩は言う。しかしいい匂いだな……同じ人類のはずなのに、何が違うのだろう、柔軟剤か……?
岸谷先輩の雑な歌に編集長が反応した。夏休みのおじいちゃんみたいに、読んでいた新聞から顔を上げた。
「犯罪すれすれの行為には気を付けるように。まぁ、君は正式にはうちの部員ではないから、別にいいのだが」
くそっ、ここでも『知りませんでした』になるのは時間の問題だ。誰かもう一人くらい、道ずれにしておかないと――
「がんばれぇ!しんちゃん!」
頼れるのは自分だけだ。
岸谷先輩のサムズアップに見送られながら、僕は記者俱楽部をあとにした。
「や、ワダソン君」
待ち合わせのスターバックス。相変わらずの制服姿で、黒いポシェットを肩からかけて、阿久馬先輩が片手をあげる。
「お世話になります」
ぺこりと頭を下げたのは、先輩の隣に座っている友美さんだ。今日はサイズ大きめのジャージにロングスカートといういで立ちだ。ラフな感じを出しつつ、きちんと女性らしさもある。かわいい。
「いよいよ実行の時です」
またも友美さんにおごらせたクリームもりもりカフェラテをすすりながら、先輩が切り出す。
「ドキドキします」
「一週間かけて調べ上げた、ストーカーのデータになります」
「わぁ、すごいですね。こんなに細かく……」
先輩は我がもの顔してますが、徹夜でまとめ上げたのは僕です。
「萩森雄三、二十四歳、職業コンビニアルバイト、勤務態度はいたってまじめで、遅刻も一度もなし。家賃七万二千円の賃貸アパートに居住し、趣味はもっぱらアイドルのおっかけ。ここ一週間の動きだけで言えば、仕事以外の時間はほとんどストーキング行為に当てていました」
先輩はファイリングされた写真をパラパラとめくる。その中には、萩森が着ていた服や履いていた靴、背負っていたリュックサックまで入っている。
友美さんはそのうちの一枚を手に取り、まじまじと見つめる。ナイキの白いスニーカーの写真だ。阿久馬先輩の命で、ストーカーの周囲は詳細に調べている。この靴はなにかの限定モデルで、そこそこお値段がしたのを覚えている。
「ほ……ほとんど?」
写真をめくりながら友美さん。靴の次はリュックサックの写真だ。黄色い、ピカチュウみたいな色をした一品だ。
「私が確認できるのは早朝や放課後だけですが、出勤時は必ず友美さんのアパートの前を通り、帰宅前にはアパートの裏手で何時間も立っています。郵便受けに近づくことが何度かありましたが、窃取や投函は今のところなし。しかし時間の問題でしょう」
「やっぱりそうなのね……」
友美さんが両手で口元を抑える。
「――なにか心当たりが?」
先輩の片眉が吊り上がる。
「いえ、確証がなくて黙ってたんですけど……一度、ベランダに侵入された――かも!かも、しれなくて……!」
「ベランダ!?二階の?ですか?」
思わず叫んでしまった。いや叫ぶだろこんなの。スタバにいたおしゃれ客たちの視線を一手に浴びてしまったが、僕のこれはいたって正常な反応のはずだ。
「姉が鉢合わせたって言ってたんですけど、さすがにそんなわけないだろうって思って、聞き流してて――」
「たしかに、あまり防犯意識が高くない時代に建てられたアパートのようでしたしね」
なんでこの女、平然と感想を述べられるんだよ。二階に侵入って穏やかじゃないぞ。ルパン三世の見すぎだって絶対。普通、人は二階によじ登らない。SASUKEか?反り立つ壁か?
「でもどうやって――」
聞いてはみたが、友美さんは首を横に振った。
「それは私も――」
「あのアパートの構造的に、雨どいでしょうね。ある程度登って、ベランダに手が届けば、あとは根性で這い上がれる。細くとも男性ですしね」
答えたのはクリームをすすった阿久馬先輩だ。探偵らしく立派な推理だ。立派な推理なのだが、思考が犯罪者のそれなんだよ。
「一点確認ですが、お姉さんがベランダで鉢合わせた時、洗濯物でも干していましたか?」
「えぇ、ちょうど取り込もうとしたところだったって。でも、下着は干してなかったんですよ」
友美さんの答えに、阿久馬先輩はしめたとばかりに笑みを浮かべた。
「ふうむ、使えるな」
先輩は口元を手で押さえた。よく見ると、人差し指と中指で唇を挟んでいるように見える。むふぅん、というため息が、鼻から出ている。
そろそろわかってきた。
これは、阿久馬先輩が何か考えている時のサインだ。
それも、とびきりよくない何かを。
「友美さん、下着を買いに行きましょう」
朝は独身男性のゴミをあさり、勤務先のコンビニまであとをつけ、学校には遅れて登校し、教師に怒られる。放課後は男の退勤をひたすら待ち続け、夜遅く、へとへとになって家に帰る。そして週末、僕は、女性用下着店にいる。
「あはははは……ははー……はははっ」
どこで人生間違えたのだろう。つーか男子高校生には刺激が強すぎます。だってどこを見てもブラジャーとパンティしかないんだもん。
「助手さん、大丈夫?」
両手にもったブラジャーと僕とを見比べながら、友美さんが心配してくれる。でもお願いですからブラジャーしまってください。今どんだけエッチな状況だと思っておられるのですか。
「大丈夫ですよ、彼は女を泣かせる側ですから」
さらっととんでもない設定が加される。僕は抗議の鳴き声を上げる。
「こっちの方がかわいいかしら、あ、でもちょっと高いわね……」
「安物でいいですよ、実際につけるわけではないので」
言う割に、阿久馬先輩は楽しそうに下着を選んでいる。普段があんな感じな分、乙女な先輩を見るのは新鮮な気がする。
「そういうことなら、全部終わった後、阿久馬さんにプレゼントしますよ。ほら、報酬替わりじゃないですけど」
「お気持ちは嬉しいですが、私は別に、下着としての機能がきちんとしていればそれでよいので」
「いえ!こういうのは見た目にもこだわらないといけないんですよ!いつ見せることになるかわかりませんし!」
友美さんはなぜか僕の方を見てウインクする。え、なに、僕覗きとかすると思われてる?
「はい!助手さん!どっちがいいですか?」
「えっ、えっ、あっ、はい。こっち……ですか、ね?」
突然選択を迫られ、反射的に選んでしまった。友美さんが差し出したのは、ピンクでフリルがいっぱいついた一品と、アダルティな編み目模様の紫の一品。僕が指さしたのは後者だ。なんとなく色味が、先輩っぽかったのだ。おや?なぜ僕は先輩のことを考えているのだ?
「そうか、ふむ」
「ふうん、へえ~」
ぱちくりと瞬きする先輩はともかく、友美さんがによによと笑っている。うん、これ、絶対覗くと思われてる。
「じゃあ阿久馬さん、これ、試着してきてくださ~い」
ノリノリな友美さんに押され、先輩は試着室へと消えていった。
「それで、このブラジャー、どうするんですか?」
住宅街を並んで歩きながら、友美さんが首をかしげる。
「あえて干します。見えるように」
やっぱり阿久馬先輩はすごい。常人では到底考えつかないことを平気でする。ちなみにほめてはいない。
「警察が動けない以上、ストーカーに脅しをかけてつきまといをやめさせようかと考えていましたが、前科があるなら話は早い。ブラジャーを餌におびき寄せ、住居侵入の現行犯で捕らえます」
やっぱり阿久馬先輩はすごい。常人では到底考えつかないことを平気でする。ちなみにほめてはいない。
「それ、捕らえるのは誰がやるんですか。あいにく僕は戦力になりませんよ」
「心配無用だワダソン君。ボクがやる」
やっぱり阿久馬先輩はすごい。常人では到底考えは?今なんつった?
心配無用だ――ボクがやる
ボクがやる――ボクがやる――ボクがやる――少なくとも三回、その言葉は頭の中で反芻した。
阿久馬先輩を見る。
部室で首を吊っていたあの日と同じ、自信に満ち溢れた笑顔がそこにはあった。
「へっ――――いやいやいやいや、いくら阿久馬先輩でも、そんな危険な――」
「ふふん、みんなそうやって言うんだよ」
人差し指をピンと立て、阿久馬先輩は得意げに笑う。
「でも大丈夫だよワダソン君。心配は無用だ」
ペンキのはげかけた扉を友美さんが開く。蝶番のきしむ音を聞くと、まるで昭和時代にいざなわれているような感覚を覚える。
「どうぞ、何もないとこですけど」
「お邪魔します」
頭を下げて境界をまたぐ。外から見てある程度わかってはいたが、古いアパートだった。入ってすぐ、左手に洗濯機が置いてあって、玄関を直進するとわずか三歩で階段だ。階段横をすり抜けていくとトイレと風呂場のドアがあり、それらの奥が小さな台所とリビングになっていた。真ん中に小さなちゃぶ台が置いてある。
「二階は小さいけど二部屋あって、父と姉がそれぞれ使ってるんです」
「じゃあ、友美さんはどこに?」
「私は一階で……仕方ないんです。うちはお金もないから」
友美さんはすこし寂しげにほほ笑んだ。恥ずかしそうでもあった。たしかに、あまり偏見でものを言うべきではないかもしれないが、他人に誇れた境遇ではない。と思う。
と、配慮に富んだ態度とは何か考える僕をよそに、阿久馬先輩はお構いなしにキョロキョロ内部を観察している。絶対職業病だ。他人のふり、他人のふり……。
「お姉様はともかく、お父様のお話は初めて聞きました。ご在宅ですか?」
まるで二階を透視でもするみたいに、先輩は天井を見上げる。
「えぇ、体を悪くしていて……最近は仕事もしてないんです」
「それは大変ですね、大学へは奨学金で?」
「さすが探偵さんですね、わかっちゃいます?」
しょげかえる姿もかわいいな、友美さん。しかし、なかなか大変そうな身の上だ。そこまで聞く必要があるのか僕にはわからないが、きっとこれが阿久馬流なのだろう。先輩の仕事ぶりを、僕は書き留めておく。
「お父様には?ストーカーの話は?」
「してません。姉があんなことをしてるでしょう?これ以上心配かけたくないので」
「なるほど」
そこまで聞いて、ようやく先輩は天井を見上げるのをやめた。
阿久馬先輩は買ったばかりのブラジャーを取り出し、値札を切った。ついでに下も。僕の意識から完全に抜けていたが、通常、女性は下着を上下でそろえるものらしい。まぁたしかに、服を脱いだ時に上下でデザインや色が全く異なると違和感が――いかん、何を考えているのだ――僕は身震いして先輩に視線を戻す。先輩は流し台に水をため、下着をしゃぶしゃぶみたいにつけ、水を切っていた。
なんだろう、同じ学校の女子がブラジャーを手にしてるって、ものすごくエッチな状況のはずなのに……正直微塵も興奮しない。お父さん、エロスを感じるにはまだ僕の知らない要素が必要みたいです。しかし、ストーカー騒ぎに区切りがついたら、あれ先輩がつけるのか……そう思うと複雑だな……。
「では早速、干しに行きましょう」
「あー……そうね、そうよね……」
おや?友美さんの歯切れが悪い。表情も心なしか暗い感じだ。
あまり乗り気ではないようだったが、友美さんは僕たちを階段の方へ案内してくれた。人がすれ違えないような狭い階段だった。ギシギシと踏み板を鳴らしながら、両手に下着を持った阿久馬先輩が行く。何とは言わないが、制服のズボンがタイトすぎて、僕は視線を上げすぎないように注意しながらついて行く。
階段は途中で左に九十度曲がった。二階に上がると短い廊下になっていて、左右にそれぞれドアがあった。玄関ドアと同じく、見るからに薄くて、古臭い一品だった。
「あの……」
右手側のドアの前で、友美さんが振り返る。
「幻滅しないでくださいね」
まるでこれから悪いことが起きるとでも言わんばかりに、友美さんは表情を曇らせる。
その証左か、ドアの向こうから言い争う声が聞こえてくる。
「なぁいいだろ?」
「はぁ?てめー、この前もそう言って十万持ってっただろ」
ドアはおそらく、ただベニヤ板を貼り合わせただけだ。そうでなければ、中の会話がこんな風にダイレクトに届きやしない。先に聞こえたのは若い感じの男の声で、後から聞こえた方は友美さんによく似た声だった。
「最後!これで最後にするから――」
男は何かを懇願しているように聞こえる。
「うおっほん!」
阿久馬先輩が大きな咳払いをした。絶対にわざとだ。
ゲーム機の電源を切ったように扉の向こうが静まり返り、友美さんは両手で顔を覆った。僕は見ていられなくて、壁のシミを数えた。
しばらくの沈黙の後、ガタンと引っ掛かりながらドアが開いた。廊下が狭いからだろう、内開きのドアだった。出てきたのは若い男だ。
「あぁ、友美、久しぶり」
急いで作ったことが丸わかりな愛想笑いで、男は話す。片手間に作られたアンパンマンでももう少しマシな笑顔をしている。パサパサの金髪に耳介をなぞるいくつものピアス、いかにも遊び人といった風体だ。大学生くらいの年ごろだろうが、大学生というにはいささかチャラチャラしすぎている感がある。ホストになり損ねたフツメン、中の上。
「ちょっとコンビニ。行ってくるわ」
男は狭い廊下を不躾に進んでくる。友美さんは怒りとも笑顔ともつかない表情になると、壁に張り付いて道を開けた。先輩と僕もそれにならう。すれ違いざま、男にジロジロ見られたが――いや、両手に下着を持った女子高生がいれば誰だってそうするが――阿久馬先輩は素知らぬ顔ですましていた。僕はそんな度胸がなくて、おずおずと会釈する。
「なに」
ギッシギッシという音の反対側から、不機嫌な友美さんの声がする。いや、双子だから同じ声なだけか。
振り返ると、グレーのタンクトップ姿の女性がそこにいた。僕は慌てて目を逸らしたが、一瞬見えた膨らみはくっきりと谷間を作っていた。あと、顔はやはり、友美さんと瓜二つだった。
「……ちょっと洗濯物、干したくて」
「どーゆータイミングで洗濯してんのよ」
清廉な友美さんの声と、不機嫌な友美さんの声が会話する。
「誰よ」
不機嫌な方の声は、明らかに僕らのことを指している。
「舞ちゃんのお友達」
「なにしにきたん」
「あぁ、では説明は私から」
我らが探偵倶楽部部長が進み出た。この時ばかりは阿久馬先輩グッジョブと思った。なぜなら空気が完全にお通夜状態だったからだ。
先輩は友美さんにブラジャーと目配せを送ると、不機嫌な方の友美さん――すなわち、お姉さんである友恵さんに正対した。一方、ブラジャーを受け取った友美さんは、半開きだったドアに身を滑らせ、逃げるように部屋の中へ入っていった。
先輩は宝塚歌劇団みたいに胸に手を当て、声と一緒に張りあげる。
「友美さんがストーカーに悩んでいて、それを解決するために来ました。一度この家には侵入しているようですし、洗濯物でおびき寄せようかと」
「はぁ?なに言っとるん?」
友恵さんは不機嫌な様子を隠そうともせず、唸るように言う。ベランダに向かっていた友美さんの肩がびくっと震える。
「つーか、あのストーカー、警察に行ってもう対処してもらったし」
ベランダに出ていく友美さんを振り返りながら、友恵さんはばりばりと頭をかく。ついでにタンクトップをかきわけて、お腹もガシガシかいている。髪の毛はボサボサだし、ちらりと見えたおヘソもお世辞にも綺麗とは言えない。この姿から、地下とは言えアイドルだったとは到底思えない。化粧をすると女は変わると言うが、性格まで変わるとは。また一つ世の中のことを知った。
「それが、今度は友美さんの方についてしまったようで」
先輩は友恵さんの醜態に目もくれず、自分のペースで話し続ける。すごいポーカーフェイスだ。びっくり箱とか効くのかなこの女。
「なにあいつ、まだめそめそしてんの。同じ見た目だからって、被害妄想すぎ」
「お姉ちゃんごめんね、終わったから」
最恐お化け屋敷から生還したみたいなやつれ顔で、友美さんが帰ってきた。けっ、と毒づくお姉さんを避けるように廊下に出ると、そのまま階段を下り始めた。
どうしたものかと先輩の顔を盗み見ると、あっけらかんとした顔で肩をすくめられた。この女の辞書に遠慮とか慎みという言葉はない。仕方がないので僕も友美さんに続いて階段に歩を進める。
「あぁそうだ、友美、卵焼き、殻残っとった」
「……ごめんね」
階段の床板を見つめるように、友美さんはうつむく。
「間違えて飲んじゃっただろーが」
「ごめん」
二人の間に挟まれている僕は非常に気まずい。岩戸に隠れた天照大神の気持ちが痛いほどわかる。今すぐこの場を立ち去りたい。
「ちっ、まぁいいや、あたし昼寝するから、夕方まで入ってくんなよ」
バシン!と大きな音でドアは閉じられた。大きな息を吐く友美さんは、一気に十も二十も年をとったように見えた。
「ごめんなさい、姉が失礼なことを」
心底申し訳なさそうに友美さん。しかし先輩の興味はどうやら別のところに向いているようだ。
「いえ、そっちは大丈夫です」
どこを向いて喋っているのか、よくわからない目つきで先輩は答えた。というか、そっけなさ過ぎて今度はこっちが失礼だぞ……。
「いやぁ、あはは……ステージで見るのとは、けっこう違うんですね……」
社交辞令にもなっていないと感じながら、僕は口ずさむ。何か言わねば間が持たない。
「恋人がいることはナイショにしておいてください。あんなのでも、一応アイドルなので」
友美さんはあきらめたように微笑む。
「おい」
突然に、本当に突然に。ゴミ箱の陰からゴキブリが飛び出してきたくらいの唐突さと不快感で、野太い声が響いた。僕は飛び上がった。
友恵さんが閉じたドアとは別の方向からだった。
「おい」
五十年ぶりに陽の光を浴びた囚人でさえ出さないような、汚く鈍い声だった。
「パパ……」
友美さんは顔をしかめる。僕は彼女の視線の先に振り返る。そこには、毛むくじゃらの大入道がいた。自らの身体を犠牲にしてこの家の汚れをすべて吸い取ったような、ススとフケと腐臭の塊だった。ぶくぶくに太ったその姿や、はげかけの頭部からは想像もつかないが、唯一目元だけが、友恵さん友美さん姉妹に受け継がれているように思えた。
「なんじゃ、また男か」
「みたいね」
「うるさくてかなわん」
大入道はあちこち抜け落ちた前歯の隙間から、灰色のため息をはく。
「それはお姉ちゃんに言って」
「次連れ込んだら殺しちゃる」
「やめて、パパ――また飲んだの?お酒はダメって、先生に言われてるじゃない」
「そんな話はしとらん!ワシのこと殺すっつっとったろうが、あ?人が糖尿じゃけぇ、バレんじゃあどうの――」
大入道は――絶対にわざとだ――友恵さんの部屋のドアに向かって声を張り上げる。
「それはお姉ちゃんがお酒に酔って――本気じゃない――」
「殺されるくらいなら先に殺しちゃるわぁ!あぁ!?」
「お客さん来てるから、お願い、今そんな事言わないで」
その言葉でようやく、大入道は僕と阿久馬先輩に気づいたようだった。僕の方には目もくれず、阿久馬先輩のことをジロジロと見た。身体の凹凸を確認しているような視線移動だった。
すごいのは阿久馬先輩だ。どう好意的に捉えたって邪な視線を向けられているのに。聡い先輩なら当然理解しているだろうに。胸の下で腕を組んで、あご先をツン、と上げて、目をつむって平然としている。
あまりにも堂々としたその姿に、大入道は視姦をあきらめてふん、と鼻を鳴らした。
「昼飯は」
シラミを弾き飛ばしながら、大入道は愚痴る。仮にも客人がいるというのに、げっぷを隠そうともしない。
「冷蔵庫に入れてあったでしょ?」
穴があったら今すぐ入りたい。友美さんの表情はそう物語っていた。
「知らん」
「もう……じゃあ温めてくるから」
「注射」
「え?」
「注射」
壊れたブリキの兵隊みたいに、大入道は繰り返す。
友美さんは42.195kmを走り終えたランナーばりに呼吸して、そして、笑みと怒りがないまぜになった表情で答えた。
「だから、それはパパが自分でやらないと」
どっはぁと、ものすごい音をたてて大入道はため息をついた。不服だと、全身がそう語っていた。友美さんは静かに目を閉じて耐えていた。
ため息の後、大入道は右手をあげた。そこに握られていたのは、サンタクロースが持っていそうな大きな袋だった。ただし、サンタクロースと違って、それは透明なビニール袋で、目を凝らしてよく見ると、小さな注射器のようなものがパンパンに詰めこまれていた。
「捨てとけ」
「針は?」
「別にしとるわ!いちいち、やかましいのぅ」
大入道はひどく機嫌を損ねたようだったが、もう僕は驚かなかった。
友美さんが二階に上がるのを渋った理由が、たった数分で痛いほどよくわかってしまったから。
「……わかった。また後で取りに来るから」
しょんぼりと肩を落とす友美さんに、僕は、かける言葉が見つからなかった。




