朝鮮高校vs目黒高校 船上での激突 part7
夜 愛宕警察署内 応接スペース
少年係の主任刑事・黒田(48歳)と若手刑事・沢村(29歳)が、社民党・本岡明議員(40歳)と共産党議員(45歳)・不破守。さらに弁護士・佐々木宗平(35歳)の猛抗議に応接スペースで対応していた。
「何度申し上げても同じです。現在、捜査中です」
黒田が、応接スペースの椅子に座りながら言った。
「捜査中だからといって、少年をいつまでも警察署に置いておいていいという話ではないでしょう」
共産党議員・不破守が、かぶせる様に捲し立てる。
「しかも朝からですよ。保護者には連絡がついている。逃亡の恐れもない。証拠隠滅の可能性はどうなんです?」
社民党・本岡明議員も不破の発言に同調して詰め寄る。
「それについては、こちらで判断します」
黒田が、窮するように発言した。
「刑事さん。私たちは捜査を妨害しに来たわけではありません。ただ、少年たちの身柄を拘束し続ける必要性について説明を求めています」
弁護士・佐々木宗平が、議員2人の追及に四苦八苦している黒田に畳みかける。
鋭く切り込んでいるが、口調は冷静だ。
「必要があるから留置しているんです」
黒田は、苦々しく思いながらテンプレ的な返答した。
まともにやりあっても勝てないと内心分かっているからだ。
「では、その必要性を具体的に説明してください」
佐々木の間髪入れない追及に、黒田は、黙ってしまった。
一瞬の静寂。
「まさか、朝鮮高校の生徒だからという理由で、一般の少年事件より厳しい扱いをしているんじゃないでしょうね?」
本岡明が、テーブルから身を乗り出しながら問い詰める。
「・・・・・・そのようなことはありません」
困りながら黒田は返答した。
「だったら、なおさらです。少年事件として適切な手続きを取ってください」
不破は、ここが勝負どころだと感じ、一気にまくし立てた。
「議員先生、現場には現場の事情があります」
「私も現場の事情くらい分かっています。しかし、法律の上に現場の事情があるわけじゃない」
黒田も何とかこの場を切り抜けようとのらりくらりとかわそうとするが、不破は、それを見逃さなかった。
「その通りです。私からも正式に申し入れます。これ以上の身柄拘束が必要なのか、検察官の判断を仰いでください」
「・・・・・・分かりました。上司に報告します」
本岡が、相槌を打ちながら不破の援護射撃を行った。
本岡が発した「正式な申し入れ」という言葉に反応した黒田は、「上司に報告する」と、返答する事しかできなかった。
「お願いします。こちらも必要なら、正式に問題にします」
もう一押しだと直感した本岡は、続けて、さらなる圧力を加えた。
「政治の話にされるんですか?」
「あなた個人を責めているんじゃありません。少年の扱いが適切だったのか、その一点です」
本岡による圧力に敏感に反応した黒田は、少しムッとした。
黒田は、明らかにいらだっていた。
そのイラ立ちを察した本岡は、硬軟織り交ぜ話しかける。
黒田は、完全に3人議員と弁護士の掌の上。
そういう状況になっていた。
「そして、もし問題があれば、私たちは国会でも取り上げます」
不破も、黒田の反応を見て取り、ここが勝負とばかりにそっち方面でのさらなる圧力を匂わせた。
黒田は、三人を見回した。
「・・・・・・少々お待ちください」
そう言い残して、黒田は、少し急ぎ足で部屋を出ていった。
「ここから先は、警察署だけの判断ではありません」
佐々木は、2人に向き直り小声で話しかけた。
「検察ですね」
「ええ。そこで身柄を続けて拘束する必要がないと判断されれば、少年たちは帰れます」
本岡が同調し、それに佐々木も答える。
「なら、そこまできちんとやりましょう」
不破は、確実な手ごたえを感じながら、2人の会話に割って入るように答えた。
3人が刑事・黒田を待ってから1時間が経過。
少年係の刑事・黒田が戻ってきた。
「・・・・・・少年たちは、本日釈放する方向で進めます」
黒田は、不服そうな顔をしながらも、3人にそう告げた。
1955年に設立された、朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯合会)と日本共産党・日本社会党は、戦後から、人権・民族教育・国籍・差別問題という部分において、共通の問題意識を持っており、そこから手を取り合うようになり、戦後、共産党・社会党は、国会でその問題に熱心に取り組んでいた。
そういう活動をするうちに、朝鮮総連と日本共産党・日本社会党は、繋がりを深くしていった歴史がある。
特に、チョーコー生と日本人学校生との激しい衝突が起こっていた1960~80年代は、この2つの民族がお互い激しくぶつかり合うたびに、警察・司法・社会から、チョーコー生側が、必ず不利益を被るという差別的出来事が頻発して起こっていた。
そこに手を差し伸べたのが、人権・差別に関して理解のある、日本人弁護士や共産党・社会党系の議員たちであった。
そうして、チョーコー生の喧嘩・トラブルと共に、朝鮮学校と共産党・社会党の繋がりは強くなっていったのである。
午後10時ごろ、留置場に入れられていた、チョーコー生5人は、弁護士たち3人の助力によって、無事釈放された。
プモニム(両親)や朝鮮学校のソンセンニム(先生)たちは、弁護士・佐々木先生たち3人に感謝し、釈放を喜んだ。
しかし、この乱闘をどこで嗅ぎつけたか、警察がマスコミに流したのか、翌日の新聞の社会面に「高校生ら数百人、船内で乱闘騒ぎ」と掲載され、東京の学生と不良学生たちを大いに驚かされる事態となった。
だが、この新聞の見出しは、東京の学生たちだけでなく不良たちに「天下のチョーコー今なお健在」。
そう思わせるに十分なインパクトを与え、東京中を駆け巡った。
こうして、チョーコーvs目黒高校の船内での乱闘事件は、結果として、チョーコー最強伝説に、新たな一ページを加える結果となったのであった・・・・・・。




