東京チョーコーサッカー部・ソク・ソンミン part12
読者の皆さんが生きている、2026年の現在。
本名を名乗り様々な業界で活躍している在日コリアン(帰化者含む)は多い。
政治学者・姜尚中。
声優・朴璐美。
歌手・ソニン。
指揮者・金聖響。
サッカー選手・李忠成。
マラソン選手・金哲彦。
ソフトバンクグループ会長・孫正義。
TBSドラマプロデューサー・韓哲。
マルハン社長・韓裕。
アニメ『十二国記』や『暁のヨナ』や2018年平昌冬季オリンピックの開閉会式の音楽監督を担当した、作曲家兼ピアニスト・梁邦彦。
プロ格闘家・朴光哲。
作家・梁石日。
宝塚出身・安蘭けい。
そして、在日を公言し、朝鮮学校出身者として、初めて世界一を獲得し、多くの在日と朝鮮学校出身者たちに夢と希望を与えた、ボクシング元WBC世界スーパーフライ級王者・徳山昌守ことホン・チャンス。
一方、ソク・ソンミンが現役時代を生きている80年代はどうか?
80年代で最も有名な本名宣言(出自のオープン化)は、1981年夏の第63回全国高等学校野球選手権大会に京都商業高校(現・京都先端科学大学附属高校)の外野手として出場した、韓裕選手と鄭昭相選手の2人であろう。
2人は、スタメンとして活躍。チームは、甲子園決勝まで進んだ。
その際の決勝の相手は、エースで4番としてチームを引っ張る金村義明率いる報徳学園(兵庫)であった。
金村義明もまた、兵庫出身の在日コリアン3世であった。
試合前には、金村選手が、韓選手に対して「お前、本名で出るのか? すごいな」と声をかけたエピソードが残っている。
(金村義明氏と韓裕氏は、現在でも交友があり、親友関係である)
この決勝の両チーム(ベンチ入り含む)には、合計7名の在日コリアンが揃っていた。
この2人の出自をオープンにして甲子園という大舞台に出場した事を、テレビや新聞などのメディア等で観戦・知った在日コリアンたちに大きな衝撃を与え、大反響を呼んだ。
現在の2026年と違い、出自をオープンどころか本名を名乗る事など、日本社会や日本人からの圧力や、在日自身が差別を恐れ自主的に隠したりして、許されない、考えられない時代だったのだ。
だからこそ、この2人の本名宣言は、在日社会を大いに勇気づけた。
後日、2人の在日球児の元に、在日同胞から「勇気をもらった」「誇りだ」と書かれた大量の手紙が届けられた。
その数は、10箱分に相当する量であった。
ちなみに、韓裕選手は、その後、法政大学に進学し野球を継続。卒業後、現在は大手パチンコホール経営企業である「マルハン」の代表取締役社長に就任している。
そんな本名を出すだけで、いい意味でも悪い意味でも、日本社会に波紋を広げてしまう80年代。
ソク・ソンミンの本名宣言が、本人にとって如何に大変な重圧であるか分かるであろう。
だが、ソンミンは、その重荷と、考えられるであろう日本社会からの反発を覚悟のうえで、サッカー協会に提案・宣言したのであった。
関連して、90年代後半から芸能界で活躍している在日コリアン・井川遥の在日の出自に関して並びに、ある在日コリアン野球選手と孫正義が帰化する時の法務相とのやりとりの際に起こったある出来事の3例を読者の皆様に在日が本名を日本社会で名乗れない差別の一例としてお伝えしておく。
井川遥(本名、チョ・スヘ)、東京都墨田区出身の在日コリアン3世の女優である。
1999年に「東洋紡水着サマーキャンペーンガール」で芸能界デビュー。
そこから現在の2026年まで、女優としてドラマ、CM、モデルなど様々な分野で活躍している。
そんな彼女だが、芸能界デビューの際、所属事務所とあるもめ事が起きていた。
本名である韓国名でデビューするか否かである。
在日としてプライドがあった彼女は、事務所に「本名(韓国名)でのデビューを直訴」した。
だが、その際に事務所は、猛反対。
事務所が反対した理由は、
「日本名の方が、日本人から人気が出やすい」
というからであった。
彼女は、後に雑誌のインタビューで在日であると出自を公表した。
もう1つの例として挙げるのが、当時、西武ライオンズに所属していた、某在日コリアンの野球選手についてである。
1980年代、西武ライオンズに所属する、ある有名在日野球選手が、シーズン中に自分が在日である事を表明するために、記者会見の準備をしていた。
それを知った親会社である西武は激怒、その在日選手は、緊急トレードに出されてしまったのだ。
もちろん、記者会見は中止となった。
そして、最後は、ソフトバンクグループ会長として世界的にも有名な孫正義氏が帰化申請した際に、法務省とこんなやりとりがあった事を、豆知識としてお伝えしておく。
1980年後半、孫正義は、本名の韓国名で帰化しようと、法務省に申請に行く。
だが、その時の法務相の回答は、
「日本に前例のない『孫』という名字での登録は受け付けられない」
と、けんもほろろに却下された。
門前払いも同然の対応であった。
孫氏は、その後も何度も法務相に申請しに行くが、その度同様の理由で却下される。
そこで、孫氏は、諦めるかと思いきや、ある奇策にでる。
家庭裁判所へ申し立て、妻の姓を「孫」に変えたのだ。
「すでに『孫』という姓を持つ日本人が存在する」という前例が作ることに成功した孫氏は、法務省へ向かい、再度帰化申請を行う。
この孫氏の奇策に法務省も反論できず、1990年、見事「孫正義」という本名での帰化申請を勝ち取る事に成功したのである。
右翼・ネトウヨなどが「在日は本名を名乗れ!」「韓国人としての誇りがあるなら本名で生活しろ!」などとのたまうが、これら3つの事例からも分かる通り、日本人・日本社会が、在日コリアンに本名を名乗らせない様に制限・圧力をかけているのだ。
その理由は、明快だ。
「在日コリアンに本名を名乗らせ日本社会で活躍されると、それに負けた日本人どころか、日本人そのものが朝鮮人よりも劣ったと思われる」
からに他ならない。
そういう日本社会と日本人からの陰湿な差別・圧力に真っ向から、時には圧力をうまく躱し、奇策を用いながら、無名・有名問わず、多くの在日たちが、自身のルーツに誇りを持ち、自分たちの後輩たちが日本で少しでも生きやすくなるように、差別や圧力を恐れず本名を名乗ってきた歴史があるからこそ、2026年の現在、多くの在日・朝鮮韓国系(帰化含む)が本名を名乗って日本で生活できているのである。
中には当たり前と思ってる在日(帰化者含む)がいるかもしれないが、その権利は、多くの在日達の血と汗と涙で築いてきたものであり、一朝一夕で手に入れられたものでは決してないのである。
1980年 11月後半 富士丸サッカークラブグラウンド
「ソンミン!ソンミンはいるか~?」
富士丸株式会社体育会事務局事務員の男性が、ソンミンに用事があるらしく、グラウンドに向かって大声をあげていた。
タタタタ。
「なんですか?」
ちょうど、練習の休憩時間だったのもあり、ソンミンは、事務員の男性の元に駆け寄った。
「お、おどろくなよ!ソンミン、おめでとう!」
「え?」
「代表だよ!サッカー協会が、お前を日本代表に内定する事を決定したってよ!」
「ほんとですか!?」
「嘘なもんか!2部から代表なんて!お前すげーよ!」
事務職員の男性は、興奮で少し声が上ずっていた。
それもそのはず、当時、日本代表に選ばれる選手は一部の選手がほとんどで、2部から選出など考えられなかったのだ。
それだけ、サッカー協会がソク・ソンミンを高く評価してい証拠でもあった。
「おおおおおお!」
「すげー!」
「ソンミンおめでとー!」
事務職員の声が聞こえたのか、グラウンドの方から、チームメイト達から祝福の声が聞こえてきた。
グラウンドに戻ったソンミンに、チームメイト達から祝福として大量の水をかけられた。
「やったなソンミン」
「監督、ありがとうございます」
「だが、ここからだぞ」
「はい!」
八重樫監督もソンミンを祝福した。
(帰化申請しなきゃな・・・・・・大変だと聞くけど)
ソンミンは、自身の代表への道が見えてきたことで、帰化に関して本格的に考え始めた。
まずは、忙しい自分に代わって書類等作成してくれる弁護士か行政書士探しをしなければ。
ソンミンの気持ちは、前へ前へと向いていた。




